ニライカナイの童達

第八話 姫君 2


 ナミは部屋に真ん中で正座し、真正面に座ったククルをじっと見つめた。
「あ、あの」
「あなた、お兄様とどういう関係なの?」
「どういうって……」
 妹、だが。妹と名乗る少女に妹だと言うのは、何だか気が引けた。
(多分、ユルのことじゃあないんだろうけど……)
 いくらユルが謎めいた少年だからといって、まさか王子様ではあるまい。
「あのね……多分、がっかりさせちゃうと思うんだ……。あの子は、あなたの兄ではないだろうから」
「えっ……?」
 みるみる内に、ナミの目に涙が溜まる。それが零れ落ちそうになるのを見て、ククルはうつむいた。
(変な期待持たせて、連れて来るんじゃなかった)
 もし、自分がティンを捜していたとして。実は違ったなどと言われたら、どんなに傷付くことだろう。
「ご、ごめんなさい! ひょっとしたら、そうかもしれないって思ったんだ。あまりにも、ユルに似てたから――」
「ユル」
 ナミはその名前を繰り返した。
「うん、ユル……って言うんだよ」
 でも船では「ショーヤ」って呼ばれてたっけ……と思い出しながら顔を上げると、ナミが歓声をあげた。
「――間違いないわ! 私が捜しているのは、その方です!」
 そんな馬鹿な、と言い掛けたところで戸が開いて誰かが入って来た。
 話題の主――ユルだった。ナミが振り返った瞬間、今まで見たこともないような驚きの表情を浮かべる。
「――お兄様!」
 跳び上がり、ナミはユルに抱き付いた。
 ククルはただただ、呆然として口を開けてしまう。
(ユルが本当に、王子様……?)
 信じられない。そもそもどうして王子が彷徨ってククルの住んでいた島に流れ着き、ましてやククルの兄に抜擢されたのか。わけがわからない。
「ちょ、ちょっと待って! ナミさん、あなた王女様だよね? じゃあユルは……ユルは……」
 そこでククルはハッとする。王女だというのはナミの自己申告でしかない。もしかしたら、彼女が嘘をついているのかもしれない。
 されどナミは、さらりと肯定した。
「ええ、私は王女よ。お兄様は王子だわ」
「おいナミ。オレは――」
「王子でしょう? 間違いないわ」
 ふわりと咲き乱れる花のように微笑まれ、ユルは調子を崩したように引きつった表情を浮かべる。
「王子……」
 ぐるぐると、ククルは色々なことを思い出した。大嫌いと言ったこと、引っぱたいたこと、からかったこと、馬鹿と言ったこと。
 思い出すにつれ、青ざめてくる。
(王族への不敬罪で死罪……とか、あるんだよね?)
 暑さもあいまって、頭がくらくらして来る。
「おい、ククル? 大丈夫か?」
 ユルの声を、どこか遠くに聞きながら、ククルはあっさりと意識を手放してしまったのだった。

 涼しい風を頬に感じ、「うーん」と呻く。
「ククル、しっかりなさい」
 優しい声音が耳朶《じだ》を打つ。重い目蓋を持ち上げると、トゥチの心配そうな顔が目に入って来た。
「トゥチ姉様……」
 トゥチは片手に握った団扇を下ろし、微笑んだ。
「大丈夫?」
「――うん」
 ククルは起き上がり、頷いた。トゥチが頬に当ててくれた両手がひんやりしていたので、少し思考がしゃんとし始めた。
「トゥチ姉様。ユルが王子……なんて、信じられる?」
 ククルが唐突な質問を投げると、トゥチはククルの頬から手を放して静かに答えた。
「信じられないわ。だけど、王女様が実際ユルくんに会いに来たんだもの。まるきりの嘘、ってわけじゃないでしょう」
「……あの子は、帰ったの?」
「帰ったわ。ユルくんと、どんな話をしたのかわからないけれど、泣きそうな顔で出て行ってね……。兄さんが彼女を送って行ったわ」
 トゥチは淡々とした口調を崩さなかったが、掛け布団を畳む手が若干震えているのを見るに、彼女も動揺しているのだろう。
「もしユルくんが本当に王子だったなら、大変なことになるわ。あなたの家も罰を受けるかもしれない」
「……何が何だか、わかんないよ」
 まだ混乱が深すぎて、頭が付いて行かない。
 ユルは自分のことを何も語らなかった。ククルも聞かなかった。
「ユルは、何を求めているんだろう」
 王子である人が何も求めず、ククルの兄になったわけがない。
「目的があるとは限らないわ、ククル。ユルくんがそうせざるを得なかった事情があるのかもしれない」
 トゥチに冷静に諭され、ククルは己の頬をつねってみた。
(姉様の言う通りだし、ぐるぐる悩んでたって仕方ない。聞かなくちゃ)
 もう、見ないふり知らないふりも出来ない。
 遠慮などかなぐり捨てて、ユルに正面切って尋ねなくてはならない。
 あなたは何者なの、と――。

