ニライカナイの童達
第七話 血族 3
翌日、ユルは昨日教えてもらった店を訪ねた。
「おや、いらっしゃい――」
店主はユルの姿を見て凍りつく。
「あなたは……どうしてここに?」
「知らせに、来た」
ユルは店に入り、開きっ放しだった戸を閉めた。
「倫《りん》先生が、死んだこと」
店主の腕から、陶器の椀が滑り落ちる。売り物だろうに、彼は粉々になってしまった欠片を、呆然として見下ろすだけだった。
「倫先生が――一体、どこで!?」
「この島から出て、人魚の島と呼ばれる島に行った。そこで……役人に殺されたんだ。島人を苦しめる役人が許せず、争い――殺されてしまった」
口にすれば、ただただ苦い真実だった。
「それは……あなたと逃げたせいも、あったのでしょうか」
「――そうだろう。お尋ね者だからこそ、役人もためらわずに……殺したんだ」
あの時、ユルは悔いた。悔やんで悔やんで、痛みが残った。どうして自分一人で逃げなかったのかと、泣きたくなった。
「倫先生――」
店主は泣き、異国の言葉で嘆いた。
久しく聴いていなかったその言語を耳にし、ユルは目を閉じる。
「先生が死んだ後、一人で旅をしていたのですか……?」
問われ、ユルは小さく頷いた。
「先生が亡くなって、オレももう死んで良いやと思ったんだ。だけど不思議なもんで、そう思ったらなかなか死ねないんだな……人間って」
ユルは自分を嘲笑うような笑みを浮かべ、壁に体をもたせ掛けた。
「今は、思っていないと?」
確かめるような質問に、ユルは間を空けてから答えた。
「ああ。力を手に入れたから、やりたいことがある。それまでは絶対死んだりしない」
その返答に含まれた危うさを察することもなく、店主はそれはよかったと呟いていた。
その日、ククルはカジとトゥチの仕事を手伝うことにした。することといっても雑用ぐらいしかないが、やることがあると余計なことを考えないで済んだ。
(私、警戒してる。クムさんのこと――)
理由もわからず、ククルの心は勝手に緊張することがある。それは予知の力が働くためだと昔、ティンが言っていた。
(何で、嫌な予感がするんだろう……)
ユルの名前を聞いた時、クムはがっかりしたようだった。つまり――ユルでない、ククルの兄を期待していたのだ。
つまりはティン――。
(兄様のことを、何か知っているのかもしれない)
ククルは心に決めていた。ユルには内緒で、一足先にクムに会いに行こうと。
一日ぶりに着いたあばら屋の縁側には、クムが座っていた。昨日と様子が違うと思ったのは、昨日は背筋を伸ばして座っていたクムが、猫背になっていたからだ。
「あの、クムさん――」
近付いた途端に、燃えるような目で睨まれた。
「お前は誰だい」
しわがれた声が、耳を打つ。
「あの子を、あの子を取りに来たのかい――!」
掴み掛かられそうになってククルは身をすくめたが、すんでのところで老人がクムを羽交い絞めにしてくれたので大事には至らなかった。
「お嬢ちゃん。大丈夫かい」
「ごごご、ごめんなさい」
ククルは裏返った声で謝り、頭を下げた。
「お嬢ちゃんが謝ることじゃあないけれど……今日はお加減が悪いようだね。クム様、床で休みましょう」
クムは髪を振り乱して叫び続けていた。その様があまりに恐ろしくて、ククルは目を逸らしてしまう。
昨日は、クムが気が触れた女性だということが信じられなかったが、今はよく――わかる。
「お嬢ちゃん、表から家に入っておくれ。私はクム様を寝かせて来る」
「は、はい」
ククルは踵を返してから、このまま帰った方が良いのではないかと考えたが、老人に諾の返事をしてしまった後だったので、おっかなびっくり家に入って行ったのだった。
薄い茶を出され、ククルは恐縮して頭を下げた。
「あの、いきなり訪ねて……ごめんなさい」
「いいや。こちらこそ、申し訳ないね」
老人は気を悪くした様子もなく、自分の茶をこくりと飲んだ。
「何か用だったのかい。また人捜しかい?」
「――違うんです。どうしても、気になることがあって」
ククルは散々ためらった後に、ようやっと口にすることにした。
「昨日の、クムさんの反応が……。あの、おじいさん。私は“神の島”の――神の血を伝える家から来たんです」
その言葉を聞いて、老人の表情が強張った。
