ニライカナイの童達

第二部

第十一話 治癒 4



 そろそろ祭りだからか、島はどこか浮き足だった空気に包まれている。
 公民館を出て、海辺に佇む。夕刻であるせいか、観光客の姿もなかった。
 今日の海は少し荒れていた。夕日を受けて赤紫色になった波が、寄せては打ち返す。
「ククル様」
 呼ばれて振り返ると、高良ミエがやってきた。
「ミエさん」
「少し、話をしませんか」
「話?」
「ええ。年の功なのか、あなたの心が少しわかるのです。あなた自身も気づいていない、願いが」
 ミエはつらつらと述べて、ククルに並んだ。
「願いって、何?」
 ククルは眉をひそめて、海風にあおられる茶色い髪を抑えた。
「…………あなたは、ユル様の傍にいたい。違いますか」
 指摘され、ククルは凍りついた。
「でも」
「まあ、聞いてください。事情は教えてくれましたね。力の分離、そしてそれぞれの使命」
 ユルは大和で魔物を狩り、ククルはそんなユルを癒して浄化する。
「たしかに離れていても、ユル様がたまに帰ってあなたに浄化ないし治療をしてもらえばいい話です。ユル様の判断は、おかしくなかった。彼は浄化のことは知らなくても、それでいいと決断したのでしょう? ……ユル様は、天河が魔物を引きつけるからこそ、単身で大和に行ったのです。でもククル様、それでいいのですか? 本当にそれで、よろしいのですか」
 繰り返し問われて、ククルは暮れなずむ空を見上げた。
(本当は)
 涙と共に、本音が零れた。
「私も、ユルと一緒に行きたい」
 一人の世界を作らないでほしい、わけではない。自分を忘れないでほしいのだ。
 ミエは全てわかったような理知的な目で、頷いた。
「ククル様。ずっとは、無理です。でも、数年ならまだ私にもノロが務まります。腰は痛いですけどね」
 ミエは、くすっと笑った。そうすると、彼女が少女のように見えるから不思議だ。
「あなたはノロで、兄妹神の片割れというだけではなく、和田津ククルという一人の少女です。それを、忘れないで。もう数年、和田津ククルでいますか?」
「でも……どうやって。私は、ノロとしてしか生きられないし、これが使命で天職だって知ってる」
 それ以外の生き方なんて、考えたこともなかった。ユルがククルに秘密で大学を決めている間も、ククルは迷いもしなかった。
「浪人生として、大和で勉強すればいいのです」
「ろーにんせい?」
「ええと、大学受験に備える学生とでも言えばいいでしょうかね。予備校もありますし。そのあたりは、帰って詳しく。とにかく、大学の偏差値にこだわらないのなら、トウキョウには大学がたくさんあります。どこかには、入れるようになるでしょう。そこで、四年間学生をすればいい。そしたら、五年もユル様と一緒にいられます。幸い、カジ様の残された遺産は相当なものです。素晴らしい目利きだったようで、今もなお、いえ今になって価値があがったものがいくつもあり、ククル様がトウキョウに行って暮らす資金にも困らないでしょう」
 ミエの説明に、ククルは考え込んだ。
「でも、そうしたらこの島に兄妹神のどちらも欠けることになる……」
「はい。だから、あなたも海神の間に何かを置いていってください。何とか、なるでしょう」
 ふっ、とミエは優しく微笑んだ。
「ククル様。淋しかったら、淋しいって言わないと。ユル様もわからないんですよ」
 では、と一礼してミエは浜から遠ざかっていった。
 残されたククルは着物を風にあおらせたまま、拳を握る。
(淋しい、なんて)
 わがままでしかない。そんな気持ちをぶつけられても、きっとユルは困るだろう。

 ミエに提案されてからも、ククルはユルに相談することはなかった。ミエも、黙っていた。本人たちに任せようと思っているのだろう。
 今年の祭りは、魔物が現れることもなく、無事に終わった。
 相変わらずユルの二才踊りは見事で、観客を湧かせた。トウキョウで稽古できていたとは思えないが、基礎がしっかりしているからだろう。
 ククルの女踊りも、昨年ほどの悲壮さを出すことはできなかったが、後で「どこか淋しげなのが合っていた」と褒められた。
 その後の宴会で、大人たちが酔っ払う中、ククルはジュースをちびちび飲んでいた。
「……なあ」
 いきなり隣に座っていたユルが声を出したので、ククルは驚いてユルに目線をやる。
「お前、オレを避けてるか?」
「…………そんなことないよ。忙しかっただけ」
「なら、いいけどさ。……もう、行くか」
 腰を上げたユルに促されて、ククルは頷いて立ち上がった。
 近くにいた高良に声をかけ、二人は会場を出ていった。

