青い鳥と黒い鳥――Ubrall sonst die Raserei. さてそのほかはみな 狂気の沙汰
もちろん、これは禁忌だ。男達の合議を覗くなんて、許されざる行為だ。
だけど本音を言うと、リリオも聞きたかった。一族の命運や、黒い鳥のことが気になって仕方なかったから――。
会議が行われる広場近くに立つ祖先神の像に隠れ、リリオとアーマは息をひそめた。
「――何度言わせるんだ!」
ちょうどフェンが大声を出し、立ち上がったところだった。
「黒い鳥は起こしてはならないんだ!」
「しかし、それで我が一族が滅びればどうなる! どうしようもなくなったら起こすべきだ!」
多数の男達が賛同の意を示して拳を振り上げる。彼らを手で制したのは、ティワだった。
「止めろ。黒い鳥は起こさない方が良い。リリオもかわいそうだ」
"リリオ"……私……?
どうして自分の名前が出るかわからなくて、リリオは息を呑む。
「そうか、フェン。お前、リリオを差し出すのが嫌だから反対しているんだろ!」
「――そうだと言ったら?」
挑発にも、フェンは臆することなく応じた。
「当たり前だろ。自分の妻を黒い鳥になんかさせられるかってんだ。な、フェン」
ティワがすかさずそう言ったが、広場に立ちこめる重い空気は晴れぬままだった。
一体どうして私が――。
その時いきなり後ろから首を掴まれ、リリオは悲鳴を挙げ掛けた。
「しっ。声をあげるんじゃないよ。罰を受けたいのかい?」
女長老だった。
「全く、仕方ない子達だね。こっちに来なさい」
女長老に促され、リリオとアーマは足音を殺しながら老婆の後を追った。
天幕の中に入ると、女長老は早速説明してくれた。
「誰でも黒い鳥を完全に起こせるわけじゃないんだよ。女は皆黒い鳥の血を濃く持つが、普通より一層濃く持つ者が時折生まれる。その者しか、黒い鳥を起こすことは出来ない」
「それは、まさか……」
アーマは、リリオの黒い髪を見た。
「そういうことだ。それだけ黒の強い髪は、リリオ以外居ないだろう? 黒い血が人より濃い証拠なんだ」
「つまり、私は黒い鳥になれるということ?」
リリオが問うと、老婆はゆっくりと首を縦に振った。
「――おそらくね。しかし、馬鹿なことを考えるんじゃないよ。"もし世界が滅んでも良いと思ったなら、黒い鳥を起こせ"だ。言い伝えを馬鹿にするんじゃない。もし起こせば、取り返しのつかないことになるんだ。だからあれだけ、フェンは反対してくれているんだよ」
「……そう、だったんだ」
あれだけフェンが怒ったのは、黒い鳥を起こせる可能性を持つ妻が真実を知ったからなのだろうか。
「フェンは、昔からそれを知ってたの?」
「あたしが言ったからね。お前を娶ると、フェンが決めた時に」
脳裏に浮かぶのは、黒い髪を褒めてくれたフェンの優しい声だった。何を想ってフェンは、自分の髪を褒めてくれたのだろう。
夜になり、合議を終えて帰って来たフェンに向かって、リリオは頭を下げた。
「全部、知りました」
「――何を」
「私の黒い血が、とても濃いことを」
顔を上げて見上げると、フェンは泣きそうな顔をしていた。
「黒い鳥にはさせないよ」
「はい」
リリオは微笑んだが、フェンはまだ哀しそうな表情を崩さなかった。
「おいで。良い所に連れて行ってあげる」
手を伸ばされ、リリオは戸惑いながらもその手を取った。
フェンはリリオを小さな湖の傍へと誘った。
蛍の淡い光で浮かび上がる湖に見とれるリリオの髪に、フェンの手が触れた。
「こんなところ、知らなかっただろう?」
「はい。どうしてフェンは知ってるんです?」
「ここは僕の秘密の場所だった。小さい頃、僕は体が小さかったせいでよくいじめっ子に泣かされてね。ある夜、何もかも嫌になってふらふらと集落を出て歩いてたら、ここを見付けたのさ」
疲れた心をこの光景を見て癒し、彼は集落へと戻ったのだろうか。
「不思議です。フェンは今、ティワと並ぶ若人一の狩人なのに」
