4. Ghost
ゴースト
オーウェンは顔を洗い、自分の顔を睨みつけるようにして鏡に映った己を見た。
ふと、顔が青ざめているような気がして眉をひそめる。全体的に鏡の中が暗いのだ、と気づいたときに後ろからのんきな声が聞こえた。
「兄さん、おはよう」
振り返ると、フェリックスが立っていた。
「……よう」
一応挨拶を返してから、洗面台から退く。通路が狭いので、すれ違うのも一苦労だ。
「お前も、朝は帽子をかぶってないんだな」
オーウェンの呟きに驚いたように、フェリックスは自分の頭に手をやった。
トレードマークのようなカウボーイハットは、今そこにない。
「そりゃあ、俺だって外すときは外すよ」
「そうか」
確かに、ずっとかぶっているのも変だ。しかし西部の男たちは大体この型の帽子をかぶっているので、町に行くと誰が誰だかわからなくなる。
オーウェンは適当な相槌を打ち、その場を去ろうとしたが……
「兄さんて、俺のこと嫌いだよな?」
フェリックスの――内容にそぐわぬ軽い口調で放たれた言葉に、足を止めた。
頷きもせず否定もせず、オーウェンは一言口にした。
「信用できない」
「……ふうん」
「俺は、お前が怪しい動きをしていることは知ってるんだぞ」
てっきり慌てふためくかと思ったが、フェリックスは動じた様子も見せずにオーウェンに静かな目を向けていた。
天空の色をした目に腹の底まで見透かされているようで、落ち着かない。
「お前が何者なのか知らないが、俺たち一家にとって危険だと判断すれば――出ていってもらうからな」
宣告を受け、フェリックスはようやく表情を動かした。予想だにしなかった表情――安堵を浮かべたのだ。
「それで良い」
「何だと?」
オーウェンは戸惑い、どういうことかと追求しようとしたが、向こうからやってくる元気な声に阻まれてしまった。
「フェリックス! お兄ちゃん!」
ジョナサンが走ってきた。
「よーう、ジョナサン。よく眠れたか?」
「うん!」
ジョナサンは、フェリックスに飛びつかんばかりだ。
「あれ、オーウェンは?」
「――さっきまでいたけど」
二人が自分を捜す声が聞こえたが、オーウェンは応えるどころか益々急いでその場から遠ざかった。フェリックスがジョナサンに気を取られている隙に、退散してきたのだ。
(ジョナサンの奴、すっかり懐いてるな)
面白くなかった。突如として家族の中に入ってきた用心棒の存在は、オーウェンにとって受け入れ難いものだった。
オーウェンは自室に戻ってベッドに座り、ようやく一息つく。狭い個室だったが、住み心地は悪くない。
今回は長期公演が約束されたため、宿泊所も提供してくれた。家を丸ごと一家に貸し出してくれる形で、実に有り難い。
ルースもジョナサンも一人部屋ということで、やたら喜んでいた。
そろそろ朝食の時間だったので、オーウェンは重い腰を上げた。
ルースは兄の姿を認めるなり、不機嫌そうな顔になった。
「兄さん、遅いわよ。朝ごはん冷めちゃうじゃない」
「悪い。ちょっと考えごとしててな」
オーウェンは言い訳しながら椅子に座ったが、隣のフェリックスがにやにやと笑いながら話しかけてきた。
「わざとだろ、兄さん。ルースが朝食当番だからって」
そんなフェリックスの顔めがけて、黒こげベーコンが飛んできた。フェリックスは素早く避けて、ベーコンを見事にフォークで受け止める。あまりの黒こげぶりに食欲をなくしたのか、哀れなベーコンは皿の隅に追いやられていた。
「うるさいわよ、フェリックス! 今日は昨日より、ずっとましなんだから!」
ルースはそう言ったが、ジョナサンは憂鬱そうに半生スクランブルエッグを食べていた。
「おいしくない……」
「ジョナサン! 好き嫌いしちゃだめよ」
好き嫌いの問題じゃないだろう、とフェリックスが呟いている。
確かに妹の料理は、ひどいものだったが――一向に食が進まない二人とは対照的に、オーウェンは出された朝食を素早く綺麗に平らげた。
「さすが兄さんね! おかわり要る?」
微笑まれ、悪い気はしない。
「……いや、もう満腹だから遠慮しておこう」
残念ながら、ここでおかわりができるほどの胆力は持ち合わせていなかった。早く食べたのも、味わっていられないからだ。
「明日は、俺か兄さんが作るよ。ルースも毎朝、大変だろ?」
フェリックスが、さりげなく提案する。
勝手に数に含めるな、と言いたかったが、実はこれこそ今日オーウェンが妹に提案しようと思っていたことだったので、敢えて口は出さない。
