ニライカナイの童達

第六話 人魚 2


 この島を取り巻く海には、人魚が住むのだという。
 朝食の前、人魚が奉られている御獄《うたき》に祈りを捧げた後、ククルは家に戻った。
「人魚を、見たことあるんですか?」
 朝食の際に尋ねたところ、夫妻は困ったように笑った。
「いや、私はないね。この頃は滅多に取れないんだ。昔はたまに網に引っかかったらしいんだけどね」
 主人の横で、夫人の顔が少し暗くなった。
「なのに、今の王様と聞得大君《きこえのおおきみ》は人魚の肉がとても欲しいらしい。王府の取り立ては厳しいよ」
「王府の取り立て……って、取れないのに人魚を欲しがるってことですか?」
 ククルはびっくりして、もう少しで箸を落とすところだった。
「ああ、そうだ。人魚の肉が取れなければ、人身御供を捧げろとまで言って来た」
 主人の言葉に、ククルだけでなくユルも目を剥いていた。
「あの時、追い払ったのに……まだ懲りずに?」
「むしろ、ひどくなってしまったんだ。ここの担当である官吏が変わったんだが、どうしようもない女好きでね。このままでは、それを理由に集落中の女が連れ去られてしまうかもしれない」
 俄然、ククルは腹を立てた。
「そんなの、ひどい!」
「全くだ。しかし、人魚を取らねばどうしようもないんだ……」
 彼らは呻き、苦悩していた。

 寝転がって部屋の中から海を眺めるユルに、ククルは声を掛けた。
「ユル。前にここに来た時、役人を追い払ったって……本当?」
「ああ。でも一時しのぎだったみたいだな」
「じゃあ……私達で役人を、とっちめちゃおうよ」
 ククルの発言にユルは眉をひそめて振り返った。
「今回も、一時しのぎに終わるさ」
「だからって、何もしないのは……」
「何もしないとは、言ってないだろ。今、考えてるんだ」
 ククルは思わず、きょとんとしてしまった。どうやらユルはよほど、ここの夫妻に恩義があるようだ。
「あー、くそ。いてえ……」
 体をひねった拍子にユルが呻くのを聞いて、心が痛んだ。
(どうして……神の力が通じなくなったんだろう? 神の力がなくちゃ、私なんてただの役立たずだよ……)

 夜中に、三線《サンシン》の音色で目が覚めた。
 ユルが縁側で、青に沈んだ庭を見ながら、三線を奏でている。
 心地良い音に、ククルはもう一度目を閉じる。
(そういえば、ティン兄様も三線が得意だった)
 だけど同じ三線でも、奏者が違えば全く違ったように響く。
(兄様の音とは、全然違う…)
 ティンの弾く三線は、からりと晴れた日の太陽のごとく明るい音色だった。
 ユルの弾く三線は――どこか、憂いを秘めていた。夜に溶ける、海のごとく。
(聞いてるだけで淋しい。ああ、そうか。きっと誰かに捧げているんだ)
 おそらくは――あの、墓の主に……。

 事件は、翌日に起こった。
 朝食後、ククルがぼんやり散歩をしていると、絹を裂くような悲鳴が聞こえたのだ。
「止《や》めて!」
 女は涙を浮かべ、官吏達の手から逃れようとしていた。
「ちょっと、あなた達!」
 島人が遠巻きにする中、思わずククルは駆け寄って怒鳴った。
「その人、止めてって言ってるよ!」
「何だあ?」
 官吏の男はククルをねめつけ、吐き捨てた。
「けっ、ガキか」
 むっとして、ククルは頬をふくらませる。
「しょうがねえだろ。人魚を捕まえられないんなら、女でも手土産にして帰るしかないんだ」
「勝手な理屈だね!」
 ティンもユルも傍に居ないのに、ククルは妙に強気であった。妙な高揚感がある。
 神の力が使えなくて自信をなくしていたため、他に何か自分に出来ることはないかと模索していたのかもしれない。
「――じゃあ、お前が人魚を捕まえて来いよ」
 官吏は笑って、女の手をねじりあげた。彼女の細い喉から、震える声が迸る。
「止めて! ……だったら、女の人達にもう手は出さない!?」
「ああ、約束しよう」
「なら、わかったよ」
 ククルはこうして、無謀とも言える約束をしてしまったのだった。

 きっと、人魚は見つかる。神の力があれば――
 そう思ったところで、今は神の力が発揮出来ないことを思い出した。あまつさえ、ユルは負傷中だ。
「ああ、しまったあ」
 ククルは唇を噛み、首を振った。
(ユルが居なくても、大丈夫。神の力がなくても……何とかなる)
 ヤナと出会ってから、ククルの中には使命感が生まれた。神の世界とつながる者だからこそ、なるべく人を助けたい。
 今は素朴な想いだが、それはきっといつか大きな夢に育つだろうと思っていた。

