ニライカナイの童達
第九話 王子 2
血生臭い空気を吸い、ユルはむせて咳き込んだ。
「あー……」
身を起こすと、腹部に激痛が走った。
おざなりに包帯が巻いてあったが、大きな血の染みが出来ている。敷布団にも、少し染みていた。
力なくユルはもう一度横たわったが、重苦しい気配を感じて視線だけ上に向けた。
「愚息、起きたか」
「……貴様……」
「母に向かって貴様、とは何だ」
彼女の爪先が腹に食い込む。ユルは痛みに叫びそうになったが、唇を噛み締めて何とか堪える。
「お笑い草だな、ユル。お前から戻って来てくれるとは」
「てめえのために戻って来たんじゃねえよ。てめえさえ殺したら、また出て行くつもりだった……」
「ふむ」
母は考え込む素振りを見せた。
「だが、お前はわらわを殺せたか?」
答えは――否。
「こんなはずじゃなかった……」
「馬鹿な子だのう。お前は神とわらわから生まれた、とびきり高貴な存在だというのに。何故、王になることを拒む」
ユルはぎりりと歯を食いしばり、暗がりの中でもはっきりと認識出来る母親の顔を見据えた。
「神なんか要らない。ここは人間の国だ!」
「――愚かな。ここは、神に守られている国だ。最初の王は、天の神と巫女《ユタ》の間に生まれた子だったという。だが――血が薄くなりすぎた。だからこそ我が弟のように、聞得大君の進言にも従わず祭祀を疎かにする――そんな愚かな王が出来上がったのだ!」
聞得大君は声を張り上げて、天井を仰いだ。
「王家にまた、神の濃い血を入れるべきだった。神もそう思ってくれたからこそ、わらわにお前を宿してくれたのだ」
「だが、間違ってる! 正当な王子を殺して、オレみたいな紛いもんを玉座に据えようなんざ――おかしいだろ!」
絶叫が、喉から迸る。何度も、何度も、こう言ったはずだ。だけれども、この国で最も尊き神女《ノロ》に通じたことがない。
「紛いものなどではない。お前こそ、神の血とわらわの血を引く……誰よりも尊い存在。お前こそ、王にふさわしい。お前が治めれば、ここは神の国となる」
「殺されたショウヤはどうなる……。死ぬ理由なんて、なかったのに」
「ユルよ。いや、ショウヤ。いつの世にも、必要な犠牲というものがあるのだ」
母の口調は優しかった。しかし、どうしようもなく憎かった。
「そんなものはない……」
「お前にも、いずれわかる。そのためにも、さっさと傷を癒せ。ウイの治療を嫌がるでないぞ。ああ、ウイといえば。お前、八重山でウイに会ったのだろう」
「…………ああ。報告を受けたのか」
「まあな。お前の血の力が発揮されていることを察知して、はるばる飛んでいってくれた。ウイの報告を受けたから、居場所がわかったお前を連れ戻すこともできた。だが、わらわはそうしなかった。なぜか、わかるか?」
母はユルにそっくりな、黒々とした目で息子を見下ろした。
「そういう力を得たなら、お前はきっと自分から帰って来ると思ったせいだ。わらわを殺すためにな。実際、そうだったであろ?」
「てめえ……」
「お前の憎しみ、恨み、怒り、そして激しい気性を思えば、容易にわかることだ。ウイも、わらわに同意した。……わらわたちを、出し抜いたつもりだったかえ?」
母はくすくす笑って、屈む。そしてユルの前髪を掴んで顔を上げさせ、無理矢理目を合わせた。痛みに呻きそうになりながらも、ユルは彼女を睨みつける。
「お前は今も昔も、この手の中よ。せいぜい、あがいたつもりになっているが良い」
聞得大君が手を放すと、どさっとユルは布団の上に倒れ込んだ。
「ではな。あとはウイに任せる」
衣擦れの音と共に、母は出て行ってしまった。彼女の退場を待っていたかのように、燐光を放つ女が現れる。
「ほら、若様。治療をいたしましょう。今度蹴られたら、死んでしまいますわよ?」
「……死んでも、良い」
ぽつりと放たれた呟きには聞こえない振りをして、ウイはユルに近寄って来る。
「寄るな。お前にだけは治療されたくない」
「ならば、医師を呼びましょう」
「明日で良い。今日はもう眠りたい」
「……仕方ありませんわね。まあ、致命傷ではありませんし最低限の手当てはしておりますから。本当に、我儘な若様ですわね」
ウイはため息をついた。
「おい、お前……オレの力を知っても、あいつに報告するだけに留めたのか」
