ニライカナイの童達

第二部

第十一話 治癒



 翌日、宣言通り弓削が迎えに来てくれた。
 ユルは相変わらず具合が悪そうだったが、歩くのに問題はないようだった。
 だが、腕が黒く染まっているので、この暑いのに薄手の長袖ジャケットを羽織ることになって、いっそう暑そうでククルは心が痛かった。

 荷物は、ククルと弓削で手分けして持った。ユルもそのことについては、「悪い」と言うだけで異議を唱えなかった。
 そうして、飛行機はトウキョウを発ち、ナハへと向かった。

 行きは緊張でがちがちになっていたククルだが、今は隣席のユルが気になりすぎて、緊張どころではない。
 今は通路に挟まれた真ん中の三席に三人で座っており、窓が遠いから「飛んでいる」という感覚が薄いだけかもしれない。
 ユルが一番真ん中の席で、彼の右に弓削が、左にククルが座っていた。ユルは飛行機が飛び立つ前から、気絶するように眠りに落ちていた。
「弓削さんって、すぐにトウキョウ帰っちゃうんですか」
「まあね。所長が言ってたと思うけど、うちの事務所は今、人手不足でね。こんな状況じゃなければ、琉球観光したかったけど。残念ながら、一泊で帰らないと」
 ユルを挟んで、ククルと弓削は会話を話した。
「そうですか……。琉球は初めてなんですか?」
「実は、そうなんだよ。機会を逃していてね」
「じゃあ今度、ゆっくり来てください。歓迎します」
「うん、是非」
 弓削は優しく、口元を綻ばせた。彼の笑顔は、どこか安心する。笑顔だけではない。初めて会った時から、警戒心が強いはずのククルは彼にすぐ懐いてしまった。
(…………兄様)
 そうか、と得心する。彼はどこか、ティンを思わせるのだと。
 優しい声音で、穏やかな笑顔で、いつもククルを助けてくれたティン。今も懐かしく、恋しかった。もう会えないと、わかっているのに。
「ククルちゃん?」
 弓削が眉をひそめて、ククルはハッとした。
「どうして、泣いてるんだい?」
「ご、ごめんなさい。ちょっと、不安定で」
「あー……せっかく来たのに、夜がこんな状態になってしまったからね。気にするな、と言っても無理だろうけど……きっと、故郷で良くなるよ、夜は。だって――」
 琉球の神の血を引いているんだろう? と、弓削は続けたかったに違いない。
「はい。必ず、私が治します」
 力強く言ったところで、ククルは罪悪感を覚えていた。
 ユルがこんなに苦しんでいるのに、未だにククルはもういない兄の面影を想って、泣いてしまったのだ。
 ごめんね、と心の中で謝って、ククルはポケットから取りだしたハンカチで目元を拭った。
 ふと、ククルは弓削の横顔を見やる。
 彼は肘掛けに頬杖をついて、軽く目を閉じていた。
(まさか、弓削さんが兄様の生まれ変わりってこと……有り得るのかな?)
 だが、ユルが言っていた通り、ティンは無理をしたせいで魂が削れていた。転生するまでには、かなり時間がかかるだろう。
(それに、兄様が生まれ変わるなら琉球に生まれ変わるよね…………)
 更に、こうして偶然ユルとペアを組む運命になるなんてことが、有り得るだろうか?
 ククルは目を逸らし、首を振った。
 弓削にも、失礼なことを思ってしまった。彼はただ、優しげな話し方がティンを思わせるだけだろう。
 なんとなく、ユルに言えば怒られる気がして。この想像は胸に秘めておこうと誓った。

 ナハを経由し、信覚島に到着。すぐに彼らは連絡船の波止場に向かった。
「へー。ここから、八重山の離島に一通り行けるんだね」
 弓削は感心しながら、チケットを買っていた。
 この旅程の出費は経費で落とすから、と言われたので、弓削にチケットなどの買い物は全て任せている。
 心苦しくないわけではなかったが、ククルは素直に甘えておいた。
 ユルは琉球に戻ったというのに、相変わらずひどい顔色をしている。暑いせいもあるのだろう、立っているのがやっとという有様だった。
 三人は連絡船に乗り込んだ。ククルとユルが隣合って座り、通路を隔てて弓削が一人で座る。連絡船は、混んでいなかった。
 ユルは窓に頭をもたせかけて、目を閉じていた。そっと、ククルは彼の額の汗をハンカチで拭ってやる。
 出発してすぐ、弓削の「おお」という声が聞こえた。
 声に反応してククルが弓削の方を見ると、彼は苦笑した。
「いやあ、すごい青さだと思って。飛行機から見下ろした時も驚いたけど、本当にきれいな海だね」
「ふふ。この海は、琉球の宝です」
 多少胸を張って答えると、弓削はゆるやかに微笑んで、また窓の外に目をやっていた。

