1. Your Memory

2


 食事を終え、トゥルー・アイズはルースをフェリックスの眠る部屋に連れていってくれた。
 フェリックスは穏やかな寝息を立てて、眠っていた。しかし、若干顔が青い。
「あたしが起きるまでは、フェリックスは起きてたのね?」
「ああ。もっとも、昨日はお前もうっすら意識が戻っていたがな」
「あ……」
 そういえば、と思い至る。誰かに囁かれて、水を飲んだ気がする。
「ルース。あれを見ろ」
 トゥルー・アイズが顎で示した先には、写真立てがあった。
 ルースは写真立てに近づいた。
「これは、フェリックス?」
「ああ、そうだ」
「そうなの……」
 今では想像もつかないぐらい弱々しい表情の少年。いつか彼の手帳に挟まれていた、写真で見た少年と同一人物だろう。では、あそこに映っていたのもフェリックスだったのか。
「ねえ、どういうことなの? あなたたちが、兄弟って呼び合っているのは……」
「右端に写る青年が、私たちの養父だったんだ」
「……牧師さん?」
 金髪の、穏やかな表情の青年は牧師のガウンを身にまとっていた。
「そうだ。彼は、シュトーゲル牧師」
「シュトーゲル……」
 フェリックスの苗字だ。
「よくわかったわ。あなたとフェリックスは、義理の兄弟だったのね」
「そういうことだ。もっとも私は、正式な養子というわけではなかったがな。フェリックスは、正式な養子だ」
「なるほどね。でも、それだけのことをどうしてフェリックスは隠していたの?」
 フェリックスは、自分とトゥルー・アイズの関係については言いたがらなかった。どうして、口を濁したのだろう。
「それは……あいつの、辛い思い出につながるからだろう」
「辛い、思い出?」
「ああ……。私からは、詳しく話せないが」
「わかったわ」
 ルースは引き下がり、写真を見つめた。
「この、牧師さんの隣の人はだあれ?」
 眼帯をした、荒々しい風貌の男性だ。
「彼は、エスペル氏――フェリックスの銃の師だ。牧師の友人でもあった。賞金稼ぎだから流浪の生活だったが、よくこの家に立ち寄って泊まった」
「……賞金稼ぎ?」
 そこで、ピンと来たものがあった。
「もしかして、ジェーンさんって」
「ああ。彼女も、彼の弟子だ。フェリックスがしばらくジェーンと行動を共にしていたのは、その縁あってのこと。エスペル氏はそのとき、怪我をしていてこの町に滞在していたからな。ジェーンに頼んだわけだ。今も、どこかの街をさすらっているだろう」
 ようやく、ジェーンとフェリックスの接点の始まりがわかった。そこでルースは、フェリックスが本当に過去を語らなかったのだと気づき――少し、哀しくなった。
「この家は、近所の人が厚意で管理してくれていた。たまに、エスペル氏も立ち寄っていたようだがな」
「……そう」
 そうしてルースは、室内を見渡す。生活感はないけれど、机に置かれた小物や何よりあの写真立てのおかげで、ここがフェリックスの部屋なのだと実感できた。
「そろそろ、医師がやってくる時間だな。ルース、一旦出ようか」
「ええ」
 そうして二人はまた、階下に移動した。食卓に座り、トゥルー・アイズの淹れてくれた熱いコーヒーをすする。
「あのー、トゥルーさん」
「何だ?」
「あなたはいつ、この家を出たの?」
「フェリックスと同じぐらいだ。フェリックスは、悪魔祓いとして実戦経験を積むためにもこの家を出た。もう、牧師様もいなかったからな……」
 そこでルースは、嫌な予感が当たったことに気づいた。いや、さっきからトゥルー・アイズの話を聞いていればわかったことだ。肝心の牧師が、今どうしているか……それが出てこないことに。
「牧師様は、亡くなったの?」
「……そうだ」
「だから、フェリックスもあなたも家を出た?」
「それもある。だが、私の場合は少し複雑だ。……実はレネ族には、通過儀礼がある」
「通過儀礼?」
「そう。シャーマンになる者は、子供の折に名前以外の記憶を消し――荒野に放り出される」
 思った以上に壮絶な話に、ルースは目を剥いた。
「生き抜くことのできた者は、いずれ記憶を取り戻す。そして一族のもとに帰るのだ」
「随分、危険な方法ね」
「……そうでもない。レネのシャーマンは、“よく見える”からな。どこが安全か、どうやれば安全に生き抜けるか、なんとなくわかるのだ」
「はあ……」
 勘が鋭いってことかしら、とルースは首を傾げた。
「私はふらふらと町を歩いていた。すると、シュトーゲル牧師が保護してくれてな。そして牧師が亡くなった後ぐらいに、私は記憶を取り戻したのだ」
「それまでは、フェリックスと一緒に育ったのね」
「ああ」
 もっと語ってくれるのかと思ったが、トゥルー・アイズはそれ以上は口を開かなかった。
 玄関で、ノックの音が響いた。
「ああ、医師が来たな。迎えにいってくる」
「ええ……」
 ルースはトゥルー・アイズの背を見送りながら、ため息をついた。
(フェリックス、大丈夫かしら――)
 それにしても、と思う。
 フェリックスがあんなに語らなかった理由。そして、牧師の死。おそらく、その二つは結びついている。

