ニライカナイの童達

第二部

第十九話 自覚 2





 ククルが皿を洗い終えたところで、玄関で物音がして、ユルがリビングに入ってきた。
 手を拭きながら、ククルはリビングに顔を出す。
「ユル、どこに行ってたの?」
「……弓削と話があってな」
「ふうん。出ていくときは、言ってよ。心配するよ」
「わかったわかった。急に用事を思い出して、追いかけたんだ。お前に言付ける暇が、なかっただけ」
 ユルはおざなりな返事をして、座っていた。
「別に、いいけどさ。あ、ユル。シュークリーム食べよう! 今、紅茶淹れるねー」
 返事も聞かずに、ククルは台所に戻って、ポットの電源を入れた。
 背伸びをして、戸棚からティーバッグの入った箱を取り出す。
(何を話してたの? って聞いても、教えてくれないだろうな……)
 ユルは、そういう性格だ。
 諦めて、ククルは紅茶を淹れたカップを盆に載せ、盆を持ってリビングに向かった。
 ユルは机に頬杖をついて、無表情でテレビを眺めている。
「お待たせー。弓削さんも、シュークリーム食べていったらよかったのにね」
 弓削は買ってきた弁当とククルの作ったポトフを平らげると、すぐに帰ってしまったのだ。
 ククルがシュークリームの箱を開けると、四つのシュークリームが目に入った。
「二つは、明日のおやつかデザートにしようね」
 声をかけると、「ああ」という返事があった。
 ククルは紅茶をすすったあと、シュークリームをかじる。
「おおお、おいしいっ! ユルも食べなよ」
 促すと、ユルもようやくシュークリームに手を伸ばしていた。
 
 後片付けと風呂を終えたあと、ククルは机に向かって勉強していた。
 入試は二月。もう、追い込みに入っている。
 あくびをこらえて、シャーペンを握りしめる。
 私学なので、ククルが特に苦手な理数系の試験がないのは僥倖だった。
 時間内に過去問を解き終えたあと、赤ペンを持って答え合わせをする。
「あー、もう。やだ。まだ、こんなに間違えてる」
 ククルがわめくと、祥子が舞い降りてきた。
『ご苦労様、ククルちゃん。ちょっと休憩しなさいよ。煮詰まっちゃうわよ』
「はあい」
 ククルは椅子から降りて、ベッドに横たわった。
 緊張していたからか、肩や背中が強ばっていて痛い。
 肩をもみほぐしながら、ククルは祥子を仰ぐ。
「祥子さんは、受験大変だった?」
『それなりにね。でも私、勉強はまあまあ得意だったのよ。特に暗記がね。あと、歴史もののアニメとかゲームが好きだったから、大和史には異常に詳しかったわ』
「すごーい」
『ふふーん、いいでしょう! ……まあでも、手を抜くってことを知らないのも不幸なことよ。こうして、過労死して自縛霊になるなんてね』
 急にしんみりした話になったので、ククルは慌てた。
「祥子さん、元気出して。来世ではきっと、いいことあるよ」
『そうだといいわねー。できれば、イケメンがいっぱいいる異世界に生まれ変わりたいわ。異世界が無理なら、欧州……うふふ。ぐふふ。……っと、くだらないこと言ってる場合じゃないわね。ククルちゃん、ユルくん大丈夫なの? 今日も、元気なかったわよね』
「大丈夫とは言えないよ。原因が、わからないから……」
 霊力の削れ。
 一体、ユルに何が起きたというのか。
「もしかしたら、私が何か忘れているのかもしれない。浄化だけでなく、やらないといけない手順があったのかも――」
 呟いたところで、ベッドに置いていた電話が鳴った。
 慌ててククルは電話に出る。
「はい」
『ククルさん、私よ』
「所長さん」
『お昼ぶりね。雨見くんの様子はどう?』
「相変わらずです。どうかしたんですか?」
『いえ、あなたが冬休みに入ったら琉球に戻って、ナハに立ち寄るって言ってたじゃない? 宿を手配してあげようと思って』
「え……でも、大丈夫ですよ。故郷でお世話になっている、おじさんの親戚がナハにいるから、そこに泊めてもらおうと」
『他人の家なら、気を遣うでしょ。まあまあ、気にしないで。雨見くんに、また元気にうちで働いてもらいたいのよ。私からのプレゼントだと思って』
「……じゃあ、お願いします」
『了解。一緒の部屋でいいわよね?』
「えっ! そ、それはちょっと!」
『雨見くんは、具合が悪いでしょう? 一人部屋だと心配じゃない?』
 ククルの反応が面白かったのか、伽耶の声には笑いが滲んでいた。
「たしかに――。じゃあ、同じ部屋で」
『わかったわ。空港近くのホテル、手配しておくわね。それにしても、同じ家に住んでいるのに、今更同室に照れるもの?』
「そ、それは……ちょっと、違うというか。うち、正確に言えば三人暮らしだし」
『ああ、そういえば自縛霊がいるって言ってたわね。……ねえ、ククルさん」
「はい?」
『雨見くんの状態は――あまり、よくないわ。私が見る限りね。後悔しないようにして』
「それって、どういう意味ですか」
『私からは言えないわ。でも、覚えておいて。失ってから気づいても、遅いのよ。それだけ。じゃあ、手配したらメールを送るから』
 一方的に通話が切られ、ククルは呆然として携帯を見下ろした。
(失ってから、気づいても遅い……?)
 何のことだろう。
『ククルちゃん、ごめん。盗み聞きしちゃった。でも、私も所長さんと同じ意見よ』
 祥子が珍しく真剣な顔をして、ククルの隣に降りる。
「祥子さん?」
『ククルちゃん、ユルくんのこと好きなんでしょ? 好きって、家族とか友達としての好きじゃない。恋のことよ。気づいてないだけで、そうなんでしょう?』
 その言葉に、ククルは頭を殴られたような衝撃を受けた――。
『ぶっちゃけ、自然に気づくまで黙っていようと思っていたの。でも、ユルくんが具合悪そうだし、悠長にしている場合じゃないって思って。ククルちゃん? 聞いてる?』
「…………」
 ククルは何も答えられなかった。
 頭がじんと熱くて、熱が出てしまったみたいになっている。
「私が――ユルを――?」
『ククルちゃん、大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない……。私、もう寝る」
『えーっ!』
 まだ話したそうな祥子を置いて、ククルは洗面所に向かうべく部屋を出た。

