3. Vanity Town
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たまたま真夜中に目が覚めたジョナサンは、隣で寝ていたはずの用心棒がいないことに気づいた。兄は用心棒の不在にも気づかずに、すやすや眠っている。
ジョナサンは天幕から出て、町の方に向かう後ろ姿を見つけた。
間違いなく、用心棒のフェリックスだ。
ジョナサンは好奇心に駆られ、彼の後を追って、そっと歩き始めた。
いつしか、フェリックスの背中は見失っていた。そして町の入り口に入った途端に銃声が響き、ジョナサンはその音のした方に向かって走り出した。
フェリックスが、銃をそっと下ろしていた。その足下に、人間がゆっくりと倒れる。
悲鳴を上げそうになったジョナサンの口を、誰かが素早く塞ぐ。その手の持ち主は、当のフェリックスだった。
人殺しだ、という非難の視線を察したのかフェリックスは淋しそうに微笑んだ。
そしてジョナサンは、倒れた人間が砂に変わるという信じられない光景を目撃した。
人が死んで砂になるなんて話は、聞いたことがなかった。
「悪魔祓いさん――」
路地裏から女が一人出てきて、フェリックスに向かって頭を下げた。
「夫を悪魔から救っていただき、ありがとうございました――」
女は泣いていた。しかし確かに感謝していた。フェリックスの行為に。
女を見送り、町から出て――フェリックスは困ったようにため息をついて、ジョナサンを見下ろした。
「――参ったな」
彼は脱力したように屈み、ジョナサンと目線を合わせる。
「フェリックスは、悪魔祓いなの?」
「まあな……」
「でも、牧師さんでも神父さんでもないよね?」
「ああ。聖職者じゃない。悪魔を見抜く力を持つだけだ」
“だけだ”と言うが、それはとても格好良い能力のように聞こえた。
「内緒なんだね?」
「――まあ……」
「僕、絶対誰にも言わないよ!」
ジョナサンの大声に戸惑ったように、フェリックスは眉を上げた。
「協力だってするよ!」
悪魔を祓う人間に初めて出会い、ジョナサンは興奮していた。少年らしい、正義の味方に対する憧れだったのかもしれない。
「……本当に、誰にも言わないでいてくれるか?」
「うん」
「特にルースに、隠すのを協力してくれるか?」
「ルースお姉ちゃん……に?」
それは、奇妙な頼みごとだった。
「色々あってな……。ルースが、あることを思い出さないようにしたいんだ」
「どうして?」
その質問に、フェリックスは具体的には答えてくれなかった。ただ、それが一番良いとだけ告げた。
彼の真摯さは伝わってきた。だから、よくわからなくても――ジョナサンは約束した。
だがルースは、十三人のマリア祭りの騒ぎで悪魔祓いの場面を目撃してしまった。なのにフェリックスはどんな魔法を使ってか、彼女の記憶をたちまちなくしてしまった。
「フェリックスは、悪魔祓いなのに魔法使いなの?」
ジョナサンの問いに、彼は噴き出していた。
「まさか。これは魔法ってより……まじないみたいなもんかな。元々これは、俺の友達がやってくれたんだ。俺は教えてもらった手順通りに、やってるだけ」
「ふうん。その人も、悪魔祓い?」
「まあ、そうかな」
フェリックスは濁しながら答えたが、その“友達”がとても好きなのか、優しい表情をしていた。
強い用心棒は、謎めく悪魔祓いだった――。ジョナサンはたちまちフェリックスに憧れ、できれば悪魔祓いを手伝いたいと強く思った。しかし、フェリックスは必要以上には関わらせてくれない。
「ジョナサン! ぼーっとしないで!」
「あ、ごめん」
回想に浸りながら、演奏してしまっていた。ルースは厳しい。気を抜いていると、音ですぐ悟ってしまう。
「練習はこのくらいにするか。本番までに疲れると困る」
オーウェンはそう言って、ギターの弦から指を放した。