 医師の診断は、かんばしくないようだった。
 ルースとトゥルー・アイズは、死んだように眠り続けるフェリックスの寝顔を見下ろした。
「……このまま目覚めないと危ない、と言っていたな。もう体調的には目覚めても、おかしくないのに――」
 トゥルー・アイズはフェリックスの目蓋に手を伸ばし、びくりと手を震わせた。
「どうしたの?」
「まずいな。記憶に捕らわれているようだ」
「え?」
「フェリックスは――『見える者』だ。普通の人が見えないものを見る人間も、シャーマンの一種と言われる。つまり、フェリックスはシャーマンなのだ。シャーマンは、場の影響を受けやすい。特に体が弱っているときは」
 トゥルー・アイズの言っている意味がわからず、ルースは眉をひそめた。
「どういうこと?」
「この家には、フェリックスの記憶が染みついている。記憶は一種の磁場となる。だから、ここには連れてきたくなかったのだが、砂漠を抜けて一番近い集落が、ここだった。フェリックスの体調は余談を許さなかったし、早く休ませて医師に診せなくてはならなかった。……因果なものだな。どうやらフェリックスは、自らの記憶に捕らわれてしまったようだ」
「は、はあ」
 説明を聞いても要領は掴めなかったが、なんとなくわかってきた。
「つまりフェリックスは、昔の記憶を見続けているってこと?」
「そうだ。非常に危険な状態だ。フェリックスが見ている記憶は、いいものではないだろうからな――」
 トゥルー・アイズはしっかりとルースを見て、口を開いた。
「ルース、彼の記憶に入ってくれないか?」
「は、はあ!?」
「それしか方法がない」
「あたしでいいの? でも、フェリックスはあたしに過去を話したがらなかったし」
「……私では、だめだ。私は彼の過去に登場するから」
「そういうものなの?」
「ああ。無論、お前が記憶を覗いたことを知ればフェリックスは怒るかもしれない。それに、記憶に入る術は危険だ。断ってくれても、構わない」
 トゥルー・アイズは、淡々と続けた。
「もしあたしが断ったら、どうなるの?」
「……フェリックスはこのまま、目覚めないかもしれない。そうなると、死ぬ可能性も出てくる」
 ルースはぐっと唇をかみしめ、頷いた。
「そういうことなら、リスクは覚悟するわ。フェリックスは、砂漠で――あたしに水をくれたのに、自分では飲まなかったの。それに、そもそも砂漠に迷い込んだのはあたしのせい。責任は、取る」
 言い切ると、トゥルー・アイズは静かに頷いた。
「お前の覚悟、受け取ろう」

