1. Saga of the West

西部の伝説


 乾いた風が頬を撫でる。薄い布の間から忍びこんできた冷気に身を震わせ、ルースは目を覚ました。
 そして目の前に広がる、だだっ広い平原に呆然とする。
「そういえば……見張りしてたのに……」
 いつの間にやら、すっかり眠ってしまっていたらしい。
「何を独りごと言ってるんだ?」
 後ろから声がしたので振り向くと、フェリックスがにやにや笑っていた。
「う、うるさいわね」
 そっぽを向いたルースは、温かい空気を感じて顔を横に向けた。芳しいコーヒーの香りに、きょとんとする。
「コーヒーでもどうぞ、お嬢さん」
「……ありがとう」
 有難くいただくことにして、カップを手で覆うようにして持つと少し体が温まった。
「今度こそ、家族に合流できるんでしょう?」
「ああ、もちろんだ。だけど寄り道したから、もうちょっとかかるな……」
 寄り道とは、あの交易所のことだろう。
「ジョナサンは、まだ寝てるの?」
「ああ。ちょっと具合が悪そうなんだ」
 フェリックスの発言でルースはコーヒーをすするのを止め、カップを置いて毛布に包まったジョナサンの顔を覗き込んだ。顔が、青い。
「ジョナサン? ……どうしたの。どこか痛いの?」
 ジョナサンは目を覚まさず、昏々と眠り続けていた。
「もうしばらく、寝かしてやろう」
「ええ……」
 ただ、疲れただけだろうか。
 不安を抑えられないまま、ルースはジョナサンの髪を撫でた。
(いつも元気な子なのに……)
 ジョナサンだって、たまに体調を崩すこともある。だが、あまりにも唐突だった。
「フェリックス……。この近くに、町はないの?」
「あの交易所に戻るしかないな。それか、目指している町に行くかだ」
「でも……」
「町はなくても、民家ならあるかもしれない。町に向かう道に民家があったら、立ち寄ってみよう」
「――お願い」
 ルースは怖くなって、ジョナサンの手を握り締めた。ひどく冷たい、手だった。

 しばらくして、ジョナサンは目覚めた。まだ顔は青白かったが、気分は悪くないと答えた。
「大丈夫だから、早く行こうよ」
「本当に、無理してないでしょうね? ――フェリックス。あんた、ジョナサンと一緒に馬に乗って。あたしがポニーに乗るわ」
「ああ、わかった。おいで、ジョナサン」
 ジョナサンは抵抗も見せずに、フェリックスの手招きに応じた。
 やはり大人しすぎる。はしゃぐこともせず、眠たそうな目で馬に跨るジョナサンを見てルースは眉をひそめた。

 昼頃に、ようやく民家が見つかった。
 ジョナサンは馬に跨っているのも辛そうだったので、フェリックスもルースも何も言わずに馬から降りた。ふらつくジョナサンを、フェリックスが素早く抱き上げる。
「ごめんください」
 ルースが扉を叩くも、しばらく返事はなかった。
「留守かしらね……」
 煙突から煙が上がっているから、誰かが住んでいることは確かなようだが……。
「居留守さ」
 声のした方に顔を向けると、カウボーイハットをかぶった、まだ若そうな男が馬から降り立った。
「ここのジジイ、いっつも居留守使いやがるんだ」
「居留守だって? そういうあんたは、誰なんだ?」
「へっ――」
 彼の目つきは、やけに険呑だった。
 フェリックスはジョナサンを地面に下ろして、ルースと共に後ろ手に庇った。
 その動作を入れたせいで、フェリックスが銃を抜くのが男より遅れてしまった。しかし、銃声は同時に響いた。
 手から銃を落としたのは、相手の男だった。男の手から、血が伝う。
「……お前、今の撃ち方は……」
「今度は、頭に当ててやろうか?」
「――待て。わかった」
 何がわかったのよ、とルースが突っ込みそうになったところで男は手を上げた。
「俺は借金取りだ。借金を取り立てに来ただけだ」
「なら、どうして俺たちに銃を向けた?」
「へっ。優男と子供の組み合わせだったから、何か良いものふんだくれるかと思っただけだ。そんなに怒るなよ」
 へらへらと愛想笑いを浮かべて、男は落とした銃を拾おうと屈んで手を伸ばした。
「借金取りは明日にしてくれ」
「わかったわかった」
 男はフェリックスの言に素直に従い、馬に乗って行ってしまった。
 フェリックスとルースが戸惑ったように顔を見合わせたときに背後の扉が開き、皺深い老人が思い切り怒鳴ってきた。
「何の用だ!」
「じいさん、怒鳴るなよ。ちょっと、連れが具合悪くてさ……。一日だけ、泊めてくれないかな」
 フェリックスが請うと、老人は大袈裟に顔をしかめた。
「断る」
「そう言わずに。タダで、とは言わないさ」
「おじいさん、お願い。この子、あたしの弟なの」
 ルースが深刻な表情で頼むと、老人は一考する様子を見せ――ようやく頷いてくれたのだった。



