ニライカナイの童達
第十六話 失踪 3
ユルは救急車で運ばれ、ククルと弓削も同行した。エルザには事務所に戻ってもらうことにした。
幸い、出血の割に頭の傷は大したことはなかったらしく、ユルは頭に包帯を巻かれて眠っていた。
病室は大部屋だったが、他に入院客がいないらしく、他のベッドは全部空っぽだった。
ずっと、ククルはユルの傍についていた。弓削は、飲み物を買いにいってくると言って離席した。
ユルの手を握って、ククルは「ごめんね」と呟く。
(あんなこと、言わなければよかった――)
後悔しても、もう遅いとはわかっていた。
「ククルちゃん。はい。君も何か飲んで。喉、渇いてるでしょ」
弓削が、ペットボトルのウーロン茶を渡してくれたので、有り難く受け取って、飲み始める。あんなに走ったのだ。喉が渇いていて、当たり前だった。
気がつけば、半分も飲み干してしまっていた。
弓削はククルの隣に座り、ペットボトルの緑茶を勢いよく飲んでいた。
しばらくユルの寝顔を見守っていると、病室の戸が開いた。
入ってきたのは、伽耶とエルザだった。
「雨見くん、どうだった?」
「怪我は心配ないそうです。ただ、ずっと眠っているのが心配で」
弓削は立ち上がり、伽耶に報告した。
「……ふうん。悪いわね……弓削くん、エルザ。ちょっと、出ていてくれる? ククルさんと話があるの」
伽耶の指示に、弓削とエルザはいぶかしみながらも、外に出ていった。
「さて、と。ククルさんなら、わかる? 今の雨見くんの状況」
伽耶は、さっきまで弓削が座っていた椅子に腰かけた。
「何でしょう……すごく、気配が薄くなってるように見えて……」
「ま、そんなところよ。今の状態は、生気が薄れている状態。生きる力と書いて、生気。エルザの話によれば、枷ではりつけにされていたそうね? その枷が力を押さえ、生気を吸った可能性もあるけど……鬼に生気を吸われていたのかもしれない。どちらにせよ、今の雨見くんは生気が枯渇しているの。この状態は、心配しなくても数日も経てば治るわ。でも、その間は眠りっぱなし」
「そうなんですか……」
「ええ。でも、手っ取り早く起こす方法もある。誰かの生気を分けてあげるのよ」
「私の生気をあげます! 私の責任だもの……」
ククルが主張すると、伽耶はわかっていたことだと言わんばかりに微笑んだ。
「そうね、あなたが一番いいわ。生気は、口移しで吹き込むのが手っ取り早いの」
「く、口移し……」
「嫌? 嫌なら、エルザに頼んでもいいけど」
「嫌じゃないですっ」
エルザがユルに口移しする光景を思い浮かべてしまい、ククルは勢いよく首を横に振った。
「あなたもシャーマンなら、やり方はなんとなくわかるでしょう? ……じゃあ、私も出ておくわ。見られていたら、やりにくいでしょうし」
「はい……。あの、所長さん。意識のないユルに口移しするのって、私が痴女になりませんか?」
「痴女? 何言ってるの、あなた。なるわけないでしょ。人工呼吸みたいなものよ」
伽耶は呆れたように笑って、手を振って行ってしまった。
戸が閉まったのを確認して、ククルは立ち上がってユルに顔を近づけた。
(……ごめんね!)
思い切って、意識のないユルの唇に唇を重ねる。そしてククルは、「生気」なるものを吹き込んだ。
どのぐらい、続けただろう。段々と、ユルの頬に赤みが差してきた。
ククルは疲れ切って、椅子に座った。
(こ、これが限界みたい……)
しばらく、動けそうになかった。
ククルがぼんやりしていると、ユルのまつげが震えた。
ゆっくりと目が開かれ、ククルは立ち上がる。
みんなを呼びにいかなくちゃ、と思ったところで後ろの戸が開く。
ユルが起き上がったのと、伽耶たちが入ってきたのは、ほぼ同時だった。
「雨見くん、気がついたのね」
伽耶がククルの隣に立ち、ユルを見下ろした。
「あなた、何をしたかわかってる?」
「…………」
「私の忠告を無視して、知性のある妖怪に接触を続け、挙げ句の果てに妖怪の町で捕らわれた。ククルさんも弓削くんもエルザも、危険にさらしたのよ。あなたを助けるためにね」
「…………申し訳ありません」
ユルが頭を下げると、伽耶は肩をすくめた。
「あなたが探していたものについて、ククルさんに聞いたわ。そんなものは存在しないから、諦めなさい。あとはククルさんと話し合いなさい。……もっとお説教したいところだけど、今日は疲れているでしょう。ククルさんと家に帰りなさい。車を呼んであげるわ」
「はい」
ユルは殊勝に頷いていた。
伽耶が呼んでくれたタクシーで、ククルとユルは帰宅した。
車中でユルはずっと黙り込んでおり、ククルも何を話しかけていいかわからなかった。
家にあがってすぐ、祥子が飛び出してくる。
『ユルくん! 無事だったのね! よかったわね、ククルちゃん……』
祥子は、ふたりの様子がおかしいことに気づいたらしい。
『事情はあとで聞くわ。向こうに行っておくわね』
気を利かせたのか、祥子はククルの部屋に行ってしまった。
ユルは力なく、居間のローテーブルの前に座り込んだ。
ククルは台所に行って、冷蔵庫からガラスポットを取り出し、二つのグラスにさんぴん茶を注いだ。
グラスを持っていき、ユルの前に置くと「悪い」と小さな声がした。
喉が渇いていたらしく、ユルはあっという間に飲み干してしまう。
これでは足りなさそうだと思ったククルはガラスポットを取りに戻り、ローテーブルの上にガラスポットを置いた。