 ククルは一人で青い海に潜り、水底に向かって泳いだ。
 手を組んで、海の神に祈りを捧げる。
 ――人魚を、私に見つけさせて下さい。
 すると突然、ぐらりと視界が歪んだ。


「あのお嬢ちゃん、役人相手に啖呵切ったらしいじゃないか」
 イチの言葉に、ユルは目を見開いた。
「あいつが?」
「ああ。女を解放させたいなら人魚を捕まえて来いって言われて、承諾していたそうだ。今頃、海に潜ってるのかね……」
「何で、止めないんだ!」
 形相を変えたユルを見て、イチは戸惑ったように眉をひそめた。
「あいつは、本当に捕まえて来るかもしれないぞ――」
「それが悪いのか?」
「ああ! あんたも知ってるんだろ?」
 ユルは一呼吸置いて続けた。
「人魚が陸に上がると、津波が起こるって言い伝えを!」
 島に住む者にとって、津波ほど恐ろしいものはなかった。人や集落を、あっと言う間に飲み込んでしまう大きな波――。
「だから、オレや先生も一緒に官吏を追い払ったんだろ! 何であんたも一緒になって、人魚を捕まえようとするんだ!」
 ユルに睨まれ、イチは目を逸らした。
「あなたは、気付かなかったのか。この家に、一人欠けていることに」
「一人って、まさか――」
 ユルは目を見開いた。
「娘……か?」
「ああ。私の娘も、官吏に連れて行かれている。今頃、どんな思いで……」
 静かに泣き始めた彼を、ユルはばつの悪そうな顔で見やった。
「……悪かった」
「――ともかく、私は人魚を捕まえる。娘が居なくなったら、津波が起こらなくても……私の世界は終わりだ」
 イチの横顔には、深い苦悩が滲んでいた。
 ユルは彼から目を逸らし、散々ためらってから腰を上げる。
「……どうするつもりだ」
「ククルを止めて来る。その後で、オレ達であんたらの娘さんを助けてやるよ」
「そんなことが出来るはずが……! 彼でさえ、命を落としたのに!」
「大丈夫だ」
 静かに、ユルは告げる。
「オレは、前より強くなった。――あいつのおかげでな」
 怪我の痛みを堪え、ユルは走り出した。

 誰かに呼ばれた気がして、目が覚める。ククルは海面に仰向きで浮いていた。
(眠って……いた?)
 その時、ぞっとするような気配を海の中から感じた。意を決してもう一度、青い海の中に潜る。
 陰が、段々と大きくなる。
 海の底から現れたのは、黒い髪をゆらゆらと青黒い体にまとわりつかせた生き物だった。
 乳房は剥き出しで、下半身の鱗がぎらぎらと光っている。
 髪に隠された顔の美醜はわからないが、大きく裂けた口は人間というよりも魚類に近いように思えた。
(あれが、人魚……)
 海の神がこれほどあっさりと願いを叶えてくれたことに驚きながらも、ククルは人魚に手を伸ばした。
 いきなり誰かに羽交い締めにされて、ククルは振り向く。そこにいたのは、ユルだった。
 ユルは人魚に向かって、鉈を一閃する。
 驚いた人魚は二人から慌てて離れ、再び海の底へと泳いで行ってしまった。
 二人同時に水面に顔を出してから、ククルは泣きそうになりながらユルを怒鳴った。
「何てことしてくれたの!? あとちょっとで、人魚が捕まえられたのに!」
「落ち着け。人魚は、捕まえない方が良いんだ。人魚が陸に上がると、津波が起こるから」
 ユルの説明を聞いて、ククルは呆気に取られた。
「――嘘」
「本当だ。官吏が女達を連れ去ったりして島人を脅したのは、そういった理由が背景にあるからだ」
「そんな……じゃあ、官吏はこの島が津波で沈んで良いと思ってるの?」
 ククルが問うと、ユルは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「というよりは、迷信だと思ってるんだ」
「ユルから見て……迷信では、ないんだね?」
「ああ。確実にそうだは言えなかったが、さっきの人魚を見るにやはり本当だったんだろうな。あれはどちらかというと魔物《マジムン》だ」
 確かに――とククルは同意する。人魚が海底からやって来た時に感じた悪寒は、警告だとしか思えなかった。
 人魚の肉は不老不死の力を授けるという。そんな生き物が、ただで捕まるはずがない。こういったものには、何らかの代償があるはずだ。
「もし、わかんねえからって人魚を捕まえて津波が起こったら……お前、どうせ落ち込むだろ」
「――そう、だね」
 ククルは驚きながらも感動していた。ユルが、そういう風に自分のことを考えてくれたのだと思うと、感極まってしまった。
「ユル、ありがとう」
 改めて礼を言うと、ユルは肩をすくめた。
「別に」
 二人は浜辺まで泳ぎ着き、しとどに濡れた姿で改めて向き合った。
「女達を、お前も助けたいだろ」
「ん? うん、もちろん」
「じゃあ、オレに力を貸してくれ」
 ――初めてだった。ユルが、ククルに“頼む”のは。
 そして、彼は心の底から言っているのだと、声に滲む必死さから痛いほどわかった。
「――良いよ」
 ククルは手を組み、祈りを捧げた。ユルの体が青い燐光を帯び、彼は微笑む。
「……傷、治った。ありがとな」
 ユルがこんなに素直だと、調子が狂う。
「何で、いきなり……?」
 今まで、当たり前のように力を貸し借りする関係だった。それが悪いというのではない。ククルの家での、兄と妹はそういう関係でそれが当然だ。
「やっぱ、当たり前だと思ってたもんがいきなりなくなると……感謝したくもなるんだ。それだけだ」
 ユルは踵を返し、告げた。
「行こう」