「――ええ。私はあなたの“妹”の姿を見ましたもの。あんなに弱々しい精神で、姫君を殺せるわけがない」
最初から――侮られていたのだ。いや、見抜かれていたと言うべきか。
「だから、お膳立てしてあげたでしょう? あなたが忍ばせた小刀も、私の言付けがなければ、とっくに取り上げられてましたよ。あなたは、上手くやったつもりだったのでしょうけどね」
ウイは悠然とユルを見下ろした後、大きな蛾へと姿を変えてひらひらと窓から出て行ってしまった。
ぼんやりした目でウイを見送りながら、ユルは痛む腹を抱えて枕に頭を預けた。
(兄貴も倫先生も死んでしまった。どうして、オレだけ生きているんだろう)
優しかった人達のことを思い出す。
死ぬ必要なんてどこにもなかったのに逝ってしまった人達を想い、ユルは一筋涙を零した。
同じ姿、同じ名前。不気味がってもおかしくないのに、清夜《しょうや》王子はいつでもユルに優しくしてくれた。ユルの呼び名をくれたのだって、清夜だ。
「影武者に名前は要らないって、父上も伯母上も言ってたけど……同じ名前だと困るな。そうだ、僕はショウという愛称で呼ばれているから、君はユルでどうだろう。それだと、二人会わせて“清夜”になる」
「あ、ああ……」
初めて会ったのは、互いに六つになった時。それまで聞得大君の元で隠れるようにして生きて来たユルに、そっくりな顔をした清夜王子の優しさは温かく染みた。
聞得大君は、ユルをぞんざいに扱っていたわけではないが、時折顔を見に来るぐらいで――そもそも、情に薄い人であった。
王も最初は驚いていたが、聞得大君に影武者の必要性を説かれて納得してしまったようだ。
その日から、ユルはショウの全てを真似出来るように訓練をした。
元々、勉学は家庭教師に習っていた。だがやはりショウの習うそれは王府最高のものであり、ユルは勉学でショウに並ぶことを要求された。
ショウの家庭教師は倫《りん》という、大陸から来た好々爺のような風貌の学者だった。
あらゆる言語に長け、更に帝王学の知識をもって大陸にある大国の皇帝から表彰されたというこの人物を、琉球王は思い付く限りの伝手を全て使って本国に招いたのだという。
「父上は、とても僕に期待しているのさ。期待は重いけど――僕を奮い立たせてくれる。立派な王になるよ」
清夜には、期待に応えなくてはと義務感に燃えている節があった。正妃ではなく、側室の子だったからだろう。
正妃には男児が生まれなかったため、側室の子であるショウが次代の王に抜擢されたのだが、そういった背景があるだけにショウの母親への風当たりはきつく、心労が祟って亡くなってしまったらしい。
「おやおや、話には聞いていたが、本当にそっくりだねえ、君達は」
倫はにこにこ笑って、ユルとショウを見比べた。
「影武者としてお役に立てるよう、努力します。ご指導のほど、よろしくお願いします」
堅い声で告げられた宣言に、倫は少し哀しそうに眉を下げた。
「君は……いや、何でもない。――君のかつての教師から、君のことを聞いたよ。賢い子なんだとね。私の知識を、王子と共に受け取っておくれ」
倫はユルのことを見下したりせず、ショウと平等に扱ってくれたのだった。
倫は頭が良いだけではなく、性根が真っ直ぐな好人物だった。ユルが心を許すのに、そう時間は掛からなかった。
「――ユルくん。君はこのままで、良いのかね?」
「はい?」
書き取りの練習をしているところだったユルは、不審そうな目つきを隠しもせずに顔を上げた。この時、ショウは式典に出席していたため不在で、珍しくユルは倫と二人きりだった。
「良いって、何が?」
「影武者として生きて行くこと。それで良いのかね?」
筆を止め、ユルはうつむいた。我ながら上手く書けたと思った漢字を眺める。ショウの筆跡を真似た、素人では見分けが付かないほどにそっくりになった字だ。本来の自分の字では、ない。
「オレは、そのために生まれたんだ」
「……でも、君は一人の人間だ。ショウくんと姿が同じでも、所作をどんなに似せても、君は違う一人の人間だ。個性を押し殺して生きて、それで良いのかね?」
「何で先生、そんなことを言うんだ。王族に影武者なんて、珍しくもないだろう。そいつらの生き方をいちいち、そうやって否定してるわけ?」
動揺を悟られるのが嫌で、わざと鋭い口調で言い返す。