 無事に神の島に降り立ち、弓削は首を巡らせた。
「やれやれ。ここまで来て、この島を巡れないのは残念だな。なんて清冽な空気だ。まるで神話が息づいているような島だね」
 弓削の霊感は、この島に反応したらしい。
「少しでも、家で休んだらどうですか?」
「そうしたいけど、日が暮れない内にホテルに着いておきたいんだ。明日の便も、早いしね」
 ククルの提案に、弓削は首を横に振った。
 少しがっかりする自分に気づいて、ククルはうつむいた。がっかりするのは、弓削がティンの生まれ変わりではないかと期待してしまっているからだ。ここに来れば、思い出すのではないかと――有り得ないことを、考えてしまった。
「ありがとう、ククルちゃん。夜の治療をよろしく。一段落ついたら、所長か僕に連絡するように」
 弓削が後半を、ユルに向けて告げる。
 ユルは緩慢に頷いて、「ああ」と答えた。礼を言う余裕もないらしい。
「はい! 必ずユルは治してみせます! 弓削さん、ありがとうございました!」
 ユルの分まで礼を、と思って大声を出し、ククルは手を振った。
 弓削が連絡船に乗って行ってしまうまで、ククルとユルは見送っていた。
「行こうか、ユル」
 振り返ると、彼の体が崩れ落ちた。
「ユル!」
 叫び、ユルの体を支える。すると、彼の体重を支えきれずに、ククルは後ろに倒れ――――海へと飛びこむ羽目になった。

 日光で温められた、ぬるい海水に包まれて。閉じたククルのまぶたに、記憶が蘇る。



「大和で、魔物を狩るんだな。わかった」
 隣で、ユルが頷いていた。
 今のユルよりもずっと幼い、ニライカナイに渡った時のユルだ。今より背が低くて、声は高くて、今ではほとんど着ることもない琉装を身にまとっている。
 ――――そうだ。
 轟くような、声が響く。これは空の神の声だと、ククルはどうしてかわかった。
 ――――兄妹神の力を、全てこの刀……天河に移す。また、この刀は魔物を引き寄せる。ゆめゆめ、忘れるな。
 ユルがまた首肯した時、空の神は付け加えた。
 ――――また、この刀には癒やしの力もこめてある。お前の怪我を癒す。お前だけの怪我だ。更に、魔物の血をまとって穢れたお前を刀が浄化するだろう。浄化するには、海の神の力が必要だ。自身が穢れすぎたと思った時は琉球に戻り、海に潜って力を発動せよ。
 そこで、意外な人物が進み出た。誰を隠そう、ククルだ。
「は、反対です!」
 ――――反対? なぜだ。お前たちが望むようにする代わりに、魔物退治をせよと言っているだけだ。この空と海が、もう血と火で穢されないように。
「違います。条件に、文句をつけてるわけじゃありません。ユルの負担が大きすぎます! ユルは戦って、治療も浄化も一人でするなんて!」
 それだと一人で、完結してしまう。ククルは、それが嫌だった。
 兄妹神として戦う時は、二人で一人だったから。
「おい、ククル。それでいいじゃねえか」
「だめ! ユル一人に背負わせるために、私は来たんじゃない!」
 どこまでも広い、蒼穹の向こうを見すえる。
 浮かんで座す空の神の姿が、うっすらと見えた。長い黒髪に、浅黒い肌。目元は見えなかったが、どことなくユルや聞得大君に似ている気がした。
 ――――わがままな娘だ。…………海の神よ、どうする。
 空の神は、ふと視線を下にやった。
 すると、そこには海に足を浸からせた青年が現れていた。肩のあたりまで伸ばされた茶髪が、風に揺れる。
 ――――元々、浄化と治癒は女の方が得意な分野だろう。その力は、私の末裔に残せばいい。本人が物好きなことを言っているのだから。
 ククルはその言葉を聞いて、頭を少し下げた。
 ティンを殺した憎い神様だというのに、こうして相対すると憎しみなど解けていってしまいそうだ。
 それが、人間より格上の存在と会う、ということなのかもしれない。
 ――――良いだろう。では、私は息子に、魔物を引きつけて、殺める刀――天河を。
 ――――私は末裔に、空の神の息子の傷だけを癒し、浄化する短刀――命薬を授ける。
 二柱はユルとククルに、そう告げた。



 はっ、とククルの意識が戻る。
 長い時間のように思えたが、一瞬だったのだろう。息はまだ、苦しくない。
(思いだせてよかった!)
 浄化の力。命薬は、それを持っていた。だが、琉球の海でないと発動しなかったのだ!
 ククルは命薬を心の中で呼んで顕現し、ユルの胸に突き刺した。衝撃のせいか、閉じられていたユルの目が開かれる。
 命薬が、ユルに溜まったケガレを吸い取っていく。そのケガレは、ククルに移る。ククルは胸を抑えて、祈った。
(私には、浄化の力がある)
 海によって高ぶったククルの力が、ユルから移ったケガレを浄化させていく。
 だが、足りなかった。あまりにも、浄化をしていなかった。更に、大きな妖気を吸い過ぎた。だから、命薬だけではユルのケガレを全て吸い取ることができない。
 だから、ククルは何も考えずにユルの頭を引き寄せて、唇を重ねた。そして、念をこめて清浄な気を吹き込んだ。

