ニライカナイの童達
第二部
第十一話 治癒 3
海では、水着姿の観光客がはしゃいでいた。
ククルは目立たない岩のところに座って、ぼんやりと海を眺める。
(なあんだ。ユル、気にしてなかったんだね。あんなに気にした私が、馬鹿みたい)
そこでククルは、はたと気づいた。
(今思ったら、私もあの口づけが初めてだったんだ。そう、今風に言えば、ふぁーすときす…………)
そう考えると、なんだか恥ずかしくなってしまって。ククルは両頬に手を当てた。
(で、でも全然覚えてないっ!)
なにせあの時、ククルは神がかり状態だった。ああいう風に、ノロを越えた神に近い力を発揮する時、ククルは半ば意識があるようでないのだ。
時を超える前に比べれば、ああなる頻度はかなり減っていたのだが。
(薫ちゃんに相談したかったな。でも、痴女だと思われたら嫌だし)
煩悶するククルとは裏腹に、今日も碧い海は静かに凪いでいた。
ククルは海辺でしばらく座りこんでいたが、声をかけられて顔をあげた。
「おー、コスプレ巫女さんじゃん」
見れば、水着を着た男性二人に囲まれている。
「これ、何かのサービス? 飲み物とかくれんの?」
二人はにやにや笑って、ククルを見下ろす。
「これは、ただの琉装ですけど」
ムッとして立ち上がると、「まあまあ」となれなれしく肩に手を置かれた。
「止めとけばー、ケンジ。野暮ったい地元の子なんてさ」
「こういう素朴な子が、たまにはいいんだよ」
早口の大和語だったが、大和から帰ってすぐだったせいか、ククルには容易に聞き取れた。
「どいてくださいっ!」
ククルが強引に二人から逃れようとすると、腕を取られた。
観光客が増える期間はたちの悪いのも増える、という法則を忘れていた。
「ごはん、おごってあげるからさー。行こうぜ」
ククルは腕を取って引きずられ、もがいた。
こんな時、毅然とはねつけられなくてどうする、とククルは息を巻く。
もう、ユルにも甘えられないのだ。
「放して……!」
そこまで言ったところで、いきなり力が抜けた。急激に襲ってきたのは、疲労感だ。
ずっと気を張っていたからなのか。一昨日の浄化で、霊力を使いすぎたのに気づかなかった。
「あれ? 急におとなしくなった。まあいっか」
男たちは笑って、ククルを担ぎ上げる。
抵抗したくても、目の前が真っ暗になって指を動かすこともできなかった。
次に、ククルが聞いたのは喚き声だった。
「いてええ! てめえ、何するんだ!」
ククルは地面に倒れていたことに気づき、顔を声がする方に向ける。
そこには、男二人と対峙するユルがいた。手に、木刀を持っている。
「うるせえな。お前らこそ、あいつを担いでどこに行くつもりだったんだよ。回答によっちゃ、腕の一本か二本へし折るぞ」
「物騒な奴だな!」
男は悲鳴をあげてから、もう一人に話しかける。
「どうする?」
「どうするって言っても、こいつやべーっしょ。さっき、打たれた足がまだ痺れてるし。逃げるしかないっしょ」
「ちっ。そうだな……」
二人はじりじりとユルから距離を取って、走り去っていった。
ため息をついて、ユルはククルの傍にやって来て、かがみ込む。
「何やってんだよ」
「…………よくわからないけど、動けないの。絡まれて、逃げようとしたんだけど急に動けなくなって」
「しょうがねえなあ」
彼は木刀を投げ捨てた後、大仰なため息をついてククルを抱き上げた。
「木刀、いいの?」
「木刀? あれは木の枝だ。近くに落ちてたから使っただけ」
説明を受けて見下ろすと、たしかにそれは長くて太い木の枝だった。ユルの構えがしっかりしていたせいか、木刀に見えてしまった。
「何でユル、来てくれたの?」
眠りに落ちそうになりながら、ククルは問う。
「お前が連れ去られるの見た観光客が、島の人に声をかけてくれたんだとさ。それで、うちに知らせが入ったわけ」
「そっか……。ごめんね。私、よくわからないけど、疲れていたみたい」
どうして、こんな時差を経てククルの体に負担が押し寄せたのだろう。考えても、よくわからなかった。
そうして、またククルはことんと眠りに落ちてしまった。
次いで目を覚ましたのは、ベッドの上でだった。
高良ミエがベッドの傍に座り、ククルを優しく見下ろす。
「ミエさん。私――どうしてか、急に動けなくなって。なぜだか、わからなくて」
「そう悩むことはありません。霊力を使いすぎたのに、気力で持たせていたのでしょう。ホッとしたせいですよ」
「ホッとした?」
「あなたは、ユル様が復活したのを見届けたでしょう。それで、緊張の糸が切れたのです。そも、見知らぬ異邦の地で色々あったのでしょう。トウキョウは特に、溜まるところだといいますし。人が多いとそれだけ、感受性の高い私たちシャーマンは当てられてしまうものですよ」
ミエは理路整然と、説明してくれた。
