【前日譚】閉じた瞼の上なら憧憬のキス 頬の上なら厚情のキス
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※本編前の話になります。ルースの記憶がなくなる前なので、ルースとフェリックスの関係が微妙に違ったりします。この話を読まなくても本編に支障がないようにしていますが、読んでいると本編で説明されることが詳しく、一足先にわかります。
※この話はルースの失った記憶の「一部」であり、失った理由や全体については本編で明かされます。
砂塵が巻き上がる荒野。いつまでも、この広々とした大地に慣れなかった。生まれた大陸が恋しかった。
ぼんやりと地平線を眺める少女の背に、声がかけられる。
「ルース、何をたそがれているんだ?」
カウボーイハットから金髪を覗かせた青年は、笑いを含んだ表情で見下ろしてきた。
「フェリックス。あたしに構うなって言ったはずよ」
少女は赤い唇を尖らせる。
「つれないなあ。親父さんから、捜してくるように頼まれたんだけど?」
「そう。パパも、雇われ用心棒ごときを信用しすぎだわ」
きつい言葉にもフェリックスは応えた様子はなく、肩をすくめた。
「良いから、町へ戻ろう」
「嫌よ。あたしは、ここにいる」
「へー。荒野の真ん中で、俺とデートしたいってこと?」
「誰がいつ、そんなこと言ったのよ!」
思わずフェリックスを平手打ちしようとしたが、難なくかわされてしまった。
「この辺は、コヨーテがよく出るらしいぜ。とっとと帰ろう」
「ふん、コヨーテなんか怖くないわ」
強がって一歩進んだ瞬間に銃声が響いて、ルースはひっくり返りそうになった。
「何するのよ!」
「蛇がいたもんで。俺が撃たなきゃ、咬まれてたぞ?」
見下ろすと、確かに蛇の死体がいつの間にか足下に現れていた。死んだ蛇から飛び退き、ルースはフェリックスを八つ当たり気味に睨みつける。
「蛇にコヨーテとは最悪ね。こんなところ、来るんじゃなかった」
「まーだ、んなこと言ってんのか。ここも、住み慣れればなかなか良いもんだぜ?」
「ここで生まれ育ったあんたには、わかんないわよ」
広くて危険がたくさんの、この新大陸が――ルースはまだ好きになれなかった。
「ここに来てから、興業的には成功してるんだろ?」
そう指摘され、ルースは口をつぐんだ。その通りだったからだ。
押し黙ったまま、ルースは町へと足を向ける。フェリックスは何も言わずに、ルースに付いてきた。
人々が集まる広場では、一人の少女が歌を歌っていた。輝く白金の髪。天使のように麗しく清らかな容姿。
宝石のような少女だった。
フェリックスの言ったことは、完璧な正解ではなかった。興業的に成功し始めたのは、“ここに来てから”ではない。“キャスリーンが舞台に立ち出してから”だった。
宝の歌姫と呼ばれる少女、キャスリーン。彼女はルースの二歳違いの姉だ。
元々ルースの一家は旅芸人の一座で、旧大陸にいるときも各地を転々としていて定住はしていなかった。
かつてのキャスリーンは内気な性格で自分に自信がなく、舞台に立ったことはなかった。一座の花形を務めていたのは、ルースだった。
しかし、新大陸へと活動の拠点を移してから、しばらくしてのことだった。キャスリーンがある日を境に、みるみる美しくなったのだ。
舞台に立ってみたいと主張した彼女は、初舞台以来、一気に人気者となった。評判はこの大陸中に広がっているのではないか、と思われるほどに、どの町でも大歓迎を受けた。
姉に嫉妬するなんて自分は何と醜いのかと思いながらも、ルースは悔しいと思う気持ちを止められなかった。
じわりと涙が浮かんだとき、フェリックスの手が頭に置かれた。
「泣かない泣かない」
「泣いてないわよっ!」
ルースはフェリックスの手を振り払い、きっと睨みつけた。
「あんたも、あたしじゃなくて姉さんに構えば良いじゃない!」
「俺はルースに構いたい」
「趣味悪いわね!」
一蹴したところで、公演が終わりを告げた。たくさんの人々がキャスリーンへと拍手を送り、父や母はそれを満足そうに見守っている。
何か使いを頼まれたのか、弟がルースの横を走り抜けた。姉がそこにいるとは、気付いてもいないようだった。
キャスリーンが変わってから、抱いたのは嫉妬だけではない。淋しさも、ルースを襲った。