「ううん、良いのよ。ママが元気になるまでは家のことは任せた、ってパパがあたしに言ったんだし。大体、兄さんはともかく、あんたがあたしより料理が上手なんて思えないわ」
「ルースよりは、上手い気がするけどなあ」
ルースは舌を出したが、フェリックスは飄々《ひょうひょう》として言い切った。
「お母さん、早く元気になると良いね」
ジョナサンは半生スクランブルエッグを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「大丈夫よ、ジョナサン。ママもちょっと、疲れが出ただけだって言ってたし。今回、長期公演でここに住めるようになって本当に良かったわね。ゆっくり休めるわ」
ルースは空元気めいた大きな声を出し、食べかけの黒こげベーコンをかじり始めた。
果たして作った当人はおいしいのだろうか、と三人はそっと顔を見合わせる。
おいしいとも言わなかったが、嫌な表情は見せなかったのでルースの味覚は変わっている方なのだろう。
オーウェンは鉄の自制心で表情を表に出さなかっただけであり、顔に出やすいルースにそんなことは不可能だ。つまり、ルースは「まずい」とは思っていないらしい。
「ところでパパ、遅いわね。いつになったら降りてくるのかしら」
なかなかアーネストが起きてこない理由はルース以外の者にとってあまりにも明らかだったので、誰も返事をしなかった。
ノックをすると、力ない声で「どうぞ」と返事があった。
「俺だ。入るよ」
中に入ると、エレンがぐったりとした様子でベッドに横たわっていた。
「具合はどうだ?」
「――昨日よりは、ましだね」
「食べ物と水を持ってきた」
ルースが余らせた材料でさっと作ったものだったが、エレンはおいしそうに食べてくれた。食欲はあるようだ。
黒い髪と黒い目、少し浅黒い肌。
エレンとオーウェンは、一目で母子とわかるほどによく似ていた。
アーネストも、ルースも、ジョナサンも、そして今は亡きキャスリーンも最高の家族だと思っていたが、彼らといると時折阻害感にも似た異質感に襲われることがあった。
エレンの側にいるときは、それがない。実母なのだから、当然とも言えたが――。
「あんたもね、あたしに似て少し聡いからね」
突如、エレンがオーウェンを見据えた。
「感じているかもしれないね。ここが、あんまり良くないって」
「ああ……」
漠然とした不安のようなものを、感じていた。この屋敷に入ったときから覚えていた、正体不明の違和感が、まとわりついている。
「母さんは、そのせいで?」
「まあね。なに、すぐに治るさ。当てられただけだから」
エレンの曖昧な言い方を聞いて、オーウェンはただ頷いた。
母に比べれば自分は鈍い。そんな自分でも感じた違和感を、エレンはまともに喰らってしまったのだろう。
「それなら良いんだがな」
しばらく沈黙していると、母はいつの間にか寝息を立て始めてしまった。
オーウェンは母を起こさないように、そっとその部屋を後にした。
公演は明日だ。ここで練習ができるため、丸ごと家を貸してくれるというのは、そういう意味でも有り難い話である。郊外にあるため、他の家に気を使わなくても良いのも助かる。
オーウェンはギターを爪弾きながら、息をつく。
フェリックスとアーネスト以外の者は皆、楽器の練習をしていた。オーウェンはギター、ルースはマンドリン、ジョナサンはフィドルだ。
家族のみんなは一通り、どの楽器でも演奏できるようにはしてあるが、やはり担当楽器が一番得意だった。
「すまんな、フェリックス。しばらくやかましいぞ」
「やかましいなんて、とんでもない。無料でウィンドワード一座の演奏が聞けるなんて、最高だ」
アーネストの謝罪に、フェリックスは笑って答えた。
「お前も加わるか?」
「口笛でよければ」
「上等じゃないか!」
冗談だったろうに、アーネストは本気にしている。
「ちょっとパパ。そろそろ合わせたいんだけど」
「ああ、はいはい」
ルースに強く言われると、熊のようなアーネストもたちまち形無しだ。
「それでは始めますか」
たった一人の観客――フェリックスがソファに座り直し、ぱちぱちと手を叩く。
「一曲目は――」
アーネストの口上の途中で、上の階から何かが落ちる音が響いた。
「――母さん?」
オーウェンはギターを置いて、走り出す。その後ろから、他の者も後を追った。
エレンが、ベッドから落ちていた。
青ざめたオーウェンが母親を抱き起こす。胸は通常通り上下しているので呼吸に異常はないようだが、いやに顔が青かった。
「ヘイリー……」
呟く声に、アーネストが顔をしかめる。ルースもオーウェンも、戸惑ったように首を振った。