 夕食の刻まで、まだ少し時間があった。だからククルは決断し、ユルの泊まっている部屋を訪れた。
 部屋の戸に向かって、ククルは呼び掛ける。
「ユル。話をしよう。――散歩にでも、行こう」
 返事を期待せずにうつむいて足元を見つめると、意外なことに眼前の戸が開いてユルが出て来た。
 彼はしばらく何も言わずに、じっとククルを見つめる。ククルも、口をつぐんでいた。
「散歩、行くんだろ?」
 沈黙に耐えかねたのか、ユルは一言だけ口にしてククルの傍を通り抜けた。ククルはぐっと拳を握り締め、彼の後を追った。

 日が傾き始めて、家々の白い壁が橙色に染まっている。
 ククルとユルは、しばらく何も言わずに並んで歩き続けた。
 人気のない空き地に出て初めて、ククルは口を開く。
「……あなたが王子って、本当なの?」
 ユルは答えない。苛立ち、ククルはユルの胸倉を掴んだ。
「どうして、答えてくれないの!」
 涙は出ていないのに、目が熱い。自分が怒っているからだ、と平静に理解しながらもククルは声を荒らげた。
「ユルは、本当に……何も言ってくれないんだね……。でも、こればっかりは言ってくれないと困るよ!」
「――違う」
 堅い声が聞こえ、ククルは顔を上げた。ユルの顔はまだ、厳しいままだった。
「オレは、王子じゃない」
「……ちがう? じゃあ、ナミさん……王女様は……」
「勘違いしているんだ。ややこしい話だから、あいつも交えて話すしかない。それまで、待ってくれ」
 そんな説明で、すぐに納得出来るはずもない。ククルは引き下がらなかった。
「他人の空似ってこと?」
「いや……」
「じゃあ、何なのさ。もう私、わかんないよ」
 ユルは散々ためらった後、観念したように大きなため息をついた。
「――必ず、正直に言う。だからせめて、今日だけは勘弁してくれ」
「……わかった」
 ククルはぐっと唇を噛み締め、突っ立つユルを置いて先に宿に帰ることにしたのだった。


 ユルは夜中に、一人で港に向かった。船がずらりと並ぶ波止場に、ぬるい海風が吹き抜ける。
 海風が、ユルの黒い髪をあおる。まるで責められているようだと苦笑し、ユルは空を見上げる。
 久方ぶりに見上げる、故郷の夜空だった。一度は、もう戻ることはないと思ったのに。
 ふわりと光が弾け、ユルは隣を見る。いつの間にか、すっかりおなじみになったティンの姿が在った。
『だから、ろくなことにはならないと言ったろう。もう正体がばれているじゃないか』
「うるせえよ……」
『観念して、戻ったらどうだ。まだ間に合うはずだ』
「うるせえ、っつってんだろ!」
 怒鳴っても、ティンは怒りの表情を崩さなかった。
『――もしククルに何かあれば、私はお前を許さない』
 敵意を通り越して殺意すら感じる視線に怯まないわけではなかったが、ユルは決して目を逸らそうとはしなかった。
 突如として、二人の緊迫した空気を打ち払うように煌びやかな女の声が響いた。
「若様、おかえりなさいませ」
 いつの間にか、艶やかな模様をあしらった着物に身を包んだ女が、ユルの背後に現れていた。ユルは振り返り、相も変わらず若く美しく――毒々しいその姿を見て、舌打ちする。
「毒蛾のお出ましか」
「あらあら、若様。酷いことを仰る。私の名前を忘れましたか? ウイですよ?」
「覚えてるけど、毒蛾は毒蛾だろ。毒蛾の化身のくせに、人間ぶるんじゃねえよ」
 辛辣に罵られても、ウイは気分を害した様子もなく微笑んだ。
「あら……先ほどまで居た光輝が居なくなりましたね。あれは、何者です?」
 ティンは、現れた時と同様に突然、姿を消していた。
「知らねえよ。まさかウイ、お前。オレを迎えに来たのか」
「もちろん。姫様は首を長くして、あなたをお待ちしておりました。彼女の心労を慮ると、胸が痛いですわ」
 ウイは無邪気に、にっこりと笑った。
「明日ぐらいには戻るから、今日のところはそっとしておいてくれ。あいつにも言うな」
「……承知致しました」
「それと、明日二人で行くから――すぐ謁見出来るよう、手配をしておいてくれ。わかったな」
 ウイは良い顔をしなかったが、ユルが睨み付けると小さく頷いた。
「それではこの札《ふだ》を門番にお見せ下さい。後は何とかしておきましょう」
 ため息をつき、ウイはユルに木の札を渡した。
 そして着物の袖を振ると、蛾へと姿を変えて羽ばたいて行ってしまった。
 煌めく鱗粉を見送りながら、ユルはもう一度空を仰ぐ。
 ――――――――もう、戻れない。挑むことを決めてしまった。


 カジ曰く、カジにもトゥチにもユルは曖昧な答えしか返さなかったらしい。そのため、朝食の席が気詰まりで仕方がなかった。
「なあ、ユル」
 思い切ったようにカジが口を開くと、ユルはその前に素早く発言した。
「今日、聞得大君《きこえのおおきみ》に会って来る。謁見の許可は取った」
「何だって?」
「話はそれからにしてくれ。ククルだって、早く用事を済ませたいだろう」
 いきなり、だしに使われてククルは面食らう。だがユルに真剣に見つめられ、ククルは頷くしかなかった。
 これだから、ユルはいつもずるい。
 ユルはいつも、最終的にはククルに味方してくれることが多い。だからククルも、それに応えようと思ってしまうのだった。