 小さなベッドの上に横たわってすぐ、ジョナサンはあっという間に眠ってしまった。
「良かったな」
「ええ」
 戸口に立ったフェリックスに微笑みかけてから、ルースはジョナサンに視線を戻した。
「野宿じゃ、かわいそうだしね……。あたし、ジョナサンに付いてるわ」
「ああ。俺は、あのじいさんと意気投合でもしてくる」
 そう言ってフェリックスは、ふらりと姿を消してしまった。

 老人は暖炉の前で背を丸めていたが、フェリックスがわざとらしく足音を鳴らすと、億劫そうに振り返った。
「よう。ありがとな」
「親切心からじゃあない。礼は言うな。ところで、あの撃ち方は……」
「――ああ、じいさんも見覚えあるんだ。たまに、知ってる人がいて参るな」
 フェリックスは老人に聞こえぬよう、舌打ちをした。窓からそろりと覗く視線には、気づいていた。
「どこであれを、習った」
「……親父からさ」
 端的に答えると、老人は目を血走らせて立ち上がった。
「嘘をつくな。あれは、選ばれしガンマンにしか使えないはずだ。門外不出だと聞くぞ」
「信じないなら仕方がない」
 肩をすくめて出ていこうとしたが、重苦しい声で呼び止められた。
「待て。わしに、それを教える気はないか」
「――他人に教えるのは、主義に反する。元より、じいさんの足腰じゃ、もう銃使うのはきついだろ?」
 もう、と言ったのは老人がかつてガンマンであったことは、火を見るより明らかだったからだ。
 動作に、目に、ガンマンの特性は現れる。それは使わなくなった後でも、なかなか消え去らないものだ。
「……あの悪漢に、わしのことを何と説明された?」
「借金を返さない老いぼれ、だとさ」
 フェリックスの答えに、老人はおかしくてたまらないといった様子で笑った。
「やれやれ。言っておくが、わしは金を借りてなどいない。むしろ金は腐るほどある。何エーカーかも忘れた農場があってな。使用人がたくさんいるから、わしが働く必要もない」
「だと思った。借金まみれにしちゃ、家が立派すぎる。じゃあなぜ、あの男は借金を取りに来たんだ?」
「ここは、かつて“あの男の父親の土地”だったのさ。それを乗っ取ったというので、ああして因縁を付けにくる」
「へえ。そいつは、どっちに味方したら良いのか困るな」
 さらりと口にすると、老人は不快そうに眉をひそめた。
「商売とは、そういうものじゃないのかね? 泣く者がいるから、笑う者がいる。まさかこの西部で、平等なんか叫ぶんじゃないだろうな」
 ――それは、あり得ない価値観だった。強い者が生きて、弱い者が死んでいく不毛の荒野において――受け入れられることのない言葉だった。
 フェリックスは肯定も否定もせず、ただ不透明な笑みを浮かべてみせた。



 歓迎しない姿勢の割に、きちんと夕食も出た。
 ジョナサンの分は部屋に運んで先に食べさせたので、食卓を囲むのはルースとフェリックスだけだった。
「おじいさんは?」
「他人と一緒に食べたくないらしい。偏屈なじいさんだ」
 フェリックスは、ローストビーフを切り分けながら苦笑した。
「もう。泊めてもらう上にご馳走してもらってるんだから、そんなこと言うもんじゃないわよ」
「はいはい。……ジョナサンの調子は?」
「今は、ぐっすり眠っているわ。ジョナサンが元気じゃないと、調子が狂っちゃうわね」
 ルースは微かに冷めたコーンスープをすくい、首を振った。
「あのじいさんは金持ちらしいぞ」
「でしょうね。立派な家だわ」
 食堂もだだっ広く、狼や大きな鹿の首の剥製が飾ってある。
「あたし、剥製って苦手だわ。命こもってそうで怖い」
「言えてるな。狩人じゃないから、そう思うのかもしれないが、飾る奴の気が知れない」
 静かすぎるせいか、二人は自然と声を小さくして会話を交わしていた。
「おじいさんがお金持ちなら、借金取りを名乗ったあの男は何なの?」
 ルースの質問に対し、フェリックスは老人から聞いた話を語った。
「ふうん……」
 どういった反応を示して良いかわからなかったので、ルースは相槌を打つだけにしておいた。
「ま、俺たちには関係ないことさ。ジョナサンの体調が戻ったら、早くお暇しよう」
 ルースはフェリックスの淡々とした口調に眉をひそめる。
(まるで、早く出ていきたいみたいね)
「ええ」
 互いに話題がなかったので会話は弾むこともないまま、食べ終わってしまった。
「じゃあ、行きますか。寝る前に、ジョナサンの様子を見にいっても良いか?」
「ええ、もちろん」
 二人はほぼ同時に立ち上がって、ジョナサンの眠る部屋に向かった。
 部屋の扉をそっと開くと、ジョナサンの寝息が聞こえてきた。顔色は、大分良いようだ。
「大分ましになったみたいだな。――おやすみ、ジョナサン」
 フェリックスはジョナサンにそっと囁いてから、ルースにもおやすみと挨拶をしてから出ていってしまった。