「昔、ノロだったというならクムさんはうちの親戚なんじゃないかと思って。でも昔、兄様と挨拶回りに来た時、ここには寄らなかった。何でかな、って思って」
この諸島のノロは大体親戚筋と思ってくれて間違いない、と祖母が言っていたことを思い出しながらククルは恐る恐る語った。
「……あなたが」
老人は絞り出すような声を出し、うなだれた。
「お引き取り下さい。クム様の様子がおかしくなるわけだ」
いきなり追い払われる形となり、ククルは面食らいながら立ち上がった。
「あの、おじいさん」
「失礼なのは承知しています。されど、あなたはここに居てはいけない。クム様に、殺されるかもしれない」
物騒な台詞に息を呑み、ククルは頷いた。
「事情は、話してくれないんですか……」
「話す時間が勿体ない。さあ、早く!」
鋭く言われ、ククルは今度こそ老人に背を向けたのだった。
ククルが家を飛び出した時には、もう日が暮れてしまっていた。
ひたすらに走る。静寂《しじま》の溢れる獣道に、草履が砂を蹴る音だけが響く。
息が苦しくなって喘ぎ出した頃、急に首を掴まれた。
「お前の血の匂いに――もっと早く気付くべきだった」
低い、女性の声。――クムだ。
あの細腕をもって信じられない強力で持ち上げられ、ククルは足をじたばた動かした。
「放して……!」
「あの時、私もそう言ったのに――あの子を返してはくれなかったわね」
何のことを言っているか、全く見当がつかない。だが、クムがククルに激しい憎悪を覚えていることだけはわかった。
その時、風を切る音がして、クムは呻き声と共にククルの首を掴んでいた手を放した。
どさりと落ちたククルに、慌てて駆け寄って来る人影がある。
「おい、何やってんだよ!」
ユルが顔を覗き込んで来る。傍らの砂に刺さった鉈を見て、ユルが鉈を投げたのだと知る。
ホッとした拍子に、涙がほろりと落ちる。
「大丈夫かよ。――一体、どうなってんだ」
ユルは恐ろしげに、腕から血を流しながらも不気味に沈黙するクムを見やった。月を背にした、その美貌は凄絶に映った。
そこでククルは、彼女が誰に似ているか悟る。
(ティン、兄様――?)
まさか、それでは連れて行ったとは……。
「ティンを返しておくれ。あれは私のかわいい子。光り輝くお方と私の、大事な御子《みこ》だ!」
空気を震わせるほどの大声に、ククルもユルも身を強張らせる。光が目を射たと思い、ククルはクムの手元を凝視する。
短刀が握られていた。
その短刀を握り締め、クムはククルに飛びかかろうとしたが、ユルが難なく鉈でその刃を受け止めた。
「あんた一体……何がしたいんだ……!」
ユルに問い詰められ、クムの目から涙が滂沱と溢れる。
「ティンを返しておくれ……。あの子は、私の子なんだよ……!」
「……あんたが、あいつの母親なのか」
そこでユルは、ククルが予想だにしなかった行動に出た。小刀を弾き飛ばした後、崩れ落ちそうになるクムを優しい目で見て――抱きしめたのだ。
「母上。どうぞ、心穏やかに」
クムはもがくこともなく、大人しくなった。ユルが体を放すと、だらりと前のめりになる。どうやら気を失ってしまったらしい。
「――ユ、ユル」
恐る恐る近付くと、ユルは深いため息をついた。
「ティンの、母なんだな」
「……そうみたいだね」
てっきり、ククル一人だけが家族でないのかと思っていたら。ティンこそが、家族の誰とも血がつながっていなかったのだ……。
(それで、この島で兄様の空気を感じたんだ)
ティンが、生まれた場所だったから。
「クム様!」
叫び声と共に、あの老人が走って来る。
「おじいさん! クムさん怪我しちゃったけど、無事は無事だよ」
ククルがおっかなびっくり老人に伝えると、彼は当惑してみせた。
「どういうことだね?」
ククルがたどたどしい口調でクムに襲われたこととユルに助けられたことを語ると、老人は深いため息をついた。
「ああ、やはりね。クム様は……ずっとあなた方のことを、憎んでいたのだよ」
ずきりと、心が痛んだ。
「家に一旦戻ります。あなた方も……もし、話を聞きたいならいかがですか」
ククルとユルは顔を見合わせ――老人に向き直って力強く頷いたのだった。
薄い茶は、夜の空気で冷えた体を温めてくれた。