「そっかあ……」
「ええ。あなたほど霊力が強いと、普段は枯渇することないでしょう。それだけ、ユル様の浄化に使ってしまったのでしょうね。回復しない内に動き回って、体が限界に達したのでしょう」
ミエはにっこり笑って、傍らに置いていたペットボトルをククルに差し出した。
常温なので、少しぬるい水が染み入るようにククルの喉を潤していく。
「夕方のお祈りは、私が代わりにやっておきます。明日の朝は、体調を見てから」
ミエの提案にククルは素直に甘えることにして、また横たわった。今は眠くて、仕方がなかった。
ククルはその次の朝まで眠ったことで、回復した。
朝の祈りも、ククルが行った。むしろ祈りの行程をこなしていくことによって、頭も冴え渡っていった。
神々に祈り、御獄から出た時には、どこかさっぱりした気分になっていた。
「うん。今日もいい天気だね」
早く流れる雲にと青い空を仰いで、ククルは息をついた。
そして、そこでククルは「あっ!」と叫んだ。
「弓削さんに連絡しないといけないんだった!」
すっかり忘れていた。あの時、ユルは前後不覚の状態だったので、連絡していないだろう。
ククルは走って、家まで戻った。
ちょうど朝食の支度を手伝っていたユルが、息を切らせたククルを見て眉をひそめる。
「どうしたんだ?」
「ユル、弓削さんに連絡した?」
「…………」
どうやら、していないらしい。
「じゃあ、私がしておくね!」
「お前、弓削の連絡先知ってるのか?」
「ちゃんと弓削さんが登録してくれたの!」
ククルは大急ぎで、階段を駆け上がった。
机の上に置いてあった携帯電話に飛びつき、ロックを外す。
「えーと、ゆ……弓削さん。これだあ」
ククルも、電話帳から誰かを捜して電話をかけられるまでには、進化していたのだ。
何度めかのコール音の後、眠そうな声が応じた。
『……はい』
「あの、私、ククルです」
『ああ、ククルちゃん! 夜の様子は、どう?」
「浄化完了しました。ごめんなさい。実は、その後ユルはずっと眠っていて、その次は私が倒れてしまったりして。連絡が遅れてしまって」
『あれあれ、大変だったんだね。でも、夜の浄化ができたとはさすがだね。どうやったの?』
弓削に問われて、あのことを思い出してしまってククルは頬に熱を覚える。
(か、神がかり状態だったから仕方ない! ユルも、〝しょうがねえ〟って言った!)
どう説明したものか、と迷った後、ククルは口を開いた。
「ユルと私、偶然海に落ちてしまったんです。でもそれが、かえって良くて。私の祖先は海の神だから、琉球の海でこそ力を発揮できたみたいで」
『ふうん。でも、本当にそれだけ?』
弓削の一言に、ククルはぎくりとした。
「いえ。私の持ってた短刀の使い方が、間違っていたんです」
ククルは、ざっと命薬のことについて語った。
『なるほどね。傷口に刺すのは思いついても、浄化のために刺すとは思えなかったと。君の気持ちはわかるよ。…………もっと話を聞きたいところだけど、そろそろ支度をしなくちゃ。所長にも報告しておくよ』
「はい、ありがとうございます!」
通話を終え、ククルは息をついて携帯電話を机の上に戻す。ふと気配に気づくと、戸口にユルが立っていた。
「か、勝手に入らないでよ」
ククルが文句を言うと、ユルは肩をすくめた。
「一応、入るぞって言ったけど?」
電話中に気づくわけがない、とククルは口を尖らせる。
「どう報告するか、興味があってな」
「別に、今ので問題なかったでしょ?」
「ああ」
と言いつつ、ユルはどこか面白くなさそうだった。
報告も終えて、ククルは日常を取り戻していった。
朝な夕なに神事をこなし、ノロとして島人の相談に乗る。少し前と違うのは、家にユルがいることだ。
ユルは以前のように、一日一回は仲田家に本を読みにいって、あとは二才踊りの稽古に出ていた。
(まるで、ユルがいなくなる前みたいだ)
ククルは公民館で女踊りの練習をしながら、思う。
(ずっと、そうだったらいいのに)
そんな思考が頭をかすめて、ククルは体の均衡を崩す。転びはしなかったが、ひやっとした。
「珍しいわね、ククルさん。何か、考えごとでも?」
舞の先生が、やわらかな口調で問いかける。
「……いえ」
ククルはうつむき、青くなっているであろう顔を隠す。
(私は、ユルの旅立ちをまだ祝福できていなかったの?)
いや、違う。たしかに、あの空港でククルはユルを掴んでいた手を放した。だからこそあんな喪失感に襲われて、泣いたのだ。
きっと、会いに行ったせいだ。そこで、ユルが自分の世界を作っていることに衝撃を受けたのだ。
喜ばないといけないのに。ククルは、この狭い島で変わらぬ生活をする自分と比べてしまったのか。
「気分が悪いなら、ここまでにしておきましょうか」
そう言われては、頷くしかなかった。