ニライカナイの童達
第二部
第十一話 治癒 2
ククルは自分の部屋に戻り、荷物を整理した。
「あ、そうだ。お土産買ってきたんだった」
トウキョウの空港で、比嘉薫への土産――トウキョウイチゴを買ったことを思い出して、スーツケースからそれを取り出す。
(薫ちゃん、夏休みは地元に帰るって言ってたし……会えるかな)
ククルは、携帯電話を取りだして薫に電話をかけた。
『はい! ククルちゃん?』
「はい、ククルです」
『あはは。相変わらず、電話の応答が変だね。久しぶり! こっちからも連絡しようと思ってたの。今、信覚島に帰ってるからさ』
どうやら、ククルの予想通り薫は帰ってきているようだ。
「実はねえ、私さっきトウキョウから帰ってきたところなの」
『は!? トウキョウって、大和のトウキョウ!?』
「そうだよー」
『トウキョウって、琉球のナハの何倍も都会なんだよ!? 誰と行ったの?』
「一人で」
『ククルちゃん一人で――――!?』
薫は異常に驚いていた。二年間の付き合いでククルの性格をよく知っているからこそ、だろう。
『ま、まさか雨見くんを追いかけていったの!?』
「うーんとまあ、そんな感じ」
当たらずとも遠からず、だろう。
『さすが! 愛しい人のためなら、一人でだって行っちゃうんだね……。はーっ、ドラマチック。まるで少女漫画のようだよ』
何やら、盛大に勘違いされている気がする。
「だから、薫ちゃん。ユルと私は兄妹みたいなものだってば」
『はいはい。わかってるって。意地っ張りなんだから』
全く感情のこもっていない〝はいはい〟だった。
「あ、それでね。お土産買ってきたから、渡そうと思って」
『お土産買ってくれたんだ! ありがとー、嬉しい。私もナハ土産あるから渡すね! いつ会える? ククルちゃん、これから忙しくなるんだよね』
「それもそうだね……」
祭りが近づくと、ククルはどうしても時間が取れなくなる。早いほうがいいだろう。
『急だけど、明日とかどう?』
薫の提案には驚いたが、相談したいこともあるしとククルは了承したのだった。
弓削春貴は、信覚島の商店街を歩いていた。
せっかく来たのだし、このまま何も見ずに帰るというのも勿体ない、と思ったのだ。まだ店も開いているし、少しだけならいいだろうと。
ふと、三線を売っている楽器屋が目に留まり、何気なく中に入る。
「いらっしゃいー。うちは、弾くのは無料だよ」
いきなり店主に三線を渡されて弓削は眉をひそめかけたが、人のよさそうな顔を目にしては、とても断れなかった。
「三線なんて、弾いたこともないんだけどな」
「まあまあ兄さん、ここに座って」
示された椅子に座って、三線を困ったように見下ろす。構え方すらわからない……と思いきや、いきなり頭がぼうっとして、弓削の手は無意識に動き始めていた。
「へえ!? 兄さん、大和の人かと思ったら琉球人かい!?」
「いや……大和人なんだが」
「そうなのかい!? でも、今弾いたのは、この諸島に伝わる古い民謡だよ?」
「古い、民謡?」
明るい音階で紡がれる、三線の音は耳に心地よい。自分が弾いているという事実さえなければ、聞き惚れただろうに。
気味が悪くなって、弓削は三線から手を話して店主に返した。
「申し訳ない、勝手に弾いて」
「いや、薦めたのは俺だから……。おい、待ってよ兄さん! もっと他にも弾けたりしないのかい?」
「無理無理。今のはたまたま、だから」
弓削はやんわりかわして、店を出た。灼熱の太陽を見上げて、弓削は首をひねる。
「霊にでも取り憑かれたのか……?」
念のため、懐の護符を取りだして呪を唱えたが、特に何も変わりないようだった。
(それか、琉球の妖怪にでも化かされたんだろうな)
そう思い込み、弓削はまた歩き始めた。
翌朝、ククルは朝の祈りを終えた後、着がえて支度をした。
「おばさん。私、出かけてきます」
「はーい」
居間で、テレビを見ている高良夫人に声をかける。そこに、ユルの姿はなかった。
「ユル、まだ起きてきてないんですか?」