 外に出て、示し合わせたわけでもないのに、海への道を辿っていた。
 浜辺に出て、二人は黙って暗い海を見つめ続けた。
「何か、言いたいことないのか」
 静かに問われて、ククルはユルを仰ぐ。
「……ミエさんに、提案されたの」
 そうして、ククルはミエの提案を語った。
「お前は、そうしたいのか?」
「……わからない。でも、ミエさんがノロを務められるのはあと数年。この機会を逃したら、ずっと私はここから出られない。昔は、それでいいと思っていた。でも、たまに思い出すの。大変だったけど、高校通うの楽しかったな、とか。私が大学で勉強しても、別にどうにもならないとはわかってるけど」
 ククルは彼の視線に耐えきれなくなって、うつむいた。
「なら、来たらいいんじゃないか」
 ユルの答えが信じられなくて、ククルはハッとして彼を見上げる。
「嘘? ほんとに? 大和だよ?」
「もしナハでも、ここから出るのなら同じだ。それなら、オレの傍にいた方が安全だろ」
 それに、とユルは付け加えた。
「お前の言う通り、一旦出たいならここを出ればいいんだ。もう、昔みたいな時代じゃない。もちろん、大学を卒業したらここに帰らないといけない。それでもいいんだな?」
「うん。でも、私が勉強しても」
「――倫先生が言ってた。無駄な学問はないって。いつか役に立つし、たとえ役に立たなくても心を豊かにすれば、それは学問としての役割を果たしているんだと。だから、もし学問に迷う人がいればそう言ってやりなさい……ってさ」
 倫先生の言葉を引用してまで励ましてくれたことが嬉しくて、ククルは口元を綻ばせた。
「だからお前が少しでも勉強したいっていうなら、オレは止めない。自分で決めろ」
 突き放すような口調だったが、拒まれないことが嬉しかった。
「…………私は」
 高校でも、勉強なんてわからなくて。現代大和語を覚えるだけで必死で。
 楽しかった、とはとても言えない。
 だけど…………
「やって、みたい」
 なぜか、ふつふつと熱が湧いてきた。
 それは原始的な、ただの欲求かもしれない。ずっと、ここに居続けるのが嫌なだけかもしれない。
「そっか。なら、来年になるな。春に、トウキョウの予備校に入ればいい。来るまで勉強しとけよ」
「うん――」
 ククルは嬉しくて、何度も何度も頷いた。
(私は来年、トウキョウに行くんだ)
 じんわりと温かくなった胸を押さえた時、ごおっと風が吹いた。ただの海風ではない、攻撃的な風だった。
「何だ……?」
 ユルも不審に思ったのか、暗い海の向こうを睨みつける。
「神様の、警告?」
「何の、警告だよ。代理でミエさんが御獄を祀ってくれるんだろ? オレたちが帰ってくる前と同じだから、怒ることないだろ!」
 ユルの、それこそ怒った声が響くと風が徐々に止んでいった。
 すっかり風が絶えて、二人は顔を見合わせる。
「何だったんだろな」
「さあ…………」
 でも、とククルは思う。神々は、ククルがここから出ていくのは面白く思わないだろう。ミエも立派なノロだが、海神の血を引くわけではない。
 正当な後継者は、あくまでククルだ。最後の兄妹神の片割れ。海神の血を伝える者。
 この役割から、逃げてもいいのだろうか。
 不安になって、ククルはぎゅっと拳を握った。
 ククルの不安が伝わったのか、ユルはククルの頭にぽんと手を置いた。
「あんまり気にするな。お前の使命は、オレの浄化と治療なんだろ? それなら、一緒に来た方が役割果たせるじゃねえか。それに、お前だって別にこの島を出ていいんだ。どこに行ったって、いいはずだろ」
「……うん」
 慰めてくれるのが、おかしくて。思わずふふっと笑うと、ユルも少しだけ笑ってくれた。

 それから三日後、ユルは琉球を発つことになった。
 ククルはまた、信覚島の空港まで見送りに来ていた。
 数ヶ月前のように、ククルは泣いたりしなかった。
「じゃあな、ククル。魔物には気をつけろよ」
 ユルはちっとも名残惜しそうなんかではなく、荷物を持ってさっさと行ってしまう。
「うん! 着いたら、電話してねっ!」
 ククルは群衆に紛れていくユルに大声で呼びかけて、手を振った。
 前に見送った時のような、絶望感はない。
(だって私も、来年ユルの傍に行くんだもの)
 手を下ろし、ククルは目をつむる。こんなに騒がしいところでも、心が凪いでいれば祈りはできる。
 だからククルは手を組み、兄弟エケリの無事を祈った。