「それもそうね。でも、あたしはまだ一つ歌がうろ覚えだから、もうちょっと練習していくわ」
「わかった。また後でな」
父と兄が出ていってしまうと、がらんとしたホールにルースとジョナサンの二人だけになってしまった。
「ジョナサン。あんた、何で今日寝坊したか、わかる?」
ルースに睨まれ、ジョナサンはばつが悪くなって視線を逸らした。
「夜更かし、してたからよ。全く、何であたしの言うこと聞いてくれないの?」
「ごめんてば」
「謝るなら、ちゃんと謝りなさい。筋を通さないのは嫌いよ」
きつい叱責にため息をつき、ジョナサンはルースを見上げた。
小柄なのに、身長が高く見えるのは姿勢が良いからだろう。ルースはいつも、背筋をぴんと伸ばして堂々としている。
「……ごめんなさい」
「――良いわ。仲直りね」
ルースはたちまち表情を和らげ、ジョナサンの頭を撫でた。
昔から過干渉気味だとは思っていたが、この頃とみにルースはジョナサンに構う。
(そういえば……キャスリーンお姉ちゃんがいなくなってからだ……)
もう家族を失いたくないという気持ちが、そうさせるのだろうか。
「お姉ちゃん、何の歌を覚えてないの?」
ルースが歌を覚えていないというのは、珍しいことだった。
「この町の歌よ。昨晩、サルーンで歌ってたの聞いたの。歌ったら、きっと受けるわよ。この町では、なじみの歌らしいから」
旅芸人のウィンドワード一座は、行く先々で曲や歌を覚えていく。こうして無限にレパートリーを増やしていくのだ。
異国の曲も評判は良いが、やはり郷土の歌が一番好まれる。新大陸に来て日が浅いため、この地で歌われている歌のレパートリーはまだ少ない。だからこそ辿り着いた町で歌を素早く覚え、公演で披露するのが常だった。
今回は到着してから公演までの期間がいつもより短かったため、覚え切れていないのだろう。
「フィドルは要らないの?」
「そりゃ、あった方が良いけど……今からじゃ覚えられないでしょ」
「大丈夫。即興で合わせてみるよ」
「そう? じゃあ一度、練習してみましょうか」
ルースはすうっと息を吸って、歌を紡ぎ始めた。
『荒野に広がった楽園よ。神の愛を感じる……』
そんなフレーズから始まるゆったりした歌にフィドルの伴奏が加わると、音に抑揚が加わった。
歌が終わったときには、二人の声と音が完璧に合わさっていた。
「さすがね、ジョナサン。これでいきましょう。兄さんのギターとも、ちゃんと合わせるようにしてね」
「わかってるよ。――ねえ、この歌……変な歌だね」
「変……?」
「うん。なんか、町自慢みたい」
ジョナサンの言い草に、ルースはくすっと笑った。
「自分の町を讃える歌なんて、他にもごまんとあるわよ」
ルースの言うとおりだったが、ジョナサンはなんとなくこの歌に違和感を覚えていた。
(そうだ、自慢っていうより……まるで、聴いてる人を必死にわからせようとしてるみたいだ)
公演は大成功だった。この町の人は気前が良い。たくさんの紙幣と貨幣を前に、父はにやにや笑っていた。
「こんなに、実入りが良いのは珍しい。しかも、喜べ! 追加公演の要望があった!」
父の発表に、家族は互いに顔を見合わせ喜んだ。
「次の公演は三日後だ。それまで、自由に滞在して良いらしい」
「本当に気前が良いねえ。ここに定住したいぐらいだよ」
エレンは半ば本気で呟いていた。
家族会議を終え、ジョナサンは皆の目を避けて部屋には戻らず、階段を下りた。
この宿屋はサルーンの二階にあるため、下りるとすぐにサルーンに入れる。サルーンは、人でごった返していた。
その中で、フェリックスはカウンターにもたれかかって、誰かと話していた。
「おい坊主。子供がこんなところに来ちゃいかんぞ」
親切そうなおじさんが注意して、ジョナサンの頭をぐりぐりと撫でた。
「誰かと思ったら、今日の公演をしてた旅芸人一家の子か。お前のフィドルも良かったな」