倫は怒りもせず、哀しげに笑った。
「いいや。ただ、君自身が満足しているように見えなかったからね。本当は、嫌なんじゃないかと思っただけだよ」
倫はそっと自分も筆を取り、白い紙に見事な文字を書き綴って行った。
「君は、聞得大君がどこからか連れて来た子だというが……本当は何者なのかね?」
倫の何もかも見透かしたようなような目に、ユルはごくりと息を呑んだ。
「約束する。誰にも言わないと。だから――もう、楽になっても良いんじゃないか。この老いぼれ一人ぐらい、君の秘密を知っていたって良いんじゃないか」
もう、我慢出来なかった。誰にも言えなくて、心が詰まって仕方がなかった真実をこれ以上、抱えきれなかった。
だから、ユルは散々迷った挙げ句、口を開いた。
「……先生、神様って信じる?」
「ああ……。私の故郷とは違う神々だが――存在は感じるよ。この島には、神気が満ちているね。とても濃いよ」
嘘を言っているような口調ではなかった。だからこそユルも、自分が持つ最大の秘密を告白することが出来たのだった。
「オレは……聞得大君曰く、聞得大君と神の子なんだって……。影武者にするために、授かった子だって」
倫は絶句していたが、しばらくして大きなため息をついた。
「そういえば、昔……聞得大君がしばらく体調不良のために、一年ほど別所で療養していたと王が仰っていたな……。そう、だったのか。一体、どういうおつもりなんだろうね」
「さあ。王の役に立ちたかったとか、言ってたけど」
「ふむ。そこまで仲が良さそうには見えなかったが」
王と聞得大君は仲睦まじい姉弟ではなく、むしろ互いに煙たがっている節があった。
「そのために生んだと聞かされたら、なるほど君は抵抗出来ないだろうね」
「はい」
「そうか……。このことは無論、私の胸に仕舞っておくからね。もしまた悩みがあれば、いつでも言いなさい」
「……はい」
ただ、秘密を知る人が一人増えただけなのに。ユルは、自分でも驚くほど心が軽くなっていることに気付いた。
ショウとユルが十二になった時――あの、悲劇の一日がやって来た。
それは、粘つくような雨が降る夜だった。
人が走り回る音と、叫び声。音の洪水に呑まれそうになりながら、ユルは食糧庫の片隅に隠れていた。
冷たい涙が、頬を滑り落ちる。静かに、ひっそりと、ユルは泣いていた。
誰にも見付かりませんように、と願いながら身を縮めて時が過ぎるのを待っていたが――とうとう、倉庫の戸が開かれた。
だが、聞こえた声は恐れていたものではなかった。
「ユルくん、ここに居たのか!」
松明を片手に、倫はうずくまるユルに駆け寄って来た。
「どうしたんだい……? ああ、訃報を聞いたんだね。そう自分を責めるものじゃないよ」
ショウを守り切れなかった自分を責めているのだと解釈しているらしい倫を見上げ、ユルは首を振った、
「違うんだ、先生」
「うん?」
「王子を殺したのは、聞得大君の差し向けた刺客なんだ――」
「何だと?」
倫は青ざめ、ユルの手を掴んだ。
「聞得大君が言ってたんだ! 全ては、オレを王にするためだったって!」
衝撃的な告白に、いつも平静な倫も唇をわななかせて、しばらく何も喋らなかった。
「オレは逃げて来た。そんな、身代わりにはなりたくないって――! でも、捕まったら引き戻される! 清夜にされる!」
「君は……知らなかったんだね」
「当たり前だ! そんなこと企んでるって知ってたら、影武者の修行なんかやってなかった!」
そっと倫の手が肩に置かれる。
「かわいそうに……」
「先生、ここでオレを見たことは内緒にしてくれ。人気が無くなったら、ここから出て行くから――」
ユルの決意を聞いて、倫は首を振った。
「それはだめだ。君は城の中しか知らないだろう。一人で生きていけると思っているのかね?」
「だけど! ここで生きて、ショウに取って代わるなんて嫌だ!」
必死に抵抗するユルを見下ろし、倫はため息をついた。
「誰も、逃げるなとは言っていないよ。ただ、一人はだめだと言ったんだ。私も――付いて行こう」
「何を言ってるんだ、先生。そんなこと出来るわけ……」
「私は旅の術《すべ》だって知っている。君一人で行くよりはずっと心強いだろう? さあ、立つんだ。君は留まりたくないのだろう」
それから、二人きりの旅が始まったのだった。