6. Loss
4
鈍い音がして、男は血を吐いた。
「お、まえっ……!」
「何か文句があるの」
彼を見下ろすのは、金色の髪の女。普段は笑顔によって緩和されている顔つきの鋭さが、今は凄絶とさえ言える美貌になっている。
「約束を先に破ったのは、あんたよね? セシル」
ジェーンは力なく横たわったセシルに優しく問いかけて、指の上にブーツをかざす。
「あんたの商売道具、踏み砕いてやったって良いのよ」
「それは……止めてくれ!」
セシルにとって、手はまだ大事なものだった。
「あんたは、私の顔を潰したも同じ。相応の痛みを味わってもらわなくちゃ」
「――ジェーン」
澄んだ声が響き、ジェーンは振り向いた。
「行こう」
「――命拾いしたわね」
吐き捨て、ジェーンはフェリックスの元へと歩み寄った。
フェリックスと並んで歩きながら、ジェーンは舌打ちと共に問う。
「どうして止めたのよ」
「もう充分だろ」
「だから、あんたは甘いのよ。まだまだね」
ジェーンは擦れたような笑い声を立てる。
「サルーンにいられなくなったんじゃ、ここから出ていくしかないだろ。ジェーンの名誉も、そう傷つかないさ」
「だと良いけど。そういえばセシルはこの頃、おかしかったのよね」
ジェーンが思い出したように呟いた。
「おかしいって、どういう風に?」
「人が変わったみたいよ。でも芸術家って、繊細なのが多いからね。あれも、昔は大きい夢を抱えてたのよ」
ジェーンの口ぶりからは、落胆がうかがえた。察するに、彼女はセシルに期待していたのだろう。
「夢って、どんな夢なんだ?」
「セシルは、良いところの坊ちゃんだったのよ。でも、ピアニストになりたかったから家業を継がなかった。それで勘当されたんだけど、夢を諦めずに旅をしながらサルーンで演奏して日銭を稼いでた。昔のセシルのピアノには、人を惹きつける力があった。私もみんなも、応援したわよ」
ジェーンは深いため息をついて、半端に欠けた月を見上げた。
「いつから、あんなに情けない男になったのかしらね。酒に溺れて練習もしないから、劣化するばかりよ」
「……随分と、あいつのこと気にかけてるんだな」
フェリックスの口ぶりに気を悪くしたように、ジェーンは鼻を鳴らした。
「セシルは、あの子の恋人だったからね……」
「あの子って?」
「殺された賞金稼ぎの一人、ベティよ」
「――ああ、なるほど。それでか」
フェリックスは納得したように頷いた。
「ベティは良い子だったわ。荒野で生きるには甘すぎたけど、銃の腕も捨てたもんじゃなかったし……何より愛嬌があって、みんなにかわいがられてた」
「賞金稼ぎの娘に、ピアニストの男か……」
フェリックスは一人ごちて、ジェーンにならって空を仰いだ。
セシルは自分のあばら家に帰って、ベッドに横たわって指を撫でていた。
ピアニストにとって、指は命に等しい。
ジェーンは、あれだけボコボコにしておいて、指だけは傷つけなかった。――脅しはしたが。
ベティの姉貴分であったジェーンは、なんだかんだセシルには甘いのかもしれない。
殴ったジェーンよりも、それを制した男の目の方が怖かった。視線だけで殺されてしまいそうな、冷たさを感じた。
思い出して身震いし、ベティの遺品である指輪の嵌まった薬指を撫でる。
(どうして死んでしまったんだ……)
どれだけ嘆いても、ベティは帰ってこない。ブラッディ・レズリーが憎かった。
なぜ、ブラッディ・レズリーは賞金稼ぎを殺し続けるのか。
それはきっと、真相に近づいたからだ。未だ謎に包まれた、西部を支配するブラッディ・レズリー。
“レズリー”が男を表すのかそれとも女を表すのか知らないが――レズリーは男女共に使える名前だ――、“血まみれ”と冠するあたり憎しみを感じてならない。きっと首領のクルーエル・キッドは、その通り名のごとく残酷な男に違いない。いや、皆が男だと仮定しているだけなので、もしかすると女かもしれないが。
ベティがいなくなってから、夢に張り合いがなくなった。自分の夢は堅い親に反抗するための道具でしかなかったのだと、思い知る。
早く、この町を出ていこう。ベティの匂いが残る、この町を――。
夕食も取らずに昏々と眠りこんでいると、そっと揺さぶり起こされた。
「ルース。起きられるか」
「……うん」
「せめて着替えて寝なさい。温かいスープを持ってきた」
母のように諭し、フェリックスは小さなテーブルに置かれたスープを指差した。
正直、かなり空腹だった。
温かいコンソメスープを口に入れた途端、胃にじわっと染みた。舌に優しい味が残る。
「頭は、まだ痛むか?」
「ううん」
なぜ頭痛のことを、と問いかけたがジョナサンが話したのだろうと見当を付ける。当のジョナサンは、ベッドの隅っこで丸まって眠っていた。
「今、何時?」
「十時ぐらいかな。親父さんたちも心配してたぞ」
「……そう」
ルースは息をついて、思い出すまいとした。
「ジェーンが、あのピアニストぶん殴ってたから――許してやってくれ」
「……ええ」
元はといえば、無理を言ったのはルースだ。野次や投石に屈しない根性を携えてないと、この町で口にしてはいけなかった申し出だったのに。
「そうだわ、あたし――この町について聞いたことがあるんだけど」
「え?」
「賞金稼ぎの町。誰から聞いたのだっけ」
この町に寄ったことはなかったはずだが。近くにこのような町があると、誰かに聞いた気がする。
(近く……?)
