ニライカナイの童達
第四話 許嫁 2
おぼろな月明かりに、トゥチは鋭い刃をかざした。
反射した光が、無表情な顔を照らす。
小刀の柄を握りしめてトゥチは深呼吸を繰り返したが、彼女は影が差したことに気付いて振り返った。
「何してるんだ」
ククルの兄となった、夜のような目を持つ少年がそこに立っていた。
「……あなたは」
「ククルを殺す気か」
「いいえ」
「あんたは嘘ばっかりだな」
ユルはトゥチに近付き、小刀を持つ腕をねじり上げた。
「痛いわ」
「答えろ。殺す気か」
「……いいえ」
再び、彼女は頑なに否定する。
「嘘をつくな」
力強く問い詰めると、トゥチは体に入れた力を抜いた。
「そうだと言ったら、どうするの」
「止める。あいつを殺されたら、オレが困るからな」
ユルの真剣な目を見て、トゥチは眉をひそめた。
「あなたが、ククルの兄だから?」
「オレの理由はどうだって良いだろ。ククルは殺すんじゃねえ。たとえ憎くても」
ユルの言葉が耳に痛いのか、トゥチは片手で耳を塞いだ。
「そんなにククルが憎いか」
「……当たり前よ!」
トゥチの鋭い語気に怯むこともなく、ユルはその間にトゥチの手から小刀を奪い取った。
彼女はそのことに気付いているのかいないのか、小刀のことなど忘れたように秘めていた怒りを吐き出し始めた。
「ティン様を守ることが、あの子の役目だったのよ! なのに、その役目を果たさなかった! 私があの子だったら、何をしてでもあの人を死から守ったわ!」
彼女の目から、熱い涙がこぼれる。
「でも私じゃ、オナリ神(守り神)にはなれなかったのよ! 私は許嫁であって、姉妹じゃなかった……。あの人を守れるのは、姉妹であるあの子だけだったのに、むざむざ死なせたのよ!」
「……良いことを教えてやろうか」
ユルは荒い息をつくトゥチの耳に、囁き掛けた。
「ティンは、ククルの祈りが足りないせいで死んだんじゃない。神の怒りを買い、死んだ」
「嘘よ――」
一瞬怒りが収まったように見えたが、トゥチは迷いを振り切るようにまた声を荒らげ始めた。
「あの子が死なせたのよ……。じゃなきゃ、私は誰を憎めば良いのよ――!」
ユルが手を放すとトゥチは膝を付き、両手で顔を覆って泣き出した。
「姉様」
いつの間に来たのか、ククルがユルの後ろに立っていた。
「ククル……」
呆然とするトゥチの前に跪き、ククルは小刀を差し出す。
「そんなに私が憎いなら、殺して下さい」
「何て……」
「大丈夫。姉様に殺されても、哀しくない。私は兄様にも姉様にも、いっぱい温かいものもらったのに、何も返せなくて……それどころか兄様を死なせてしまった」
ククルの表情は、晴れやかでさえあった。
「だから姉様の気が済むのなら、どうぞ」
「ククル?」
トゥチは差し出された小刀とククルの顔を交互に見て、震え出した。
その時、いきなりユルがククルの肩を掴んで振り向かせ、呆然とする彼女の頬を平手打ちした。
じんじんと疼く頬に手を当て、ククルはユルを見上げる。
「てめえら、揃いも揃って本当に馬鹿だな……」
ユルは怒っていた。その深い色をした目が、激しい怒りを宿す。
「お前の兄貴は、惚れた女が妹を殺すことを望むような外道なのかよ!?」
「……兄様、が」
ククルは死んでしまった兄を脳裏に思い描いた。
『私達は共に幸せになろう』
違う。絶対そんなこと望まない。強くて優しい人で、いつだってククルやトゥチを大切にしてくれた。
だけど。
「だけど、辛いよ。辛いんだよ、ユル。トゥチ姉様が辛い気持ち、すごくわかるの。憎む気持ちも、すごくわかるの……」
伝わって来る気持ちが自分の気持ちと同調して、いたたまれない。
ククルは赤くなり始めた頬を押さえながら、独白を紡ぐ。
「私だってトゥチ姉様の立場なら、そうだもん。妹を憎むよ」
守れる立場にありながら、力と祈りが足りずに兄を死なせた役立たずだと――。
自己弁護の言葉すら、浮かんで来ない。
