6. Loss

3




 白金の髪をなびかせ、前を歩く女がいた。
 ――姉さん!
 ルースは彼女に向かって走る。だけれども追いつけない。それどころか、どんどん遠ざかる。
「ルース」
 キャスリーンは振り返る。胸から、赤い血を流して。
 銃声が、耳をかすめた気がした。

 浅く覚醒し、うめくルースの額に優しい手がそっと当てられた。
「ルース、大丈夫だ。大丈夫だから」
 フェリックスが眉をひそめ、自分を見下ろしている。
 まなじりに、涙が伝う感触が気持ち悪い。濡れた頬を指で拭われた。
「銃声で思い出したのか……」
「何、を?」
 思考が混乱して、フェリックスが何のことを言っているのか、さっぱりわからなかった。
「いや、良いんだ。大丈夫か、ルース」
 ルースは頷き、横に顔を向ける。二人に挟まれたジョナサンは、すやすやと眠っている。
 頭が、ぼんやりしている。とにかく、胸に哀しみが溢れていた。
「哀しい――」
 涙をほろほろ零すルースを見下ろし、フェリックスはルースの頬に手を当てた。温かい手だった。普段焼けつく弾丸を放つ銃を扱う手は、今はひどく優しい。
 ルースは少しだけ安心して、再び眠りへと身を委ねた。

 窓から差し込む朝日で目が覚める。ルースはうんうんうめく声を耳にして不思議に思ったが、どうやらジョナサンにまたしがみついてしまっていたらしく、ジョナサンが苦しさのあまりうめいているのだった。
「あらやだ」
 ルースはパッと手を放し、身を起こした。
「ジョナサン、起きて」
「――うー。寝苦しかったあ……。何でだろ……」
 自分のせいだとは言えず、ルースは頬をかいた。
「あれ、フェリックスは?」
「さあ。あたしも今、起きたばかりだから」
 ルースは、ジョナサンの隣にぽっかり空いた空間に目をやった。
 ルースがベッドから降りたそのとき、激痛が頭を襲った。
「お姉ちゃん!?」
 あまりの痛みにうずくまったルースの顔を、ジョナサンが心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「え、ええ……」
 荒い呼吸を繰り返していると、段々と収まってきた。
(一体、何なのかしら……)
「ああ、こういうときにキャスリーンお姉ちゃんがいたらな。看病、得意なのに」
 キャスリーンの名前を耳にすると、また頭に鋭い痛みが走った。
「お姉ちゃん、休んでおいてよ。僕、フェリックス呼んでくるよ。きっと下にいるから。ね?」
 ジョナサンはルースが頷いたことを確認してから、素早く着替えていってしまった。

 しばらく待っていると、扉が開いた。入ってきたのはエレンだった。
「大丈夫かい、ルース」
「ママ……? どうして、ここに」
「フェリックスに呼ばれてね。さあ、横になりな。看病するから」
 エレンは有無を言わさず、ルースにベッドに入るよう促した。
「頭が痛いんだって?」
「痛みは引いたわ。大丈夫」
 ルースは立ち上がって、首を振った。本当に、嘘のように痛みが消えていたのだ。
「でもね、ルース」
「ママ。元気なのに寝込んでいたくないわ。早く出発しましょう」
「……具合が悪くなったら、すぐに言うんだよ」
 心配そうなエレンを安心させるように、ルースは気丈に笑ってみせた。

 階下の食堂に、家族が勢揃いしていた。もちろん、フェリックスとジェーンもいる。
「お騒がせしました。あたしは、もう大丈夫よ」
 ルースが座りながら言い切ると、安心したような空気が流れた。
「じゃあ、朝食を取りながら話しましょうか」
 ジェーンが宣言して、ウェイターを手招く。朝食にしては遅い時間なので、人の姿はまばらだった。
「兄さんたちも、まだ食べてないの?」
「ああ。どうせなら、朝食を取りながら話し合いをしたいって、この――女賞金稼ぎが言ってな。ここに来たんだ」
 呼び方に困ったらしいオーウェンは、ジェーンをそう呼びながら説明してくれた。
「話し合いって何なの?」
「まあまあ、お嬢ちゃん。すぐに話すわよ」
 ジェーンは勿体ぶって、コーヒーが運ばれてくるまでは話を始めようとはしなかった。
 ようやくコーヒーが来てから、ジェーンは微笑んだ。
「直球で言うけど、今はこの町を出られないと思って」
 ウィンドワード一家は全員、動きを止める。
「昨夜、町の外を見回っていた仲間がブラッディ・レズリーに一旦捕らえられたの。彼は、『命が惜しければブラッディ・レズリーに町を明け渡せ』という警告を伝えろと命じられ、戻ってきた。……だから、この町は封鎖体制に入るわ」
「封鎖の前に、出ていくことは?」
「ブラッディ・レズリーと出くわすことになるかもしれないけど、それで良いの?」
 アーネストの質問に対し、ジェーンは反対に聞き返した。
「長くても一週間よ。その間、ここに滞在してくれれば良い。無理にでも今出るとなったら、住民と多少は言い争うことも覚悟して」
「――わかった。しばらく滞在しよう」
 アーネストは決断を下した。