おかしいことではない。ウィンドワード一家は、西部を巡業して回っているのだ。前に回った町に近づくことだってある。
(だけど、どうしてそのあたりが空白なの……)
「ルース」
フェリックスに名前を呼ばれ、ルースは思考に沈んでいた意識を戻した。
「俺は今日あっちの部屋にいるから、何かあったら呼べよ」
「わかったわ」
「今日は銃撃戦はないから、安心しろ」
「わーかったわよ」
昨日怯えていたところを見られたのは、大失態だった。
フェリックスが出ていった後、ルースはのろのろと着替え始めた。
(あれ……あたし、何を思い出そうとしてたんだっけ)
思考がもやに、閉ざされてしまっていた。
カウンター席でジェーンがグラスを傾けていると、男が近づいてきた。
「あら、お兄さん。一緒に飲む?」
「……いや」
宿と一緒になったサルーンは、夜更けだけあって人もまばらだった。
「ところであんた、俺より年上だろう。その呼び方は止めてくれ」
「別に良いじゃない。じゃあ――“坊や”って呼んであげましょうか」
「……それは、もっと止めてくれ」
オーウェンは脱力したように、大きなため息をついた。
「まあ、座ったら?」
促され、オーウェンはためらいがちにジェーンの隣に腰かけた。
ジェーンが煙草の煙を吐き出すと、オーウェンは不快そうに眉をひそめた。
「煙草が嫌いなんて、本当に坊やのようね。ところで、私に何を聞きたいの?」
見抜かれていたことに動揺し、次にオーウェンは開き直って咳払いした。
「あの、用心棒のことだ。あれは何者だ」
ふっ、とジェーンの口元に小馬鹿にしたような微笑が浮かぶ。
「何者って? フェリックスはフェリックスよ」
「あんたは、あいつの正体を知っているのか」
流れた沈黙こそが、答えだった。
「――だから何よ」
苛立った様子で、ジェーンは髪をかき上げた。
「言っておくけど、私はフェリックスの味方にはなっても敵にはならないわ。おわかり?」
「わかっている」
殊勝なオーウェンの言葉を聞いて、ジェーンは目を見張る。
「ただ、教えて欲しいだけだ。あいつが信頼できるか、できないか」
しばし二人は見つめ合った。睨み合ったと形容した方がしっくり来るほど、険呑な視線だったが。
そしておもむろに、ジェーンが笑い声をあげる。
「私が一言言って信用するようになるなら、あなたはとっくにあの子を信用してるわ」
煙草の紫煙のように、苦い言葉だった。その通りだからこそ、オーウェンは言い返せなかった。
またも沈黙が流れる。今度の沈黙はひどく気まずく、オーウェンはそれを破るきっかけを探して、ジェーンの手元にある写真を目に留めた。
「――それは、誰だ?」
オーウェンは、写真を顎で示した。
そばかすの散った顔に溌溂《はつらつ》とした笑みを浮かべた少女は、その華奢な体躯に似合わぬ大ぶりの銃を携えていた。
「ベティ。とても、かわいい子だったのよ」
過去形でジェーンは呟いた。オーウェンは思わず、いぶかしむ。
「妹か?」
「いいえ。妹みたいに、かわいがってたけどね。駆け出しの賞金稼ぎだったのよ」
酔っているのか、ジェーンはよく語った。
「哀しい想いをするから……妹分は作らないようにしていたのにね」
囁きにも似た微かな呟きを吐き、ジェーンは机に突っ伏した。オーウェンがためらいがちに立ち上がったとき、ジェーンは顔を上げた。その目に涙はない。
「お兄さん、覚えておいて。――自分の心を信じられない者は、誰も信じられないってね」
「……どういう、意味だ」
「さあね。酔っ払いの戯言よ」
ジェーンは軽やかに笑い、ウィンクしてみせたのだった。
翌朝、ルースはぼんやりと窓から外を眺めていた。不穏な雰囲気に包まれていたが、町ゆく人々には生命力が溢れている。
(西部で一番危険な職業……ね)
今、賞金稼ぎたちは徒党を組んでブラッディ・レズリーに対抗しようとしているが――。
(ブラッディ・レズリーは利益にならないことなら手を出さない、ってフィービーが言ってたっけ)
前の町で再会した連邦保安官のことを思い出し、ルースは物思いにふけった。
扉を激しく叩かれ、ルースはびくっとする。
「ルース。俺だ」
フェリックスの声を聞き、ルースは眉をひそめてドアを開けた。
「よう。元気になったか?」
「朝から、びっくりするじゃない」
文句を言いながらルースは、フェリックスの隣に立つ男に目を留めた。繊細とも言える白い指を除けば、これといって特徴のない男は――あのピアニストだった。
何と言ってわからないルースはしばらく黙って拳を握っていたが、ピアニストが頭を下げるのを見て目を見張った。
「悪かった。一言、謝ろうと思ったんだ。それだけだ」
毒気を抜かれたように、ゆるりと拳を解くと、止める暇もなくピアニストは行ってしまった。
「一体、何だったのかしら」
「さあ。後から悪いと思ったんじゃないか?」
フェリックスの声が予想以上に硬質で、ルースは思わず彼の横顔を凝視した。しかしフェリックスはいつものように、笑顔を浮かべている。
(気のせいかしら?)