 息が苦しくなったところで、ククルはユルの手を引いて海面に向かった。
 ぶはっ、と二人で息を吸い込む。
「どう、ユル? 大分、楽になったでしょ!」
 ククルは得意満面な表情でユルを見たが、ユルは口元を抑えてこちらを睨みつけていた。
(え?)
 そこで、ククルも気づく。
「あっ。ああ――――っ!」
「…………体は楽になった。上がろう」
 ククルが叫んでいる内に、ユルはさっさと地上に上がってしまう。手を差し出され、ククルはその手を取って海から上がった。
「あの、その」
 ククルは何か言い訳をしようと思いながら、置きっぱなしになっていた荷物を持ち上げる。だが、ユルはさっさと荷物を持って歩き出してしまった。
「待ってよ――――!」

 そうして、辿り着いた高良家。高良夫人も、ミエも濡れ鼠になっている二人を見て、たいそう驚いていた。
 先にユルに風呂を使うように言って、ククルはしばらく外で体を渇かす。
 琉球の灼熱の太陽も、沈みいく夕日は少しだけ優しい。
 目を細めて、ククルはハッとした。手鞄を持ったまま、海に沈んでしまったのだった。慌てて、鞄の中を漁る。携帯電話を取りだし、恐る恐るロックを外す。すると、水滴のついた画面はいつも通りのデフォルト画面を示してきた。一切異変などありませんよ、と言ってるかのようだった。さすがは防水仕様だ。
 念のため、メールや電話帳を開いてみる。特におかしいところはないようで、ククルはホッとした。
 パスポートは、ユルのものと一緒にビニールのポーチに入れていたので無事だった。あとは、濡れても大したことのないものばかりなので、ククルは安堵のあまり地面に座りこみそうになってしまった。
「ククルちゃーん。ユルくん出たわよ」
 高良夫人の声が響いたので、ククルは「はあい」と返事をした。

 シャワーを浴びて、浴衣を身にまとうとククルはようやく人心地ついた。
(…………帰ってきたんだ)
 あっという間の大和滞在だったのに、数ヶ月ぐらいあそこにいた気がする。
 ククルは髪を乾かした後、二階に上がった。
 ユルの部屋の前で、「入っていい?」と尋ねると「勝手に入れ」と素っ気ない声が返ってきた。
「お邪魔します」
 一応断って襖を開く。ユルは窓の傍に座っていた。半端に濡れた髪が、肩にかかっている。
「どう? 体調」
「ああ……驚くほど、スッキリしてる」
「実はね、私も思い出したの」
 そこでククルはユルに、思い出したことをまくしたてた。
「お前が交渉して、浄化と治療の力を持った、か。道理で力が分離しているはずだ」
「そう。私、ユルが怪我しているわけじゃないから命薬をユルに刺さなかったでしょう? あれが、だめだったの。命薬は、刺さないと効力を発揮しないの。もし刺していたら、トウキョウでももう少し浄化できたと思う」
「ふうん。でも、お前は妖怪の妖気を吸って浄化できなかっただろ。どうして、さっきはオレのケガレを吸っても浄化できたんだ?」
「琉球の海でこそ、私の力が強くなるから。あそこであれだけの妖気は、浄化できない。あと多分、本当は命薬だけでもある程度トウキョウでも浄化はできるんだと思う。でも、ユルにはケガレが溜まりすぎていた。私はユルの怪我を治していたけど、浄化はしていなかったでしょう?」
「そうか。琉球でも、魔物退治をしていたから」
「うん。少しずつ、溜まっていたの。容量を大幅に上回って、ユルはああなってしまった」
 ククルはそこで、一息ついて頭を下げた。
「ごめんね」
「どうして、謝るんだ」
「だって、これが私の使命だったのに」
 ユルが大和に行って、魔物を狩る使命があるように。ククルには、彼を治癒して浄化する使命があった。それも自分から言い出したことだ。
「…………」
 ユルは黙り込んで、下を向いていた。彼もどう言っていいか、わからないのだろう。
「私、ユルを一人で戦わせたくなかったんだよ。でも」
 そのせいで、ユルは圧倒的に戦いにくくなってしまったのだ。
 必要としてほしい。自分ひとりで完結しないでほしい。
 そんなわがままで、力を分離させてしまった。
「……ごめん」
 もう一度謝ると、居心地が悪そうにユルはため息をついた。
「もういい。過ぎたことは、しょうがねえだろ」
「…………あの」
「悪いが、一人にしてくれ。少し眠りたい」
 そう言われては、ククルは黙って出ていくことしかできなかった。