 官吏の住まう屋敷の扉を破り、大慌てで飛んで来た警備の者に告げる。
「これ以上破壊されたくなけりゃ、女達を返すんだな」
「ふざけるなっ!」
 飛び掛かって来た兵士達は、ユルが鉈を一振りしただけでほうぼうに吹っ飛んでしまった。
 ユルとククルは屋敷に土足で上がり、奥を目指した。

 そうして辿り着いた奥の間で、一番偉いと思しき官吏は震え上がっていた。
「お、お前……いや、あなた様は……」
 何かを言い掛けた官吏の喉に、ユルは黙って刃を当てる。
「ややや、止めろ……!」
 官吏は情けない声を出し、手を上げた。
「何でも、何でもするから!」
「じゃあ、どうやっても人魚は見つからなかったので帰る、という文書を王府に送ってから帰れ」
「わかりました!」
 官吏は鉈を構えるユルの目前で、泣きながら文書をしたためる羽目になったのだった……。

 官吏達を乗せた船が出発した後は、広場で島人達で祝杯をあげた。
 もちろんその中心には、ククルとユルが居た。
「いやあ、ありがとう! お二人さん!」
「どっちも素晴らしい! 神の力ってすごいんだね!」
 褒められ持ち上げられて、ご馳走と酒を振る舞われて。ククルはすっかり良い気分になっていた。
 だからこそ、いつの間にかユルが席を外していたことに気付くのが遅れたのだ。
「……ユル?」
 ククルは酔っぱらう島人達に少し涼んで来ると告げて、そっと立ち上がった。

 やはり、ユルはそこに居た。
 彼は墓を見下ろし、立っていた。微動だにしないものだから、まるで時が止まっているかのようだった。着物と髪が海風に揺れているので、そんなことはないとすぐにわかるのだけれど。
 気配に気付いたのか、ユルは少しだけ首をこちらに向けた。
「何しに来たんだ」
 ククルは答えず、そのまま地面に腰を下ろした。膝を抱え、じっとユルの反応を待つ。
 するとユルは首を元の位置に戻し、彼自身も地面の上に座って墓を見つめた。
(ユルは今も、何も語ってくれない。こんなにも距離が空いている。でも――)
 今はこれが自分とユルの精一杯。そして、これで良いと思った。
 自分がここに座っていることを許容してくれただけでも、凄いことなのだろうから。
 しばしの間、二人はそうしていた。
 きっと奇妙な光景だったろう。墓を見つめる少年と、その後ろで座り込む少女。
 遠くで聞こえる賑やかな祝杯の声と潮騒に耳を傾けながら、ククルは目を閉じた。
 どのくらいそうしていただろう。喉が渇いたので、ククルは静かに立ち上がった。
「ユル。私、先に帰っとくからね」
「ああ」
 ユルの背中に声を掛け、返事を確かめると、ククルは広場へ戻るべく歩き出した。

 ユルが居る場所から大分離れた時、いきなり男達が立ちはだかった。
「あなた、達は」
 出て行ったと思っていた、官吏達だ。
 唖然としている間にククルは彼らに腕を掴まれ、口を塞がれて力なくもがく。
「お前のこと、知ってるぞ。神の血を引く兄妹の片割れだ。一人だと、無力なんだろ?」
 ぐっと腕をねじられて上げた悲鳴も、くぐもって響く。
「神の娘とは面白え。人魚の代わりに、お前を王府に献上してやらあ!」
「しかし……こんなことをしたら、あの人が……」
「うるさい! 手ぶらで帰れば、もっと酷いことになるだろ!」
 管理達が話すのをよそに、ククルはもがく。するといきなり思い切り腹を殴られ、そのまま意識を失ってしまったのだった。