父も母も兄も弟も伯父も伯母も従兄弟も――そして姉も、誰もルースを見てくれなくなった。
唯一見てくれると言えば……この、にやけた用心棒だけ。
ちらりと隣に立つ男を見やると、彼はすぐに視線に気付いた。
「何、ルース。俺に見とれてた?」
「そんなわけないでしょ!」
会話する度に、ほとほと嫌気が指すような用心棒だけが自分に構ってくれるとは、何とも情けない状況だった。
片付けを手伝った後、ルースはまた町の外に出た。
充分、町から離れたことを確認してから、すうっと深呼吸。
なめらかな声が、喉から滑り出た。
今はもう誰も聞いてくれなくなった、ルースの歌。
舞台に立たなくなってからは、こうして誰もいないところで歌うのが習慣となってしまった。
歌い終えると、驚いたことに拍手があった。振り返った先にいたのは、笑顔のフェリックスだ。
「フェリックス! あんた、勝手にあたしの歌を聞いたわね!?」
恥ずかしさを隠すためにも、ルースは大きな声を出す。
「おいおい。俺には、歌を聞かせるのも嫌だってのか?」
「そうよ」
言い切り、ルースは頬をふくらませた。
「あんたに聞かせる価値もない歌だからよ」
その視線に気圧されたように、フェリックスは苦笑した。
「お前の歌に価値がないわけ、ないだろ?」
「お世辞は結構よ」
歌には心が映されると聞いた。ならば今、嫉妬と淋しさでどうにかなりそうな自分の歌は、聞くに耐えないものに違いない。
「あたしの歌は、だめよ。だから誰も……」
誰も聞きたがらない。キャスリーンのように、万人を魅了することなどできない。
「だめじゃない。キャスリーンが、異常なだけだ」
「え?」
聞き返そうとしたが、フェリックスは踵を返して町の方へすたすた歩いて行ってしまった。
(――異常?)
妙な言葉だった。姉を讃えるに、ふさわしくない言葉だ。
しばし呆然としていたルースは真意を質そうと決め、フェリックスの後を追った。
「ねえ、フェリックス――」
ようやく追いついたとき、ルースの声が届く前にフェリックスの前方に一人の女性が現れた。
「あら、フェリックス」
「よう、リリー」
知り合いらしい。ハイタッチを交わしている。
ぽかんとしているルースを振り返り、フェリックスは女性を紹介した。
「ルース、彼女はリリーだ。この町にある服屋の、看板娘なんだ」
「こんにちは」
リリーは、艶やかな黒髪の女性だった。
「はあ……」
「あたしが悪漢に囲まれたとき、彼が助けてくれたのよ」
聞いてもないのに出逢いの理由を説明され、なぜだかルースは面白くなくなった。
リリーとの話に夢中になっているフェリックスに声もかけず、ルースは速足でその場を後にした。
(軽い男だってことを忘れてたわ。ちょっとでも、慰められた自分が情けないったら)
「あれ? ルース? どこ行ったー?」
しばらくして後方から間抜けな声が聞こえてきたが、もちろんルースは足を止めない。
姉への言葉を問いただしたい気持ちはあったが、今更引き返せなかった。
その夜、ルースは天幕の中で鏡を覗いていた。ランタンの薄明かりの中に浮かぶ、自分の顔。
小さい頃は金髪だったのに、いつの間にか金茶色に変わってしまった髪。そして、幼さを残す顔。
自分の顔ながら、嫌気が指す。十五歳なのに、十三歳ぐらいに間違えられることが多々ある。
そういえば、フェリックスも初対面で「こんにちは、お嬢ちゃん」と言ってきたのだった。
いちいち勘にさわる男だわ、とルースは舌打ちする。
(それにしても姉さんと比べて、あたしって何て平凡なんだろう)
姉が舞台に立つまでは、皆がルースを褒めそやした。天使のようにかわいい子だと言われ、天使の歌声だと言われた。
(今思ったらそれは、あたしを舞台に立たせるためのお世辞だったんだわ。声が潰れたママの代わりに、舞台に立てる歌い手の女が必要だったから――)
平凡な自分を特別だと思いこんだ自分は、何と愚かだったのだろう。
「あたし、醜いわ――」
驕りに溺れ、嫉妬を抑えられない自分が醜く思えてたまらない。
「そうは思わないけどな」
と呟いて、フェリックスが天幕の中に入って来た。
「――フェリックス! 勝手に、あたしの天幕に入ってこないで!」
「悪い悪い。ちょっと話があってさー。さすがに中に入るのはまずいか?」
「当たり前でしょ!」
個人用の天幕に信用できない男を入れるなんて行為は、未婚の女としての名誉に関わるのだ。