しばしその場を支配したのは、重々しい沈黙だった。
「……ククル。少し、あっちに行ってて。この子と話があるわ」
トゥチは緩慢な仕草で、ククルを押しやった。
ククルは傷付いた様子もなく、ただ唯々諾々として向こうに行ってしまった。
「ティン様が死んだのは神々のせいというのは、本当?」
長い間を経て、ようやくトゥチが口を開く。
「ああ。だが、ククルには言うな」
「どうして? その情報が誰より必要なのは、ククルじゃないの」
「もちろんそうだが、それを知るとククルが危険になる」
ユルの言葉に、トゥチは眉をひそめた。
「誰にも教えない予定だったが、あんたには特別に教えてやるんだ。感謝しろ」
「ククルを殺させないために?」
「まあ、そうだな」
「よくわからないわ、あなた。ククルを大切にしてるようには、見えないのに」
トゥチがいぶかるも、ユルは曖昧な笑みを浮かべただけだった。
「神々が殺したなら……どうしようもなかったわけなのね」
「そういうことだ」
ユルは簡潔に答え、トゥチに背を向けた。
「待って。あと一つだけ」
トゥチは小さく、ユルに問いを放った。
「私は一体、誰を憎めば良いの……?」
「オレが知るかよ」
言い捨て、ユルはトゥチを後に残して行ってしまった。
ククルは布団にくるまり、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。何が哀しいのかもわからず、涙にくれていた。
ふと誰かの気配がする、と思ったら布団越しに誰かの手が背中に置かれた。
「好きなだけ泣けよ」
ユルの声だった。
「護衛も兼ねて、今夜は傍に居てやるから」
それを聞いて、ククルはしゃくりあげながらひたすらに泣いてしまった。
呼吸を楽にしてやろうと背を撫でるユルの手が、飢えるほど欲しかった本物の優しさを伝えてくれた。
泥のように深い眠りから目を覚ますと、朝の光が差し込んで来ていた。
傍にトゥチが居ることに気付き、起き上がって後ずさるククルの肩をユルが叩く。
「反省したようだぜ」
「反省?」
「ええ、ククル」
トゥチは哀しそうに微笑んだ。哀しみは混じっていても、以前のような嘘混じりの笑顔ではなかった。
「私は醜かったわね。哀しみを昇華出来ないからって、あなたを憎むことで紛らわせようとした」
「でも」
「聞いて、ククル」
やんわりと、トゥチの手がククルの頬に添えられた。
「憎しみで哀しみを紛らわせることは出来ても、哀しみが消えるわけではないの。そんなことを、私は忘れていた。そして、あなたもまた辛い思いをしているのだということを敢えて考えないようにして、あなたに憎しみを向けてしまった」
「姉様……」
「ごめんなさいね、ククル。謝って許してもらえるかわからないけど……」
うつむくトゥチに、ククルは飛び付いた。
「前みたいに、接してくれますか」
ククルの問いにトゥチは一瞬迷ったようだが、それこそがククルの望むことなのだと悟ったのか、深く頷いた。
「ええ……。もちろんよ」
トゥチはククルの背を撫でながら、ユルを見据えた。
「あなたには感謝するわ」
「あっそ」
ユルは何でもないように返事をした。
「ククル、あなたの旅に私も混ぜてくれないかしら」
「え?」
ククルはトゥチの提案に、顔を上げた。
「都まで行くと聞いたわ。都までは、あまりにも遠すぎる。二人だけより、私も居た方が道中楽になると思うの」
トゥチは敢えてユルの方を見ないまま、ククルを熱心に説得した。
元々トゥチになついているククルが断るはずもなく、彼女は顔を輝かせた。
「姉様、付いて来てくれるの? やったあ!」
「待てよ」
ユルが口を出すと、トゥチは彼の方を見て首を傾げた。
「私が行っては、不満?」
「ああ。お前がククルをもう一度殺そうとしないって保証が、ねえだろ」
一気に、その場の温度が冷えた。
「何てこと言うの、ユル……!」