「ありがとう」
「俺も昔は、ヴァイオリンを習ってたんだ。フィドルはヴァイオリンとは、弾き方が違うらしいな。同じ楽器なのに、不思議なもんだ」
フィドルはヴァイオリンと同じ楽器だが、フィドルは主に民族音楽や民謡で使われ、クラシックで使われるヴァイオリンとは弾き方が違う。
ジョナサンはこの男とは反対にフィドルしか弾いたことがなかったから、違いがよくわからなかった。
「あの歌い手も良かったな。まだ幼いんだろうが、なかなか良い女だ。もう二、三年もすれば色気がぐっと出てくるはずだ」
酔っているのか、口数がやたら多い。
「ね、おじさん。この町は、どうしてこんなに豊かなの?」
「は? ああ、神のお恵みだ。素晴らしい神のな」
「神様?」
「そう。神様は、わしらをごひいきなさっているんだ」
ジョナサンが疑わしそうな顔をしているのを見て、男は憤慨したように鼻を鳴らした。
「疑うなら、奇跡を見てくれば良い」
「奇跡?」
「そう。奇跡だ。それこそが町の中心だ」
一体それは何なのか、と聞きかけたところで、ひょいと襟首をつかまれた。
「おいおい、ジョナサン。何で、ここにいるんだ」
フェリックスが、呆れたような表情でこちらを見ている。
「ちょっと、興味があって」
「お前なあ……。こんなことになったら、ルースが俺を怒るの目に見えてるだろ。連れて来てなくても、俺の与えた悪影響のせいだとか言って、怒ってくるぞ」
フェリックスがうんざりしたように肩を落としたとき、当のルースの声が響いた。
「その通りよ! ジョナサンあんたね、全くもう……ついでにフェリックスのせいだと仮定して」
放っておいたら、たっぷり五分は続きそうな怒りの言葉を止めたのは、ジョナサンだった。
「僕が勝手に来たんだよ。フェリックスのせいじゃない」
「どうかしらね?」
ルースに睨まれ、フェリックスは苦笑していた。
「本当だって。ジョナサンも、悪い遊びを覚えたい年頃なんだろ」
「馬鹿! なんてこと言うのよ! ジョナサン、早く部屋に戻るわよ」
ジョナサンの手を引いたルースの顔に、酒臭い息がかかった。先ほどジョナサンと話していた男だ。
「おお、近くで見たらもっと別嬪だな。どうだい嬢ちゃん、俺と一緒にデートでも」
「せめて、酔いをさまして出直してきたら」
ぱんっと伸ばされた手を振り払い、ルースはジョナサンを引きずっていこうとする。
「気の強い女はたまらん!」
と、追いすがろうとしたしつこい男に、フェリックスはさりげなく足払いをかける。
「足下ふらついてるぜ。家に帰ったらどうだ?」
転倒して頭をしたたかに打った男は酔いと相まって気絶してしまったのか、嫌みに対する返事はなかった。
奇跡とは何なのか。ジョナサンは気になって仕方がなくて、その夜は眠れなかった。
隣のベッドに横たわるルースがぐっすり眠っていることを確認し、ジョナサンはそっとベッドから抜け出した。
町の中心、と男は言っていた。
ジョナサンは月明かりだけを頼りに、町の中を歩いた。
不安と恐怖が忍び寄る。来るんじゃなかった、と後悔の念が押し寄せる。
ふと、芳しい香りが漂ってきた。香りを辿るように足を進めると、咲き誇る薔薇の森があった。
息を呑む。こんなもの、昼にはなかったのに――。
咲き誇る青い薔薇と、たくさんの木々。どこまでも妖しく、美しかった。
薔薇の一つに手を伸ばしかけたジョナサンは、人影に気づき顔を上げた。
青い髪の少女が、ジョナサンを見下ろしていた。
「ご、ごめんなさいっ!」
飛びのき、ジョナサンは頭を下げる。
「ただ、見てただけなんです!」
嘘だった。抗い難い何かに後押しされ、もう少しで摘んでしまいそうだったのだ。
少女は、何も言わなかった。透き通るような白い顔には、何の表情も浮かんでいない。
「君は……誰?」
尋ねながらも、ジョナサンは確信していた。町人の言っていた奇跡とは、彼女のことなのだと。