 仕方ないこととはいえ、しばらく滞在しなければならないと聞いてルースは憂鬱だった。
 この町は危険すぎるから一人では歩けない。きっと公演もできないだろう。
「あー、退屈」
 頭痛のことを心配され、することもないのだからとルースは母に宿に戻された。宿屋で一日過ごす羽目になりそうだ。
(でも……本当に、あの頭痛は何だったのかしら)
 そういえば、と思い出す。昨日の夜、泣いて目を覚ました気がする。
 とても、哀しい夢を見てしまった気がする。どんな夢かは、忘れてしまったが。
 ルースは退屈で、窓から外を見下ろした。雑多な町並みの中、歩いている人はあまりいない。
(みんなは下で、お喋りかしら……)
 ルースは、ここで一週間も滞在する羽目になったときのことを考えた。公演がその間できないのだから、収入はない。
 この宿は高級に見えない割に、案外宿賃が高かった。
(うーん。サルーンで歌わせてくれないかしら?)
 サルーンで歌っている人は、たまにいる。ただ、問題はルースが子供という点だろう。サルーンにいては、目立つ。
「お嬢ちゃん、具合どう?」
 キィ、と音を立てて扉が開き、ジェーンが入ってきた。
「もう、すっかり良いんだけど……」
 ジェーンはベッドに腰かけ、ルースの顔を覗き込んだ。
「あら、退屈そうな顔ね」
「だって、何もできないんだもの。――ねえ、ジェーンさん」
 ルースは早速、先ほどの思いつきを口にした。
「歌なら、いつでも歓迎だと思うわ。でも……ここの客は、柄が悪いわよ」
「わかってる。でも、このまま何もせずに滞在してるのって……嫌なの」
 旅芸人は気楽に見えても、楽な暮らしではない。稼げるときに稼いでおかないと、飢えてしまう。
「話をつけてあげても良いけど?」
「お願いします」
「お父さんとお母さんは、許可してるの?」
「――まだ、言ってないです」
 ルースの答えを聞いて、ジェーンは呆れたように肩をすくめた。
「なら、許可を取ってからね」
 しかし、アーネストがそう簡単に了承するとは思えなかった。

 怒鳴られると思ったのだが、案外、父の反応は普通だった。
「ああ、そうだな――。しばらく無収入なのも辛いしな。お前さえ、よければ……。だが、サルーンは柄の悪い客が多いぞ」
「うん、わかってる。だから歌ってるときは、フェリックスかジェーンさんに傍にいてもらおうと思って」
「――なら、大丈夫か。ジョナサンとオーウェンもか?」
「ううん、そのサルーンには元々契約してるピアニストがいるらしいの。その人のピアノに歌を合わせる感じだから」
「そうか。悪いな、ルース」
「良いの」
 父は申し訳なさそうだったが、ルースは歌える場所があることに喜びを感じていた。