老人は茶を飲み干して一息ついてから、ぽつぽつと語り始めた。
親しげに話し掛けてくれた彼は、今や敬語しか使わなくなってしまった。まるでククルと距離を置こうとするかのように。
「クム様は神と交《か》わされた女性です」
一瞬、意味が飲み込めずククルは首を傾げたが、次に続けられた言葉を聞いて理解した。
「そして、神とクム様の間に生まれたのが……ティン様でした」
「ティン……兄様?」
「ええ。天から授かった子だから“天《ティン》”と、クム様が名付けました。五つの時まで、ティン様はこの家で過ごされたのです」
五つという年の数に、ククルは青ざめる。ククルとティンの、年の差だ。
「神の血を伝えるというあなたの家の、ノロは――初めは、それはもう親切にしてくれました。遠い親戚にもなるのだから、ノロだと王府に認めてもらうよう嘆願すると言ってくれて――クム様はノロになったのです。それまでクム様はユタでもありませんでした。少しばかし人よりは勘が鋭く霊力《セヂ》の強い、どこにでも居るような女性でした」
「でも、神に見初められた?」
僅かな嫌悪を滲ませて、ユルは問いを放った。
「ええ。――あの頃のクム様は、神をも振り向かせるほどの美女だったのです」
ろくに手入れもせず年を重ねた今でも、気品の滲む容貌を保っているのだ。若い頃はさぞかし美しかったのだろう。
「ノロの地位を得て、霊力も高まったクム様は安定した暮らしを送りながらティン様を慈しみ育てました。さすがは神の子と賞賛されるほど、光り輝くような御子であられたのに……」
老人は目頭を抑え、真っ赤になった目をしながらも話を続けた。
「あのノロは、ティン様を奪ったのです。王府の役人も居たから、到底逆らえなかった……」
(ばば様が、そんなことを……)
ああ、とククルは思い返す。
ティンは時折、海を見ていた。あの向こうにいつもニライカナイを見ているのだと思っていたが、故郷であるこの島のことを想っていたのだろうか。引き裂かれた母との記憶を、大事に想い返していたのだろうか。
この島に寄った時も、クムには逢わないでいた。それは、そう約束させられていたからなのか。
「何で……何で、そんなことを」
「あの家には、“兄”が必要だったからです。知っていましたか。あの家には何世代も、“兄”が生まれなかったのです」
ククルは青ざめて顔を上げた。
「でも、伯父さんとか……居たよ……」
「男児が生まれないわけではありません。“妹”の力を具現化出来るほどの力を持った“兄”が、生まれなかったのです」
「そんな……」
島の守り神だと言われていた兄妹が、何世代も存在していなかったなどと信じられなかった。
「私がその事実を知っているのは、クム様がどうしてそんな目に遭ったのか、せめて理由を突き止めたい……そう思ったからです」
「それで、どうして王府が絡んで来るんだ」
ユルが更に質問を挟むと、老人は皺だらけの手をさすった。
「王府と“あなた方の家”は深い関係にあるからです。聞くところによると、この諸島の監視役も兼ねているのだと聞きましたよ」
ククルには、驚くべきことばかりだった。そしてそれと同時に、哀しかった。
ティンは無理強いされて、ククルの兄にならされたのだと考えると哀しくて仕方がなかった。
「今頃、立派な青年に育っているのでしょうね」
老人の言葉に、ククルは青ざめた。
彼は、知らないのだ。ティンの死を。おそらくはクムも。
ククルは勢いよく、頭を下げた。
「私の兄、ティンは亡くなりました……。そしてティンから……この、ユルに兄が代わりました」
何度述べても声が震える事実を口にすると、老人は虚を突かれた表情になって――深く項垂れてしまった。
「それはもしかして、半年ぐらい前のことでしょうか」
ぴたりと時期を当てられククルがきょとんとしていると、老人は微かに苦笑した。
「半年前、クム様が海を見つめて泣いておられました。あの方はもう、きっと知っています。前より落ち着きがなくなったのは、そのことと無関係ではないでしょう」
そうして老人はすっと頭を下げる。
「今日は夜も遅い。泊まって行って下さいと言いたいところですが」
「――もちろん、帰ります」
ククルの代わりにユルがきっぱり答えると、老人は安心したような表情を見せたのだった。