 翌朝。
「……おい……おいってば!」
 朝食の席でユルに怒鳴られて、ククルはハッと我に返る。
「お前、大丈夫か?」
 トーストを片手に、ユルが眉をひそめている。
「大丈夫って、何が?」
「お前、コーヒーはブラック飲めないんじゃなかったのかよ」
 指摘されて、ククルは自分がブラックコーヒーをすすっていることに気づいて、慌てた。
「あわっ。牛乳入れるの忘れてた! にがーい!」
「……どっか、悪いんじゃねえのか」
 ユルは、明らかに呆れていた。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと、考えごとしてただけ。それより、ユル。学校行って大丈夫なの? 休んでもいいんじゃない?」
「いい。どうせ、もうすぐ冬休みだし。大学に行けないほど重症ってわけでも、ないし」
「体が、だるいんだっけ……」
「ああ。それと、天河を召喚すると、どっと疲れて振るうのも難しい。あとは、やけに眠いな」
 あくびを噛み殺して、ユルはトーストをかじっていた。
「無理しないでね。式神、忘れないでね」
「はいはい」
 おざなりな返事をして、ユルはさっさと朝食を平らげて、席を立った。
「お皿は、置いておいていいから。いってらっしゃい」
「ああ。悪いな」
 ユルが行ってしまったあとも、ククルは朝のニュース番組を見ながらトーストをちまちまかじり続けていた。
『ククルちゃん、ぼうっとしてる場合じゃないわよ。もうすぐ出発の時間でしょ』
「はっ。そ、そうだね」
 ククルは立ち上がり、皿やカップを重ねて台所に運び、急いで皿を洗う。
 皿を洗い終えたあと、小走りになったククルは壁に激突し、したたかに顔を打った。
『ククルちゃん! 大丈夫!?』
「いたあい……」
 手を当てると、鼻から血が流れていた。
「最悪!」
『動揺しすぎよお……。ああ、もうちょっと遠回しに言うべきだったかしら』
 祥子が嘆いているのを聞きながら、ククルはティッシュで流れ続ける血を拭った。

 なんとか出発前に鼻血は止まったが――その日は、散々だった。
 歩いていたら電柱にぶつかるし、授業には全く集中できないしで。
 とぼとぼと帰路を歩いていると、「危ない!」と叫ばれて腕を引かれた。
「赤信号ですよ!」
 焦ってククルの顔を覗きこんできたのは――カジの生まれ変わりと思しき青年、颯人だった。
「あ、琉球酒場の店員さん。……わ、ほんとだ」
 横断歩道を渡るところだったのだが、ククルはぼんやりしていて赤信号を見ておらず、颯人が止めてくれなかったらそのまま渡っていただろう。
「ありがとうございます!」
「いえいえ。偶然、通りがかってよかった。大丈夫ですか? ふらふらしてましたけど」
「だ、大丈夫です」
「なら、よかった。また、店に来てくださいね。ドリンクサービスしますよ」
 ちゃっかり宣伝して、颯人は手を振って行ってしまった。
(カジ兄様は、生まれ変わっても親切だなあ……。あ、じゃなかった。颯人さんね、颯人さん。切り替えないと)
 ククルの帰路にあの店があるので颯人が通りがかってもおかしくない話だが、偶然にしては運命的なものを感じてしまう。
(やっぱり前世の縁って、あるのかなあ……)