「じゃあ、外行こうぜ」
「コヨーテ出るんじゃないの?」
「コヨーテが襲ってきたら、俺が撃ってやるさ」
「大した自信ね」
嫌味を飛ばしながらも、ルースは立ち上がった。
悔しいことに、フェリックスの銃の腕が誰もが認めるほど見事なのは事実だった。
外には天幕が並んでいた。もちろんルースの家族のものなのだが、そこに姉専用の天幕はない。
姉だけは町長の好意で、最高級の宿屋に案内されたからだ。
「話って何?」
天幕の間をゆっくり歩きながら、ルースはフェリックスを見上げる。
「焦るなよ。あそこに行こう」
フェリックスが指さした先には、大きな岩があった。ルースがその岩に腰かけると、フェリックスは口を開いた。
「あんまり、卑下すんなよな。独り言、聞こえたんだ」
「な……」
ルースは真っ赤になった。
「ルースは美人だし、歌声も綺麗だ。プライドは高いけど、それに見合う努力家だ」
そこまで手放しに褒められると、嬉しさを通り越して恥ずかしい。
「あら、そうかしら。じゃあどうして、あたしは舞台に出してもらえなくなったの?」
益々赤くなった顔を隠すかのように、ルースは夜空を見上げる。
「――普通じゃないから」
「はい?」
「キャスリーンのことだ」
フェリックスは、恐ろしく真剣な顔になっていた。彼は昼間も、キャスリーンを“異常”と称したことをルースは思い出す。
「観察していて、やっと確信した。キャスリーンは、悪魔に憑かれている。悪魔の歌が人々を魅惑するのは、当然のことだろう」
「……何ですって?」
この男は一体何を言い出すのだ、とルースは眉をひそめる。
「話してくれたよな。キャスリーンは、ある日突然、美人になったって」
「ええ、そうよ」
昔のキャスリーンは、誰もが認めるような美女ではなかった。素朴でかわいらしいとは、言われていたが……。
「別人みたいになっちゃったの。髪も茶髪だったのに、プラチナブロンドになっちゃって。染めてもないらしいのよ」
正に劇的な変化だった。
「おかしいと思わなかったか?」
「思ったけど――実際、変わっちゃったんだもの」
普通なら、あそこまで容姿が変化することはないだろう。しかし姉の面影は、確かに残っていた。
「悪魔が憑いたから変化したと考えれば、納得できるだろう?」
「……悪魔が」
悪魔が取り憑いたせいで、姉は天使のような姿に変わったというのだろうか?
「でも、それじゃ変だわ。神父さんや牧師さんにも興業した町で会ったけど、何も言ってなかったもの」
「聖職者全てに悪魔を見抜く力があるとは限らない。むしろ、この力を持つ者は稀だ」
「――じゃあ、あんたには……あるの?」
ルースのためらいがちな問いに、フェリックスは頷いた。
「そもそも俺の本業は、用心棒じゃなくて悪魔祓いだ」
「ええ?」
「言っとくけど、俺は神父でも牧師でもない。たまたま悪魔を見る素質を持って生まれたから、悪魔を退治しているってわけだ」
ルースは納得した。もしフェリックスが神父や牧師だったと言われたら、天地がひっくり返るほど驚いただろう。どうひいき目に見ても、フェリックスは聖職者には見えない。
「前にウィンドワード一座が興業を行った町で、キャスリーンのことを聞いた。上級の悪魔は人間に同化するのが上手すぎて、なかなか尻尾を出さないんだ。だから俺は、確証を得るためにも用心棒としてここに潜り込んだというわけさ」
とんでもない話に、ルースは唖然とするばかりだった。
「悪魔が憑いてるってわかったなら、さっさと退治してよ!」
「――それが、そう簡単にはいかない。キャスリーンを殺すことになる」
ルースは愕然として、フェリックスの胸倉をつかんだ。
「どうして!」
「キャスリーンと悪魔は同化しすぎている。分離はもう、無理だ」
フェリックスも、辛そうな顔をしていた。
そこでルースも悟った。だからこそ、フェリックスは慎重にキャスリーンを観察してから決断したのだ。
「パパやママには、もう言ったの?」
「いいや。家族の中で魅入られていないのはお前だけだから、お前にしか言わない」
フェリックスは、青い目でルースを見据えた。
「あの悪魔は、人を誘惑する力を持つ。家族の様子も、段々とおかしくなっていっただろ?」
「ええ……」
キャスリーンが変わりはじめてから、家族は皆キャスリーンにしか興味を示さなくなった。
