【前日譚】閉じた瞼の上なら憧憬のキス 頬の上なら厚情のキス
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こっそりと宿に忍び込み、姉の泊まる部屋に辿り着いた。扉を開いた瞬間、ルースは息を呑んだ。
キャスリーンが、うめいて床にのたうち回っていたのだ。
「姉さん!」
近寄ろうとしたルースの腕を、フェリックスがつかむ。
「離れていろ」
「フェリックス……これは、一体……!」
「さっき言ったように、同化した悪魔はなかなか気配を見せない。しかし、気配が濃くなる時間帯がある。それが真夜中。更に今日は――悪魔が魂に食い込む日だったみたいだな」
フェリックスは銃を持った腕を掲げた。
ハッとして、ルースは月光に浮かび上がる壁時計を見やる。十一時四十九分だった。
命を最後まで搾り取られそうになっているから、姉はこんなにも苦しんでいるのか。
苦しそうな姉は、こちらを睨みつけて喚いた。聞いたこともないような言語を口走っている。悪魔の言葉なのだろうか。
喚きの間から、姉の声が切れ切れに聞こえる。
「たすけ……助けて……」
「姉さん――」
ルースは歯を食いしばった。苦しそうな姉を見るのが耐えられなかった。
「今宵、悪魔はキャスリーンの魂を全て食らうだろう。この悪魔を祓えるのは、この夜が最後だ。決断してくれ、ルース」
フェリックスは押し殺した声で告げた。
このままにして姉の魂を悪魔に食わせるか、フェリックスの手によって悪魔ごと殺してもらうか。
それを、唯一正気を保った身内であるルースが決断を下さなくてはならないのだ――。
もし、フェリックスが間違えていたら?
「ルー……ス」
姉は苦悶の表情で、空をかいた。青白い顔に青筋が走り、白目が血走る。
悪魔が、姉の魂を食ってしまう――。
「おねがい……たすけて…………」
苦痛が滲んだ声を聞いて思わず目をつむり、ルースは叫んだ。
「フェリックス! 姉さんを楽にしてあげて!」
言葉がほとばしった瞬間、銃声が響いた。心臓めがけて発射された弾丸を受け、姉は床に倒れる。
ルースが駆け寄ると、キャスリーンの体に変化が訪れた。白金の髪は茶色へと、緑の目は濃げ茶色に変わる。
昔の、姉の姿だった。
「……ルース?」
姉は安らかな表情で、口を開いた。
「私は一体、どうしたのかしら」
「姉さんは……悪魔に憑かれていたのよ」
正直に言うと、キャスリーンは驚きもせずに微笑んだ。
「そう……そうだったの。いきなり綺麗な女の人が目の前に現れて、私を綺麗にしてくれると言ったことだけは覚えているのだけど――」
それが悪魔との契約だったのか。
キャスリーンは一旦口を閉じ、またルースを真っ直ぐ見ながら喋り始めた。
「私はあなたのことが、ずっと羨ましかった。ずっと、ずっとね」
歌うような呟きを聞いている内に、涙が溢れる。
「正直、妬んだわ……。でもそれと同時に、憧れてたのも本当。あなたのようになりたいと、切に思った」
嫉妬と似ているようで違った感情の名前を、ルースも忘れかけていた。
そっと姉は身を起こし、胸の痛みをこらえて目をつむったルースのまぶたに口づけた。そして浮かべた笑顔は、どこまでも透明だった。
ルースだって憧れていた。穏やかな姉の笑顔や気遣いに。ルースが泣いたとき、背中を撫でてくれた優しい手に。
自分が持ち得ないものに、人はどうしても憧れてしまう。ときにはそれを、嫉妬の気持ちに発展させてしまう。
最初は、純粋な憧れであっても――。
「本当に、ごめんね――」
謝罪の言葉を残して、姉は消えてしまった。砂へと姿を変え、他には何も残らなかった。
「姉さん……!?」
何もない空間を凝視し、ルースはおののいた。
「悪魔と同化して死んだ体は残らない。さっき、お前と話していたのは――キャスリーンの、名残だ」
「……そんな……」
説明を聞いて涙を滂沱と落とすルースの肩に、フェリックスの手がそっと置かれた。伝わる熱に、どうしてか姉の手を思い出す。
「ルース、行こう。銃声が聞こえただろうから、人が来る」
「ええ……」
返事をしても動こうとはしないルースを強引に抱き上げ、フェリックスは窓から身を躍らせた。
突如、失踪したキャスリーンを、家族だけでなく町中の人々が捜し続けた。けれどもちろん、キャスリーンは一向に見つからなかった。
家族達は大いに嘆いた。しかし不思議なことに、家族の話題に上るキャスリーンは魅惑的な歌い手のキャスリーンではなく、裏方として家族や興業を支えてくれたキャスリーンの方だった。
当然かもしれない。悪魔の力は、キャスリーンの死と共に去ったのだから。
とうとう姉の捜索を諦めて町を発つと父が決めた際、町長からもう一度公演を頼まれた。
歌い手として舞台に立つのは――ルースだった。
大勢の観客を前に、ルースは歌った。今はもう、ここにはいないたった一人に捧げる、鎮魂歌《レクイエム》を。
どうぞ姉の魂が安らかでありますようにと、切に願いながら淋しい歌を紡いだ。
出発の朝、幌馬車の前で父から金が入っていると思しき袋を受け取るフェリックスを見た。
(そっか……。フェリックスは悪魔を退治したから、ここでお別れなのね)
正直、淋しい気持ちになったというのが本音だ。一緒にいたのは短い間だったが、姉を救ってくれたのは彼だ。思い入れができていても、おかしくない。
「フェリックス。話があるから、こっちに来て」
ルースが声をかけると、フェリックスはにっこり笑って頷いた。
またも町の外の荒野に立ち、二人は会話を交わす。
「話って何だ?」
フェリックスは気楽に肩をすくめた。
「あの……色々、ありがとうね」
気恥ずかしくて顔を背けながら言うと、フェリックスは眉を上げた。
「姉さんも、きっと……感謝してると思う……」
顔をフェリックスの方に向ける前に、頬に音を立ててキスをされた。
「My Pleasure《どういたしまして》」
ルースは顔を真っ赤にしたが、すぐにフェリックスに指を突きつけた。
「い、いつもだったら怒るところだけど……お別れの餞別ってことで、怒らないでおくわ!」
「別れって?」
聞き返され、ルースは眉をひそめた。
「あんた、ここであたし達とお別れでしょ? 悪魔退治は終わったんだから」
「いいや」
あっさり否定され、ルースは卒倒しそうになった。
「ああ、言葉足らずだったか。俺の本業は悪魔祓いだけど、悪魔祓いの依頼ってほとんど無償だから、副業の用心棒で食ってるわけ。親父さんから、さっき契約継続の前金もらったぞ」
唖然とするルースに、フェリックスは極上の笑顔を投げかける。
「というわけで、これからもよろしく!」
「何ですってえええ!」
「俺と離れてしまうと思って淋しかったんだろ? しょうがないなー」
「近づかないで――!」
にじり寄るフェリックスの頬を、ルースは思い切りひっぱたいてしまったのだった……。
The End and To be continued...