 真夜中、そっと窓枠に手をかける人影があった。ぽん、と肩に手を置かれてその男は息を呑む。
「――何してるんだ?」
 フェリックスがにやりと笑うと、男は動揺を鎮めるためか、深く息を吐いた。
「……お、お前は……昼間の奴か。びっくりさせるなよ。まさかお前、ここの用心棒じゃないだろうな」
「いや? でも、怪しい奴がいるのに放っておくのも気が引ける。じいさんに突き出してやろうか?」
「止めろ! 良いか、お前。あいつは――」
「借金まみれにしちゃ良い家すぎる。お前の嘘なんだろう?」
 ぴしゃりと言うと、男は目を白黒させ――肩の力を抜いて、その場に腰を下ろしてしまった。
「嘘ってわけじゃ――ない。こいつの財産は全部、借り物だ」
 フェリックスは肩をすくめ、屈んで男と目線を合わせた。
「あんたの親父の農場を、乗っ取ったんだっけか」
「ああ、そうだ。……親父は農場主だったけど、優れたガンマンでもあったんだ。なのに親父は、あいつとの決闘に負けちまったんだ。負けるわけないってタカをくくってた親父も、悪いと思うけどさ」
 男は一呼吸置き、続けた。
「だが、正当な理由で勝ったようには思えない。あの男はおかしいんだ。……なあ、信じられるか。あいつは、まだ三十歳なんだぞ?」
 男の発言に、フェリックスは目をむいた。
「三十歳だって?」
「ああ。――っておい、あんたどこに行くんだ?」
「大体の話はわかったし、寝るのさ」
「何だよ、もう!」
「とにかく、侵入は止めておけよ。何をしたいか知らないけど」
 素直に言うことを聞いたわけではないだろうが、男は鼻を鳴らして、その場から消えた。

 屋敷に戻ると、厳しい表情をして老人が出迎えた。――男の話が本当なら、老人ではないのだろうが。
「お前」
 銃を向けられる。
「わしに撃ち方を教えろ。これは命令だ」
 やれやれ、とフェリックスは表情を変えることなく手を上げた。
「悪魔に魂を売ったのに、まだ伝説にこだわるのか」
「……貴様、なぜそれを……」
「あんたから、悪魔の気配がする。……その、銃だな」
 老人が握り締めた銃。瀟洒《しょうしゃ》な装飾が施された銃身には、よくよく見れば逆さ十字が刻まれていた。
「それを使ってるから、生命を吸い取られるんだよ。そんな銃、さっさと捨てろ」
 フェリックスが手を伸ばすと、老人は怯えたように後ずさった。
「それとも、それがなくちゃ誰にも勝てないか? それで、よくガンマンを名乗れるな」
 挑発に老人は顔を赤く染めて引き金を引いたが、素早く身を沈めたフェリックスには当たらなかった。代わりに、素早くホルスターから引き抜いた銃が火を噴く。
 悲鳴が響き、老人の手から銃が飛んだ。床を転がった銃に駆け寄り、フェリックスはそれを踏みつけて、老人にもう一度銃を向けた。
「な、何事なの!?」
 廊下からルースが走ってきて、フェリックスは舌打ちした。自分からは遠すぎ、老人からは近すぎる距離だった。
「ルース、来るな! 部屋に戻れ!」
 だが、そのチャンスを老人が見逃すはずもなかった。ルースの腕を引き、自分の目の前に引き寄せる。
 余裕を見せて笑いながら、老人は懐から取り出したナイフをルースの首に突き付けた。
「銃を捨てろ!」
 フェリックスはもう一度舌打ちをして右手を開き、銃を床に落とした。その銃は後ろから誰かの足に蹴られ、手首を引かれて前に倒された。
「くっ……」
 いつの間に、後ろにいたのか。前に気を取られていたとはいえ不覚だった、とフェリックスは悔いる。顔を向けようとして、ぐいっと後頭部を押さえつけられる。
「おっと。大人しくしておけよ」
「あ、あなた――」
 ルースの声が聞こえる。ひどく震えて、上ずっていた。
「ん? 何か?」
「……い、いえ」
「ふーん?」
 笑った後、突然の乱入者である男は凄味を忍ばせた声を出した。
「オッサン。いい加減にしろよな。手助け代は別料金だぜ?」
 少し男の力が緩んだので、フェリックスはわずかに顔を上げる。なんとか、前方の様子が見えるようになった。
「す、すまない……。だが、私は……この銃では満足できない」
 フェリックスの足元を離れて転がった銃を顎で示し、老人は首を振った。
「私が欲しいのは、銃ではなく」
「技か?」
「ああ。そいつは、“西部の伝説”を継ぐ者で――」
 全て言い終わらない内に、銃弾が老人の額を貫いていた。
「なら、用無しだ」
 振り向き、ルースは悲鳴をあげる。
「じゃあな」
 後頭部を殴られ、フェリックスは意識を失った。