「キャスリーンに憑いた悪魔が、そう仕向けたからだ。あの悪魔は魅惑した人々から、少しずつ生気を取り込むことができる“誘惑”の悪魔だ」
そういえば、キャスリーンが変わり始めた頃から、家族はどことなく憔悴した顔を見せるようになった。公演の後、観客がげっそりしていたのも気のせいではなかったのか。
「だが不思議なことに、お前にだけは魅入ろうとはしなかった」
言われてみれば、ルースは他の家族のように変わったキャスリーンに心酔しなかった。それは、自分の嫉妬ゆえだと思っていたのだが……。
「なぜかは、俺にもわからない。だがおそらくキャスリーンは、お前に一番思い入れがあるんだろう。それで悪魔の力をお前には向けなかったのかもしれない」
「そう……」
不思議だった。確かに昔は仲の良い姉妹ではあった。舞台に出るルースの髪をいつもくしけずってくれたのは、キャスリーンだ。
一度だけ聞いたことがあった。どうして舞台に出ないのかと。
『私は、ルースを支えるだけで満足なのよ。綺麗なルースを見て、綺麗なルースの声を聞くと私は幸せ』
キャスリーンは笑って、そう言っていた……。けれど――
「フェリックス」
「何だ?」
「姉さんが悪魔になった理由には、あたしが絡んでる?」
勘だったが、フェリックスは動揺を見せた。隠していたのだと、嫌でも悟る。
「聞かない方が良い」
「いいえ。あたしは知るべきよ」
燃えるような目で、ルースはフェリックスを睨みつけた。
「やれやれ。――後悔するなよ」
ルースの目を見て、フェリックスは覚悟を決めたように語り始めた。
「悪魔に取り憑かれやすいのは、大罪とされしものを抱く人間だ。大罪は七つ――虚栄、貪欲、色欲、暴食、憤怒、嫉妬、怠惰――これに付け込まれ、憑かれることが多い」
言われた中で一つ、思い当たるものがあった。
「姉さんの場合は――嫉妬?」
「おそらくな」
フェリックスは話を聞き、自分なりに推理したのだろう。
優しい手でルースの髪をとかしてくれた姉は、舞台に立つ妹に密かに嫉妬していたのだ。――今のルースのように。
「だから、あたしは魅入られなかった」
姉は、わざと自分に理性を残させて苦しめたかったのかもしれない――。
それほど妬まれていたのか。それほど憎まれていたのか。そう思うと哀しくて、涙が次々に溢れた。
「だから言ったんだ。聞くな、って」
フェリックスはため息をつき、ルースの肩を抱いた。
「ルース。悪魔に憑かれた人間の近くに家族や親しい者がいる場合、身内から許可を得て俺は悪魔祓いを行うことにしている。だから、決断してくれないか」
両親も兄弟もキャスリーンの力で魅惑されているから、ルースしか冷静な判断を下せないのだろう。
「このままだったら、姉さんはどうなるの……?」
「近い内に死ぬだろう。悪魔はもうキャスリーンと同化して、命はほとんど食らっているはずだ」
ルースは衝撃的な真実に、目を見張った。
「今生きているのは、ほとんどキャスリーンじゃない。悪魔と、キャスリーンの……名残だ」
フェリックスは唇を噛み、続けた。
「間もなく悪魔はキャスリーンの魂まで食らうだろう。キャスリーンの魂を食った後、悪魔はまた別の者に取り憑く」
淡々とした説明だったが、だからこそ悪魔に取り憑かれた者の末路の悲惨さが伝わってきた。
「じゃあもう……選択肢は一つしか、ないのね」
「ああ」
キャスリーンは、殺されなくてはならないのだ。
「あんたに、ためらいはないの?」
呟くルースの前に、フェリックスが銃を掲げた。
「祈祷や聖水で治せる悪魔憑きは、初期症状のときだけだ。それ以外の者は殺すしかない。この中に入っているのは、ただの鉛弾だ。悪魔だけを貫くような特殊な弾じゃない」
悪魔と共に人を殺し続けた彼は、見た目通りの人物ではないのだとルースは悟った。
「姉さんは、あんたと会ったときから――助からないと?」
フェリックスが合流したのは、二週間ほど前だ。
「ああ。気配が同化しすぎていた。だからこそ、確かめるのにこれだけかかった。“手遅れ”の兆候だ」
「あたしは、あんたを信じるべきなのかしら」
それとも、悪魔の存在など突っぱねてフェリックスを殺人者として謗《そし》るべきなのか。
失礼とも言える台詞に、フェリックスは少し陰のある微笑を浮かべた。
「信じるかどうか、今から決めてくれ」
フェリックスはルースの手を引き、町の中へと誘った。