 無事に家に帰り、ククルは少し休憩したあと、台所に立って料理を作り始めようとしたが……。
 携帯がぴろりん、と鳴って、ポケットから取り出すと、ユルからライソが届いていた。
『今日は食べて帰る。先に食べておいてくれ』
 という素っ気ないライソに、作り始める前でよかった、と息をつく。
(サークルの集まりかな?)
 エルザさんもいるの? と尋ねかけて、どうしてそんなことが気になるのだろうと思って、手を止める。
 ――ククルちゃん、ユルくんのこと好きなんでしょ?
 祥子の言葉が脳裏に蘇って、顔が熱くなる。
(私、まさか嫉妬してるの?)
 ククルは首を振って、『わかった。気をつけてね』とだけ打ってライソを返した。
「うーん、ひとり分かあ。じゃあ、インスタントでいっか……」
 今日の調子で料理をすると危ないかもしれない。
 ククルは下の棚に入れておいたカップ麺を取り出した。
『あら、ククルちゃん。今日は、インスタントにするの?』
 祥子が、いつの間にか隣にいた。
「うん。今日、ユルは食べて帰るんだって。だから、ひとりだし……それならインスタントでいいかと思って」
『あら、そうなの。サークルで突発飲み会でもあるのかしらね』
「多分ね」
『具合悪いんでしょ? 大丈夫なのかしら』
「日常生活には問題ないって言ってたから、外食ぐらい平気だと思うよ」
『そうなの。霊力が削れてるって、言ってたっけ? 不思議な現象もあるものね』
「本当に……。祥子さん、幽霊目線から何か気づくことはない? ユルの症状について」
 ククルの質問に、祥子は戸惑ったようだった。
『私って、年季の入った幽霊じゃないし、自縛霊だから他の幽霊と交流もないし……。役に立てなくて、ごめんなさい』
「ううん、謝らないで。私が、多分――まだ何か忘れてるんだと思う」
 ポットに水を入れながら、ククルは遠き異界を思った。
 ニライカナイ。
 あそこで得た知識を、全て取り戻していないのではないか。
(私に、浄化や治癒以外にも役割があったとか……?)
『ククルちゃん、水が溢れてるわよ!』
 祥子の注意でハッとして、ククルは慌てて蛇口を止めた。

 自室で勉強していると、玄関のほうから物音が聞こえた。
 ユルが帰ってきたのだと思って、部屋から出てリビングに行こうとしたが――
「へー。結構広いところに住んでるのね、ナハト」
 なぜかエルザが入ってきた。ククルは慌てて部屋に戻って、扉を少し開いたまま聞き耳を立てる。
「一人暮らしにしちゃ、広すぎない?」
「いわくつき物件だから、安かったんだよ」
「ふーん」
「ところで、なんで勝手にひとの家に入ってるんだよ」
「あの鬼もリベンジを狙っているかもしれないし、とワタシは帰りが遅くなったナハトを送ってあげたのよ? 感謝の印に、家に入れるぐらい、しなさいよ」
「はいはい……」
 どうやら、エルザが送ってきてくれたらしい。
 戦闘力に欠ける今のユルを送ってくれたのは、ありがたい話ではあるが……。
(どうしよう。エルザさん、私とユルが一緒に住んでるって知らないし。ここで私を見つけたら、ものすごい剣幕で怒りそう)
 ククルは様子をうかがっていたが、その近くに祥子が飛んできた。
『ねえ、ククルちゃん。あれ、誰? ユルくんの彼女じゃないわよね?』
「エルザさんっていう、ユルの大学の……友達、かな。留学生交流会っていうサークルで一緒で、退魔事務所で仕事もしてる。今、ユルが戦えないから弓削さんと組んでるのは、エルザさんなの」
『へーっ。それで、ククルちゃんはどうして隠れてるの?』
「エルザさんは、ユルのことが好きなの。それで、私とユルが一緒に住んでることを知らない」
『あらまあ、なるほど。そりゃ、見つかったら修羅場ね』
 ククルと祥子が小さな声で話していると、エルザの不思議そうな声が響いた。
「なんか、話し声聞こえない? ねえ、ここって事故物件なのよね? 幽霊、いるの? ナハト、探検してもいい?」
「だめだ。茶ぐらい出してやるから、座ってろ」
 ユルがぴしゃりと言うと、エルザがつまらなさそうに「はあい」と返事をしていた。
「幽霊さーん。お話しましょうよ」
 探検しない代わりに、呼ぶことにしたらしい。
『あわわ、ククルちゃん。どうしよう』
「祥子さん、行ってあげて。浄霊とか、しないと思うし。祥子さんが気を逸らしてくれたら、私もユルも助かるの。ね、お願い」
『わ、わかったわ。話しにいってくる』
 祥子はククルの頼みに応じ、ふよふよとリビングに飛んでいった。
「あらやだ、本当に幽霊だわ。しかも、女」
『ど、どうもーっ。祥子です!』
 ふたりの会話を聞きながら、ククルはしばらく様子をうかがうことにした。