「それよりルース。見せたいものがあるんだ」
「見せたいものって?」
「きっと気に入るから、まあ来なさい」
フェリックスに手を引かれ、ルースは部屋から出た。
階下の食堂で、ルースが座るのを確認してからフェリックスがもったいぶるようにして紙袋を差し出した。
「出してみて」
言われた通りに袋から取り出してみる。ひらひらとした――ドレスとはいかないが、見栄えのするワンピースだった。
「これ、どうしたの?」
「私からのお詫びよ、お嬢ちゃん」
ジェーンが後ろからルースの肩に手を置き、そっと顔を覗き込んできた。
「前の町で、舞台衣装買えなかったんですってね。不快な思いをさせた、お詫びよ」
「……そんな。ジェーンさんが悪いんじゃないのに」
「良いから、受け取って?」
ウィンクされて、ルースは少々赤くなってしまった。
(女の人なのに、ジェーンさんていちいちかっこいい)
男らしいというわけではないが、ジェーンは動作や喋り方が女性らしくても、格好良かった。
「ありがとうございます」
ルースは遠慮する代わりに礼を言った。
「でも、よくサイズわかりましたね」
「フェリックスが教えてくれたのよ」
ジェーンの答えに、ルースは動きを止める。
「あんた。何であたしのサイズを知ってるのよ」
「そりゃあ、寝てる間にこっそり……」
ルースが拳を振り上げたところで、フェリックスは慌てて手を振って訂正し始めた。
「や、やだなあ冗談だって! エレンさんから聞いたんだよ」
「――何だ、びっくりした」
もう少しで、食事処を戦場に変えてしまうところだった。
「もしこの状態が解けたら、ウィンドワード一家に是非公演して欲しいわ」
「……そのときは、この衣装を着ます」
笑顔を向けると、ジェーンも嬉しそうに頷いてくれた。
「さて。行きましょうか、フェリックス」
「ああ」
ジェーンに誘われ、フェリックスはすぐに立ち上がる。
「行くって、どこへ行くの?」
ルースが問うと、フェリックスは困ったように肩をすくめた。
「戦える奴は、ブラッディ・レズリー狩りに行くんだ」
その物騒な響きに、ルースは息を呑んだ。
「何それ……」
息を呑むルースに、フェリックスは顔を近づけ囁いた。
「ブラッディ・レズリーを、ここから追い払うつもりらしい」
ジェーンに聞こえないようにしているのかと思いきや、ジェーンも傍らで頷いていた。
「警告されて町を封鎖していたけど、向こうからの動きがないの。だから、こっちから出向いてやろうって寸法よ」
「保安官も、この件は調査してるんですよね?」
「ええ。でも、ここには町の保安官はいないからね。有志が自警してるようなもんよ」
「そう……」
それならば連邦保安官だけが携わっていることになるが、フィービーはここには来ていないようだ。
ルースの疑問を察したのか、フェリックスが穏やかな口調で説明してくれた。
「賞金稼ぎと連邦保安官は、あんまり折り合いが良くなくてな。フィービーなら、ずかずか入り込んできそうなもんだが、幸い……いや残念だけど最近、護送に付いていってたし……」
クルーエル・キッドおよびブラッディ・レズリーは被害が甚大なため、フィービーだけではなく複数の連邦保安官が追いかけているらしい。
(連邦保安官には頼らず、自分たちで狩るつもりなのね)
「宿屋には警護が残るわ。決して外に出ないようにね」
ジェーンにそっと肩を叩かれ、ルースは頷いた。