「邪魔して、ごめんね。帰るよ」
これ以上ここにいれば、また青い薔薇を摘んでしまいそうだと思い、ジョナサンは振り切るように踵を返した。
ジョナサンは宿の前で立っているフェリックスに気づき、ぎくりとした。
「悪い子だな。夜中に町をうろつくなんて」
「……ごめんなさい」
「ジョナサン。夜の町はうろつくな。いくら平和そうに見えても、悪い奴ってのは闇に潜んでるものなんだ」
はい、と返事をしてジョナサンは先ほどのことを言おうか言うまいか迷う。
「フェリックスは、何してるの?」
「調査だよ、調査。じゃあ、さっさと寝ろよ。またルースに、どやされるぞ」
フェリックスはジョナサンの頭を軽く小突き、行ってしまった。
(調査って、悪魔の調査かな)
ならば、あの青い髪の少女は関係ないのだろう。
ジョナサンは驚いていた。あのことを、誰にも言わないで良かったと安堵する自分に。
町人が言っていた奇跡とは、間違いなくあの青い薔薇のことだろう。青い薔薇など、現実では有り得ない色の花なのだから。
翌日、公演にそなえて練習を行ったが、ジョナサンはルースにひどく怒られてしまった。
「ジョナサン! ボーッとしすぎよ? どうしちゃったのよ」
「ご、ごめんなさい」
ついつい、青い髪の少女のことを考えてしまって、心ここにあらずの状態になっていた。
「まあまあ。とりあえず、休憩すっか」
父が取りなすように手を叩くと、ルースはキッと眉を上げた。
「パパ、甘すぎるわ。こんなんじゃ、当日どうなるか――」
「わかってるよ。ちょっと休憩挟むぐらい、良いじゃねえか。な」
父に苦笑を投げかけられ、ジョナサンは少し恥ずかしくなった。
しかし今、集中できていないことは明らかだ。
「うん。ちょっと、休憩させて」
ジョナサンが懇願すると、ルースは肩をすくめて、すたすたとホールから出ていってしまった。
つい恨み言を言いそうになり、心配そうな家族の視線に敢えて気づかない振りをして、ジョナサンもルースに続いてホールを出る。
サルーンに行くと、退屈そうに新聞を読んでいるフェリックスが目に入った。
「フェリックス」
名前を呼ぶと、フェリックスは驚いたように目を見開いた。
「よう、ジョナサン。どうしたんだ? まだ練習の時間だろ」
フェリックスが振り返った壁時計は、十一時を示していた。昼食には、まだ少し早い。
「うん……。ちょっとね」
ジョナサンがしょんぼりしながらフェリックスの正面にある席に腰かけると、彼は首を傾げた。
「元気ないな」
「お姉ちゃんに、怒られちゃったの。ボーッとするな、って」
ジョナサンは滲みそうになる涙を堪えた。どうしてルースは自分にあんなに厳しいのか、と理不尽さを覚える。
「お姉ちゃんなんか、嫌いだ」
子供じみた拗ねた台詞を聞いて、フェリックスは新聞を横に置いて真剣な顔になった。
「そんなこと言うもんじゃない」
「だって」
「ルースはお前が心配だから、うるさいんだ。早く寝ろっていうのも、お前の体調を気にしてのことだし、今回怒ったのだって、本番でお前が失敗しないようにだろ?」
フェリックスの言うことは頭ではわかっていたが、ジョナサンは納得できなかった。
怒られると、どうしても悔しいし、哀しいのだ。
「まー、ルースってば言い方きっついよな。俺から、もうちょっと優しくするように言っておいてやろう」
ジョナサンの頑なな様子を察したフェリックスは、一変しておどけたような口調に変えた。
「ていうか俺に一番きついよな、ルースって」
「……それもそうだね。なんとなく、理由わかるけど」
「え、俺は理由わからないんだけど?」
慌てるフェリックスの様子が面白くて、ジョナサンはつい笑ってしまう。
「ジョナサン、散歩にでも行くか。まだ昼飯まで時間あるだろ」
「うん!」
無論、この魅力的な誘いを断るはずがなかった。