 ルースはフェリックスの横に寝転ぶことになった。
 あまり大きなベッドではないので、正直狭い。しかしフェリックスは寝返りすら打たないので、ベッドから落ちることはないだろう。
 トゥルー・アイズは不思議な匂いのする草に火をつけ、煙を室内にくゆらせた。
 そしてルースとフェリックスの額に、指に浸した青い顔料で絵を描いた。フェリックスの額には丸い印。ルースの額には、縦の線が描かれた。
 トゥルー・アイズは同様に、自分の額にも青い線を引いた。
「“私”が出てくるまでは、私も同行しよう。途中で、私はいなくなる」
「わかったわ。具体的にあたし、どうすればいいの?」
「記憶が繰り返そうとするとき、一瞬空間が歪むはずだ。その時にフェリックスの手を取り、記憶の外へ連れ出してほしい。なんとなく、外はわかるはずだ」
「……了解」
 本当にわかるのか、不安ではあった。
「ではルース――行こうか」
 トゥルー・アイズは傍らにあった椅子に座り、歌うように知らない言語で呟いた。
(まるで、魔法の呪文ね)
 眠気はほどなくして、訪れた。



 暗い部屋に、鞭のしなる音が響いた。
 少年の悲鳴が聞こえ、ルースは思わず飛び出しそうになる。
「だめだ。今、干渉してはならない」
「……でも」
「だめだ」
 冷静に諭され、ルースは拳を握りしめる。
「見ているしか、ないっていうの?」
 ルースはじっと、目の前の光景を見据えた。
 背の高い女が、子供の背中を鞭打っていた。
「この、恥知らず! 嘘つき! あれほど、嘘を言うなと教え込んだのに!」
「……嘘じゃ、ない。僕は本当に――悪魔を見たんだ!」
 母親と思しき女を振り向いた少年の顔は……フェリックスのものだった。今と違って、信じられないぐらい弱々しかったけれども。
「黙りなさい! お前は本当に、放蕩者で嘘つきの父親に似たね!」
 鞭は少年を打ち、血が流れた。
 痛みに叫ぶ少年を見下ろし、女は告げた。
「しばらくそこで、反省していなさい。まだ嘘を言うようなら、また鞭打つよ」
 女はルースたちの方に歩いてきたが、こちらには全く気づかずに部屋を出ていってしまった。
 少年の泣き声が、痛々しい。
(駆け寄ってあげたいのに)
 そして扉の開く音がして、見知らぬ少年が入ってきた。
 プラチナブロンドに青い目。このフェリックスよりは、年上だろう。面立ちが少し似ているところを見ると、兄弟だろうか。
「……兄さん」
 少年は、入ってきた少年を見上げて震えた声で呼ぶ。
「馬鹿だな、エヴァン」
 エヴァン、という名前にルースは首を傾げた。
(エヴァン……? フェリックスじゃ、ないの?)
「どうして、悪魔を見たなんて言うんだよ。言わなきゃ、母さんだって怒らないのに」
「……だって。悪魔に取りつかれた人は、死んじゃうんでしょう? 見える僕らが何とかしてあげないといけない、って。それが悪魔祓いの役目だって、父さんが」
「父さんは死んだ。そして母さんは、悪魔のことも悪魔祓いのこともちっとも信じちゃいない。……なら、黙っておいた方が得策だろう?」
 兄弟の会話を聞き、ルースは納得した。
(フェリックスのお父さんも、悪魔祓いだったのね)
 なら、父の生業を引き継いだというところだろうか。
「でも……」
「でも、じゃないよエヴァン。お前は要領が悪すぎるんだ。実際、お前は鞭打たれて僕は鞭打たれていない。わかったか?」
「……」
「ほら、手当してやるから行こう」
 兄の差し出した手を、エヴァンはそっと取って立ち上がった。
「それにしても、父さんが死んでからの母さんは益々陰気な女になったよな。あれでも、外では尊敬されてる教師なんだっていうから笑うよ」
 兄の嫌味にも、エヴァンは笑っていなかった。
 そして、場面が転換した。