「ええ。疲れてるんでしょうね。起こさずにいようと思うの。ユルくんも一緒に行くの?」
「いえ。これは、私の用事なので」
ただ、起きてこないユルが心配だっただけだ。昨夜、ユルはあのまま眠り込んでしまい、夕食の時間だと起こしにいったのだが、「いらない」と言い捨てて眠り続けたのだ。
(浄化が上手くいったから、心配ないと思うけど)
ずっとケガレに侵されていた体が、急激に休息を求めているのかもしれない。
「大丈夫ですよ、ククル様」
高良夫人の傍に座っていたミエが、ククルに頷きかける。
(そうだ、ここにはミエさんもいる。大丈夫だよね)
ククルは拳を握って、「それでは、いってきます」と告げて家を出た。
連絡船で信覚島まで行って、待ち合わせ場所であるカフェまで向かう。
(今思えば、信覚島をゆっくり歩くのって久しぶりかも)
高校卒業以来、ククルは神の島からほとんど出ていなかった。
こんなにも便利になったのに、不思議な話だ。昨日まで大和にいたなんて、信じられない。
八重山の中では一番の都会とはいえ、信覚島にはトウキョウよりも数段ゆったりした空気が流れている。
考えごとをしている内に、目的のカフェに着いた。学生時代は、お洒落すぎて気後れしていたカフェだというのに、大和で数段上のお洒落なカフェを経験した今となってはどこか野暮ったく見えるから不思議だ。だが、ククルにはその野暮ったささえ心地いい。
既に、薫は席に着いていた。
「ククルちゃーん!」
「薫ちゃん!」
ククルは小走りで、薫の元に向かった。
「ここのモーニング、食べたくなってさ。すみませーん」
ククルが席に着くなり、薫は声をあげて店員を呼んだ。
「モーニングセット二つ! 私はアイスコーヒー。……ククルちゃんは?」
「私は、オレンジのジュースで」
注文を終えて、二人はホッと一息をつく。
「ええとね、これトウキョウイチゴ」
「ありがとう! これ、ナハのマンゴーケーキね。信覚島でも買えるから、有り難みないかもしれないけど」
「そんなことないよ。ありがとう」
お土産を交換し合って、ククルと薫は微笑み合った。
すぐに、モーニングセットが運ばれてくる。パンケーキにフルーツという、女子の好きそうなものが一皿に載っていた。
「ククルちゃん、大和は初めてだったんでしょ?」
「う、うん」
「どこに観光に行ったの!?」
「観光…………」
ショッピングモールと、ユルの大学にしか行っていない。
ククルは大きなため息をついた。
「えっ。私、悪いこと聞いちゃった?」
「ううん、違うの。でも、今回行ったのは、ユルの具合が悪いって聞いたからなの。だから観光はできなかった」
多少の嘘を交えて説明すると、薫は眉をひそめた。
「そうなんだ。ごめんね、はしゃいじゃって。雨見くん、大丈夫?」
「気にしないで。しばらく静養すれば、平気だと思う」
「そっか……」
「薫ちゃんは、どう? ナハでの生活」
「んー、楽しいよ。漫画や絵のこと学べるって、すごくいい。それに、ナハはここに比べると都会だけど、大都会すぎないのがいいよね。私もトウキョウ行ったことあるけど、あそこに住めるとは思えないもの」
「そうだよねえ」
ククルも、あの人混みを思い出すとゾッとしてくるのだった。
その後、朝食を食べながら色々なことを話した。そして話題が途絶えたところで、ククルは思い切って話をすることにした。
「ねえ、薫ちゃん」
「ん?」
「これはー、えっと、私の知り合いの経験談なんだけどね。相手の合意なしに口づけする、ってダメだよねえ……?」
「へ? それはまたいきなりだね。でも、うーん。二次元ならオッケーかな」
「二次元なら?」
「漫画や小説なら、ってこと。映画でも、いいか。まあフィクションの――虚構の世界なら、〝萌え!〟だし、いいと思うよ」
薫の説明を受け、ククルは首を傾げた。
「じゃあ、現実世界では?」
「それは、痴漢になるね」
即答されて、ククルは凍りついた。
(痴漢!)
「そ、それをしたのは女の人だったんだけど……」
「じゃあ痴女だね」
(痴女!)