ユルはガラスポットから、自分でさんぴん茶を注いでいた。
少し間を開けてから、ククルは話を切り出した。
「ユル、時戻りの方法を探していたんだね……」
「……そうだ」
「私のため、だよね」
「ああ」
「ごめん。私が、帰りたいなんて言ったから……」
とうとう、我慢していた涙が溢れてしまった。
「あの鬼と、何を話したの」
ククルが尋ねると、ユルは全てを話してくれた。
代償が命、と聞いたところでククルは凍りついた。
立ち上がって、ユルのすぐ傍に腰を下ろして胸を叩く。
「どうして、どうしてユルはそんなに自分を大事にしないの!? 前も、そうだった! ユルを一番粗末にしてるのは、ユル自身だよ!」
泣きながら、胸を叩き続ける。
ユルは抵抗しなかった。
「私は、帰れないって知ってる。覚悟して、ここに来た。たしかに、弱音で『帰りたい』って言ってしまったから……そのことを、ユルが気にしてたの、本当に申し訳ないと思ってる。でも」
ククルはしゃくりあげて、続けた。
「ユルを犠牲にしてまで帰りたいなんて、絶対に思ってないよ……。私は、ユルが大事だよ。ユルも、自分を大切にしてあげて」
膝立ちになって、ユルの頭を抱きしめる。
「…………………」
ユルは、何も言わなかった。
それ以上、何を言っていいかわからず、ククルは体を離して「私、自分の部屋で休む」と言って自分の分のお茶を飲み干し、自室に戻った。
『あら、ククルちゃん。ユルくんとの話、終わったの』
「うん……」
ククルはベッドに横になって、たかぶる気持ちを収めようと深呼吸した。
『一体、何が起こったのよ。あ、言いたくないならいいんだけど……』
「ううん。祥子さん、聞いて。話したら、私も落ち着くかも」
そしてククルは、自分たちが数百年前から来たことを打ち明けた。ククルの帰りたいという願いを叶えようとして、ユルがあの町に行ってしまったことも話した。
『……び、びっくりだわ。でも、あなたたちには霊力があるものね。私もこんな身だし、信じるわ。ユルくんの気持ちも、わからなくもないんだけど……どうして、ククルちゃんだけを?』
「ユルには、もう知己がほとんどいなかったの。大事な先生やお兄さんみたいなひとを亡くして、絶望してた。だから、ユルは前の時代に執着がなかったんだと思う。でも、私には兄様の婚約者だったトゥチ姉様とその兄のカジ兄様がいて、仲良しだった。親しいとは言えなかったけど、家族も存命だった」
『なるほどね。それでククルちゃんも、実際に帰りたいって言ってしまったのね。ユルくんは、この時代に連れてきた責任を感じていた、と』
「そうなの。もっとしっかり、誤解を解いておかなかった私も、悪いの。でも、まさか――ユルが、そこまでするとは思っていなくて」
ユルはこの時代できちんと、自分の世界を作っているのに。
それをいともたやすく、手放そうとしたのだ。……ククルのために。
『本当に、困ったわ。思い詰める性格なのね、きっと。ククルちゃん、今は気まずいかもしれないけど会話を絶やさないで。ユルくんは今回のことでわかったけど、どこか危なっかしいわ。彼をつなぎとめられるのは、きっとあなただけよ』
祥子の助言を受けて頷いたが、ククルは本当に自分が彼の楔になれるかどうか、わからなかった。
ククルは河東に連絡しそこねていたことを思い出し、河東に電話をかけた。
『はい! 雨見くん、どうなった?』
心配していたのか、河東は電話に出るなり早口で尋ねてきた。
「河東さん、ありがとう。無事に見つかったよ。お騒がせしました」
『ふーっ、よかったー。結局、どこにいたんだい?』
「ええと……終電間際に電車乗り過ごして、知らない町で迷子になってたんだって。携帯の電池が切れてたみたい」
適当な嘘をでっち上げると、河東は『お騒がせだなあ』と呆れて笑っていた。
『まあ、見つかってよかったよ。和田津さんもお疲れ様』
「うん、ありがとう。またね、河東さん」
電話を切り、ホッと一息をつく。
お腹が空いた、と思って携帯の時刻を見たらもう十二時を回っていた。
(朝早くに出て、あの町に入ったのも早い時間だったはずなのに)
意外に時間が経つのが早い。
(……というか、あの町は異界だったから時間の流れ方が違ったのかも)
そう考えると、納得できる気がした。
自室を出て台所に向かう。
料理を作る気力が湧いてこなかったので、いくつか買っておいたカップ麺を食べることにした。
(予備校休んじゃった……。午後から行く気力もないなあ)
生気をユルに注いだせいで、体も精神も疲れている。こんな状態で予備校に行っても集中できないだろうし今日は休みにしよう、と決めた。
ポットでお湯を沸かしているところに、ユルが出てきた。
「あ、ユル。ユルも、何か食べる? 私は、疲れたからカップ麺にしようと思うんだけど」
「いい。オレ、事務所に行ってくるから、外で何か食べる」
「え? 事務所に? 何で?」
「病院では消耗しすぎて何も言えなかったけど、ちゃんと報告しないといけないだろ。オレは、お前だけでなく弓削やエルザも巻き込んだし、所長にも迷惑かけたんだから」
ユルはまだ少し青い顔で、ため息をついていた。
「待って。それなら、私も行く」
「お前、予備校は」
「今日は休みにしたの。何と言われようと、ついていくからね!」
宣言して、ククルは途中でポットの電源を切った。