リリオが振り返ると、フェンは淡い笑みを浮かべた。
「僕は臆病者だよ。成年式も耐えられるか心配で、いつも怯えていた。――でも」
彼の深い青をした目が、リリオを優しく見やる。
「ある時、ティワと一緒に女の村を覗いたことがあったんだ」
リリオは絶句してしまった。
それも、禁忌であった。合議を覗くよりも余程重い罰を受けることになる。
「それで、黒い髪の女の子を見付けた。一目見て以来、その子が気になって仕方なくてね。大人になったらあの子に声を掛けようと決めて、成年式も耐え抜いた」
だから、とフェンの唇が掠れた声を紡ぐ。
「一族のために、君を犠牲にしたりはしない」
じわりと言葉が染み、泣きそうになる。だが感動に浸る間もなく、遠方から悲鳴が聞こえて来た。
「何だ……? リリオ、ここの茂みに隠れていて。すぐに戻って来るから!」
止める間もなく、フェンは短刀を片手に走って行ってしまった。
言われた通り、リリオはじっと待っていた。しかし集落の方から聞こえる悲鳴や怒号は増すばかり。
居ても立ってもいられなくなって、リリオはとうとう茂みから出て集落へと駆けた。
集落に入ったリリオは、男達も女達も必死に戦っている光景を見た。どうやら夜襲をかけられたらしい。しかしそんな事実より衝撃だったのは――
「アーマ……」
血だまりの中に倒れた親友。見開かれた目が、死を物語る。
「アーマ!」
膝を付き掛けたリリオは腕を引かれた。金色の髪の男が、にやにやしてリリオの手をねじり上げる。聞いたこともないような言語で何かをまくしたてているが、もちろん何を言っているかわからない。
「放して……」
涙ながらに請うた時、金髪の男は血を吐いて倒れた。倒れる男から短刀を引き抜いたのは、フェンだった。
「どうして来たんだ!」
叱られ、リリオは体を強張らせる。
「こっちへ!」
フェンが手を引き、二人は大きな天幕の裏へと隠れた。
そこでリリオは気付く。フェンの腹が、血でべったり汚れていることに。
「フェン……」
「この傷は、もう助からない」
淡々と、フェンは告げた。狩人の怪我の判断は、何よりも確かだった。
「逃げるんだ、リリオ」
「嫌」
泣きながら首を振ると、フェンは困ったように微笑んだ。
怒号が聞こえる。「黒い鳥の女はどこだ!」「黒い鳥を起こすんだ!」という叫び。藍の鳥族が黒い鳥を起こすため、リリオを捜している。
「――藍の鳥族にも捕まらないように、逃げるんだ。黒い鳥を起こされてしまう」
「いいえ」
フェンの言葉をきっぱりと断り、リリオは顔を上げた。
「私の黒い翼を、あなたが起こして。どうせこのままじゃ、殺されるか……他の男に翼を起こされるのでしょう? それならいっそ、あなたに起こしてもらいたいです」
そしてせめて、その力を使ってフェンを傷付けアーマや仲間を殺した者達に一矢でも報いてやりたい。敵を討てば、もう死んでも良いとも思っていた。だってフェンやアーマが居ない世界に意味などないのだから。
「だめだ。翼を起こせば、君は狂ってしまう」
フェンに言われても、決心は揺るがなかった。
「それでも良い」
他の者に狂わされるより、夫であるこの男に狂わされた方がずっと良かった。
「君は、狂ってしまうんだよ……」
「これが私の願いです。せめて、あなたとアーマの敵を取ってから死にたい。起こしてくれないなら、今ここで死にます」
リリオの決意を聞いて、フェンは目をつむって考え込んでからとうとう頷いた。
既に、この時点で狂気は生まれていたのかもしれない。
「背中を僕に向けて、肌を見せて」
言われた通りに服をたくしあげ、フェンに背を向ける。背中に、やわらかいものが触れた。――それが唇だと悟った時、フェンが言霊を紡いだ。
「青に混じり眠る黒い鳥。黒い髪の娘が抱く血より目覚めよ。血をもって翼とせよ」
呪文が終わっても、自分の体に変化は訪れなかった。
「フェン――」
疑問に思って振り向いたリリオは、頑なに目を閉じた夫を見付けた。