「お姉ちゃん、ヘイリーって」
ジョナサンは心配そうに、ルースの手を引く。
「ええ。ヘイリーは、死んだママの名前よ」
ふと、オーウェンは窓が開け放たれていることに気がついた。はたはたと、白いカーテンがはためいている。
「……おい、用心棒」
オーウェンはフェリックスの肩を叩き、部屋を出るように顎で促した。
廊下に出て扉を締め、オーウェンはぽつりと呟く。
「お前、ちょっと町まで付き合え」
「良いけど――どうして?」
「元々、条件が良すぎた。タダでここを貸した理由が、あるはずだ。それを突き止めにいく」
もう日も暮れてしまっているが、明日まで待つなどという悠長なことはしていられなかった。
「兄さん、かっこいい!」
「黙れ。黙って付いてこい」
オーウェンは肩を怒らせ、家族に町まで行くことを告げに、一旦エレンの部屋に戻った。
夜の町は静かだった。町長の家に向かい、迷惑と知りながら扉を乱暴に叩く。
「……どちらさま?」
家政婦らしき初老の女が扉を少しだけ開き、顔を覗かせた。
「家を貸してもらっている、ウィンドワードの者だ」
「ああ、旅芸人の」
女は明らかに顔をしかめた。時折、こういう風にあからさま蔑みをぶつけてくる人間は残念ながら存在する。
「何の用です?」
「家に問題が発生した。すぐに町長に会わせてほしい」
「はいはい」
女は扉を開け、入るように促した。オーウェンとフェリックスは中に入り、女の後を追う。
「呼んでくるから、ここで待っていてください」
女は二人を手で制し、二階に上がっていった。
町長は、すぐに下りてきた。
「――やあ、これはこれはウィンドワード一座の……」
このグリー町長は、まだ若い。四十代ほどだろう。鍛えているのか、理知的な面差しとは対照的に、がっしりとした体つきをしていた。
「お貸しした屋敷に関して、お話があるようですね。どうぞ、こちらの部屋に」
グリー町長は嫌な顔ひとつせず、唐突な夜の訪問者を丁重に歓待してくれた。
促されても、オーウェンは座らなかった。それどころか、グリーを真っ向から見据えて問い詰める。
「なぜ、あの屋敷を貸してくれたのですか」
「……説明したはずです。長らく空き家になっており、このままでは家が傷んでしまう。大事に使って、修繕などもしていただければ一時的に無料でお貸しすると……」
最初に聞いた説明を、ほとんどそのまま繰り返された。
「本当に、それだけなのか?」
フェリックスが口を開くと、グリーの目にわずかに動揺が走った。
「やはり、何か魂胆が……!」
「違います。そうではない」
グリーは大きなため息をつき、続けた。
「一時的にあそこは騒がれ、忌避された屋敷でもあるのです。しかし長い年月も経ったことだし、人を住まわせても大丈夫ではないかと――」
「つまり、俺たちは実験台だったわけだ」
熱い怒りに任せてグリー町長の胸倉をつかみそうになったところで、フェリックスに手首をつかまれる。
「兄さん、落ち着いて。町長相手に暴力沙汰起こしたら、ただじゃすまないぜ?」
「……わかったから、放せ」
フェリックスがすぐに手を放すと、オーウェンは強張った手を抗い難い力に逆らうように力をこめて、下ろした。
「騒がれたって、どうして騒がれたんだ?」
フェリックスの問いに、グリー町長は戸惑いながら答えを口にした。
「あそこはかつて、幽霊屋敷と呼ばれていたのです」
「そんなところに、俺たちを住まわせたってのか!」
またもオーウェンは激昂し、拳を握り締める。
「違うのです。もう、噂は絶えたから平気だろうと……。それに、私はウィンドワード一家に高名な占い師がいると聞きまして」
それを聞いて、オーウェンは表情をなくした。
「もう、占いはしていない。音楽だけだ」
「そうですか。噂を聞いたんですけどね。もったいない」
「――それより、町長」
痺れを切らせたように、フェリックスが口を開く。
「要は、占い師に幽霊屋敷を何とかしてほしかったってことか?」
町長は答えに窮したように口をつぐみ、フェリックスとオーウェンを交互に見た。
「ってことなら、解決してやっても良いぜ」
おい、とオーウェンが囁いたがフェリックスの舌は止まらず、更に続けた。
「ただし、報酬はそれなりのもんくれるんだろうな? 最初に言わなかったことも考慮してくれよ」
「――それは、もちろんです」
町長は少しためらいながらも、頷いた。
「じゃあ、今日のところは引きあげるか。また話を聞きにくるからな」
フェリックスは呆然とするオーウェンの腕を引き、扉を乱暴に開いた。