「良いのよ、ククル。実際私はあなたを憎み、彼に止められた」
トゥチは静かにククルを制し、一呼吸置いてから続けた。
「心配なら、あなたが私を見張ってちょうだい」
「そして、お前がオレを見張るってか」
ユルの自嘲気味な言葉に、トゥチは首を縦にも横にも振らずにじっとして、ククルを固く抱き締めていた。まるで、目の前の少年から守るように。
「ふん、良いだろう」
ユルは鋭い笑みと共に承諾の言葉を口にしてから、立ち上がってどこかへ行ってしまった。
「姉様、どうしてユルを見張るの。ああ見えて、ユルは結構優しいよ?」
昨夜のことを思い出しながら、ククルはトゥチに訴えた。
「ええ、確かに優しい子だとは思うわ。けれど、彼が危険性を持っていることも否定出来ない」
トゥチは赤い唇を噛み、ウイと同じようなことを言っていた。
「どうしてそんなこと言うの。ユルは、ばば様が連れて来た子だよ」
「あの子は、どうして自分があなたの兄になったのか……なれるのか決して言わなかったわ。あの子は、あなたを利用するつもりかもしれない」
トゥチは顔を曇らせたが、ククルは別に驚きもせずにゆっくり首を縦に振った。
「知ってる。ユルはそう言ってた。私を利用するつもりだって」
「あなたはそれで良いの?」
「うん。ユルは代わりに、自分に頼ってくれても良いって言ってくれたもん」
ティンとのように、肉親の情でつながれた関係ではない。むしろ契約のような、無機質なものでつながっている気がする自分とユル。
「よくわかんない関係だし、ユルは時々酷いことも言うよ。でも、何でか嫌いになれないの。私が困ってたら、いつも助けてくれたし……」
ククルの命を救うだけではなく、昨日は慰めもしてくれた。あのいたわりに打算が絡んでいたとは、どうしても思えない。
嫌いだと言葉を叩き付けても、本当に嫌いにはなれなくて。時々見せてくれる優しさが心地良かった。
「そう……わかったわ。でも、あの子が何か隠していることは事実よ。だから私は、あの子を見張るわ。お願い、ククル。ティン様の代わりに、あなたの力になりたいの」
トゥチに手を取って請われ、ククルは笑った。トゥチが心配してくれるのが嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
「姉様、ありがとう」
外を歩き回って、ようやくユルを見付けた。
「ユル!」
名を呼んで近付くと、砂浜に腰を下ろしていたユルは目を細めて振り返った。
「何だよ」
「姉様も一緒に旅しても良いよね?」
「好きにすれば良いだろ」
ユルはしかし、面白くなさそうだった。
「姉様、嫌なの?」
「別に。女が苦手なだけだ」
ユルの台詞に、ククルは思わず笑ってしまった。
「何で笑うんだよ」
「だって、おかしいもん」
(いつもツンとしていて苦手なものなんかなさそうなのに、よりによって女の人が苦手なんて――ん?)
ククルはそこまで心中で呟き、はたと思い当たった。
「あれ? じゃあ私のことも苦手なの?」
どうも、そういう風には見えないが……。
「はあ? あ、そういえばお前も女だったっけ。いや、お前みたいなのは別だ」
ユルは大口を開けて、からから笑った。
「別ってどういうこと」
「女っ気ないから、分類されないってことだ」
「なるほど!」
ククルは手を打って納得したが、一瞬で形相を変えた。
ククルが帰って来ないので捜しに来たトゥチは、砂浜で取っ組み合う二人を目撃して、大声をあげた。
「何やってるの二人共! 止めなさい!」
トゥチが羽交い絞めにすると、ククルはばたばた暴れた。
「姉様、止めないで! 今、この失礼な奴にお仕置きしてるんだから!」
「何が失礼なんだよ! 事実言って何が悪い!」
「事実って何――!」
ククルはトゥチの腕を振り払い、またもユルに組み付いていた。
「仲の良いこと……」
万感の思いをこめて息をつき、トゥチはまた仲裁に取り掛かるのだった。