愕然として肩に手を触れると、あっさりと彼は横に倒れた。命の気配が、完全に失せていた。
モシ世界ガ滅ンデモ良イト思ッタナラ――。
頭が真っ白になる。
「おい、お前! こんなところに居たのか!」
血にまみれた藍の鳥族の青年はフェンの傍で頭を垂れるリリオを見て、一歩後ずさった。
「く、黒い翼――」
リリオの背に、くっきりと黒い翼の紋様が浮かんでいた。服越しでもわかるほど、黒い光を放って。
リリオの喉から絶叫が迸る。それは哀しみと喪失の叫び。
ティワは、敵と戦いながらその奇妙な絶叫を聞いた。
「あ……あ……」
今まで対峙していた敵が、ティワの後ろを凝視して後ずさる。ティワは後ろを向き、男の首を片手に歩くリリオを見た。
「リリオ……!?」
どす黒い空気が、リリオを包んでいた。明らかに正気ではない。
リリオに飛び掛かった異民族の男は、彼女が手を振るだけで真っ二つになって地面に落ちた。
リリオは、凄惨な光景に呆然とする藍の鳥族の男も同様に殺し去った。敵味方の区別が付いていないのだ。
「逃げろ――! 黒い鳥が目覚めた!」
ティワは命令を出し、リリオから逃げることしか出来なかった。
リリオは逃げ行く者達を一閃しながら黒い血の涙を流し、叫んだ。まるで痛い痛いと、叫んでいるかのようだった。
常に意識が途切れ途切れになった。いつも気が付けば血に塗れていた。
湖面に血がこびりついた顔を映した後、そのまま水を舐める。
私は誰だった?
記憶はほとんど残っていなかった。だけど何故かいつも、湖を捜してしまう。そこに、何か痛いほど捜しているものがあるかのように。
つらつら考えていると、茂みから男が一人現れた。
「リリオ」
男には見覚えがあった。でもおかしい。彼はこんなに年を取っていなかったはずなのに。
「――だれ?」
名前は思い出せなかった。でも確かに見覚えのある顔だ。
胡乱な目をするリリオを見て、ティワは槍を構えたまま涙を一つ落とした。
「今日は、正気なんだな」
どうして彼の体は、古い傷がたくさん刻まれているのだろう。誰かとずっと戦って来たのか?
「苦しかっただろう。もう、終わりにしたいだろう?」
男は槍を振り上げながら、静かに問うた。
問われても答えられなかった。けれど男の言葉は妙に甘美に聞こえた。
「ずっと謝りたかった。禁忌を破ることになった発端は――俺のせいだ」
何を言っているのかわからないまま、リリオは男の話に耳を澄ませる。
「フェンは俺を信用してお前のことを相談してくれたのに、俺はそのことを一族の皆に言ってしまった……」
ティワの声に滲むのは苦痛と、限りない後悔だった。
「禁忌の黒い鳥を、一族を救う希望だと勘違いしてしまった」
そうして禁忌が破られ、悲劇が生まれた。新しい黒い鳥が生まれた。
「これが俺の償いだ。――今、楽にしてやる!」
リリオの翼の刻印を目掛け、ティワは槍を振り下ろす。
迸る、赤黒い鮮血。貫かれる痛みはしかし、開放感をも伴っていた。
血だまりに倒れるリリオの傍に膝を付き、ティワは泣きながら言った。
「フェンの隣に埋めてやるからな……」
ああ、そうだ。フェン。彼をずっと捜していたのだった。だのに名前すら忘れていた。
泣き続けるティワに色々な感謝をこめて「ありがとう」、と言ったつもりだった。けれど唇はもう動いてくれなかった。
こうして、青の翼を背に抱く狩人は長い戦いの末、人を殺し続ける狂気の黒い鳥をようやく仕留めたということだよ。
え? ああ、そうだね。黒い鳥は人を殺したかったわけじゃないだろう。ただ、絶望していたんだね――。
これは古い古い物語。本当にあったことだと信じるも信じないも、あんた次第さ。
しかしこれは覚えておおき。伝承は馬鹿にしてはならない。
もし世界が滅んでも良いと思ったなら、黒い鳥を起こせ――。
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