 ジェーンはサルーンのマスターと、ピアニストに話を通してくれていた。
「あの、よろしく」
 ピアニストは、不精髭の目立つ痩身の男だった。挨拶しても彼は素っ気なく頭を少し動かしただけで、全く愛想がない。
 そしてピアニストの奏でるピアノは、とにかく歌が合わせにくかった。こちらのことを考えずに演奏していることが、よくわかる。
 普段は、兄のギターや弟のフィドルに歌を乗せているのだ。他人の演奏なのだからやりにくいのは当たり前だ、と自分に必死に言い聞かせる。
 だが、わざとタイミングをずらせたりさっさと演奏を終えたりと、明らかに悪意が透かし見えた。
 それでも懸命に歌っていると、あろうことかグラスが顔に向かって投げられた。
「へったくそ! 聴いてられねえんだよ!」
 鋭い言葉が投げられ、割れる音が響く。覚悟したが、痛みは走らなかった。前に誰かが立っていることに気づく。
「フェリックス……?」
 彼の左手から血が垂れていた。グラスを手で払った拍子に、傷つけてしまったのだろう。
 フェリックスはそのままテーブルに近づき、グラスを投げた客の胸倉をつかむ。
「表に出ろ」
「……ああ、良いぜ」
 一瞬迫力に呑まれたようだったが、男はすぐに不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
 ジェーンが近づき、ルースの顔を覗き込む。
「え、ええ」
「かわいそうに。――ちょっと、セシル」
 ジェーンは、ピアニストを思い切り睨みつけた。
「どういうことよ。お嬢ちゃんの歌を無視して、勝手に弾いて――。私は、頼んだわよね?」
「うるさいな。ここで歌っても良いが、合わせてやるとは言ってないだろ。そっちも勝手に歌えば良いんだ。元々、ここは僕の場所だ」
 吐き捨てたセシルの前に立ったのは、マスターだった。
「君との契約は、いつか切るつもりだった。今が良い機会だ。出ていけ」
「――おい、マスター」
「君の演奏も人柄も、堕落するばかりだ。君の演奏に惚れたときとは違う」
 くるりと踵を返してマスターがカウンターの向こうに行ってしまうと同時に、フェリックスが帰ってきた。
「フェリックス。奴はどうなったの?」
「まあ、それなりに――。もう二度と、野次を飛ばしたくなくなる程度にしておいた」
 そんなフェリックスの頬には血が付いていたが、本人は怪我をした様子がない。どうやら返り血のようだ。
「ボコボコにしてやったのね。よろしいよろしい」
 ジェーンは満足気に、親指を立てていた。
 しかしサルーンの中は、何とも微妙な空気になってしまっていた。これ以上、続けられそうにない。
 ルースはカウンターに駆け寄り、頭を下げる。
「マスター、ごめんなさい。ご迷惑かけて……」
「嬢ちゃんのせいじゃないよ。こっちこそ悪いことしたね」
「いえ。それでは……」
 このままだと、サルーンの真ん中で泣いてしまいそうだった。だからルースは逃げるようにして、サルーンを出た。

「ルース、どうしたんだ」
 頭上から声が降ってきて見上げると、オーウェンが立っていた。
「ちょうど今、様子を見に中に入ろうと思ったところだったんだが……どうした。泣いているのか」
 ぼろぼろと、堪え切れない涙が零れた。
「ちょっと野次、飛ばされちゃって……」
 それでも歌い続けるのが本来の歌い手だろうに、ルースは逃げてしまった。
「兄さん、あたしって意気地ないわね……ごめんなさい」
「謝ることはない。――しばらく収入がなくたって、何とかなるさ。お前一人が、無理しなくて良いんだ。どうして、そんなに何でも背負いこもうとするんだ」
 優しい兄の声に、我慢できずに泣き出してしまう。
「だって、あたしが……あたしが……」
 アタシガ――
 それに続ける言葉を持たない。だけれども、胸が苦しい。
『ルース』
 白い砂の上で、誰よりも魅力的な歌姫がルースを呼ぶ。それに呼応するように、頭がひどく痛む。
「どうした?」
「だ、大丈夫よ……。ちょっと頭痛がしただけ。あたし、宿に帰っても良いかしら……」
「ああ、もちろんだ。送っていこう」
 オーウェンに手を引かれ、ルースは歩き出した。

 部屋に戻ると、ジョナサンがきょとんとした表情でルースを見上げてきた。
「お姉ちゃん、もう終わったの?」
「うん、まあね」
 それ以上答える気がせず、ルースは着替えもしないでベッドに横たわった。
「お姉ちゃん、具合悪いの?」
「――うん」
 肯定すると、ジョナサンが近寄ってルースの顔を覗き込んだ。
「頭、痛い?」
「うん……」
 本当は、今はさほど痛くなかった。むしろ痛むのは心だった。だけどそう言ったら、ジョナサンを心配させてしまう。
「僕、フェリックスに言ってくるよ」
「どうして、フェリックスに? 良いわよ。良いから、ここにいて……」
 ルースが後半弱々しく呟くと、ジョナサンは大人しくその場にじっとしていた。