ククルが固まっていると、薫は「どうかしたの?」と不思議そうな顔をしていた。
その後も薫と商店街をうろつき、昼食も一緒に取った。帰りはもう夕方になってしまい、薫は連絡船乗り場まで送ってくれた。
「じゃあね、ククルちゃん。私、八月の末にナハに行くから、それまでまた会えたら会おう!」
「うん! 今日はありがとね、薫ちゃん!」
手を振り、ククルは連絡船に乗り込んでいった。
家に帰ると、もう夕食の時間だった。ククルが食器を食卓に運んでいるところに、ユルが入ってきた。
「あっ。ユル! もう大丈夫?」
高良夫人の話では、ユルは昼にも起きてこなかったそうだ。
「ああ……。死ぬほど寝たから、腹減った」
のんきなことを言って、ユルはあくびをしていた。
彼の顔色は、悪くなかった。どうやら完全に回復したようだ。
その後、ユルは夕食を平らげて自室に戻っていった。
ククルは夕方の祈りを済ませていなかったことを思い出し、白い琉装に着がえて御獄に向かった。
炎を灯し、順番に祈っていく。最後、空の神の間に出た時、高いところから覗く夜空に感謝した。
(空の神様。ありがとうございました。警告があったからこそ、ユルを助けに行けました)
随分遠回りな助け方だったけれど、ククルが行って良かったのだと思いたい。
御獄を出たところで、さあっと夜風が吹き抜ける。
ニライカナイが、近い。ククルは引き寄せられるように、海辺へと向かった。
白い袖がはためき、ククルは髪を抑える。
満天の星の下、黒々とした海がきらめいている。
そこで、ククルはふと気配に気づいた。波打ち際に、見覚えのある二人が立っていたからだ。
すんなりとした、後ろ姿。誰もがうらやむ、艶のある長い黒髪。
もうひとりは、がっしりとした体躯の持ち主で、よく日焼けした顔で快活に笑っていた。
彼らは、何かを語らっているようだった。今は誰も着ないような、粗末で簡素な琉装に身を包んでいる。
「トゥチ姉様、カジ兄様?」
名前を呼んで、一歩を踏み出す。彼らが振り向く前に、ククルの腹に腕が回され、引き留められた。
振り向くと、ユルがいた。
「ユル、何で」
「何でも何もないだろ。あれは、魔物だ」
「え…………」
ユルに指摘され、また前を向く。すると二人は、ユルの気配に気圧されたように、陽炎にように消えてしまった。
「無害な魔物だ。あれ自体に危険はないが、海に引き込む役目があるんだろ。お前には、トゥチとカジに見えたのか」
「う、うん。ユルには、誰に見えたの?」
その質問にユルは答えずに腕を解き、さっさと背を向けて歩きだしてしまう。
ククルはそのまま呆然としていたが、また海を振り向く。
幻でいいから、またあの二人に願いたいと思ってしまった。
そんなククルに焦れたように、ユルが戻ってきてククルの手を引く。
「ま、待って」
「待たない。あれは魔物で幻だ。いい加減、わかれよ。あの二人は、とっくの昔に死んだんだ……!」
ユルの言うとおりだった。わかりきったことだった。
だのに、ククルの目からは涙が溢れた。
前を向いているユルに気づかれないように、着物の袖で涙を拭って、ククルはまた溢れようとする涙をこらえた。
翌日、朝ご飯を終えた後、ククルは家にあった習字道具を貸してもらった。
墨を刷りながら文面を考え、いざ、と細筆で文章をしたためる。
書き終えた後、傍に置いていた朱印の蓋を開けて親指を押しつけ、仕上げた文書の片隅に押印した。
「ユルー。入っていい?」
呼びかけると、「勝手に入れ」と愛想のない返事があった。
それだけなのに嬉しいのは、このやり取りもしばらく絶えていたせいだ。ユルは遠く、大和に行ってしまっていたから。
「失礼しまーす」
ククルは神妙な顔つきで、入っていった。
ユルはベッドに寝転んで本を読んでいたが、ククルの顔つきがおかしいと気づいたらしく、眉をひそめて起き上がった。
「何だ?」
「…………これを、お受け取りくださいっ!」
ククルは、ユルにさっき書いたばかりの書状を差し出した。
「何だこれ」
ユルはそれを受け取り、見た瞬間に顔をしかめていた。
内容は、合意なしに勝手に口づけたことに関する、詫び状である。
悪意はなかったこと、あの時は必死になっていて仕方がなかったことを記してある。
「あのね……あの時、私の力が満ちたからこれでいける、と思ってしまって。一種の神がかり状態になってたの。冷静になっていたら、一度海から上がって、また命薬を刺して浄化することもできたと思うのだけど」
ククルは早口で、言い訳をまくしたてた。
すると、ユルは信じられない行動に出た。
びりびりと、詫び状を破ってしまったのだ!
「あああ! 何するのー!」
「うるせえ。別に、オレは気にしてない。お前も気にするな」
「そ、そうなの? 三次元でそれをやったら、痴女なんじゃないの? 犯罪になるんじゃないの?」
「…………」
ユルは慌てるククルを見て、大仰なため息をついていた。
「うるせえなあ。これ以上用がないなら、さっさと出てけよ」
ユルはいつも異常に辛辣で、破った紙をゴミ箱に捨てていた。
(書くのに、一時間もかかったのに……)
がっくりと肩を落として、ククルは「お邪魔しました」と言い残して出ていった。
そのまま家にいる気になれなくて、ククルは外に出て海へと向かった。