ニライカナイの童達
第二部
第二話 旅人
ククルは隣席の女生徒――比嘉薫《ひかかおる》と大分仲良くなっていた。
「あ、比嘉さん。これありがとうね」
全て授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始める中、ククルは鞄から袋を取り出した。中身は、薫から借りていた漫画本だった。
「いつも貸してもらってばかりで、ごめんねえ」
「ううん。話盛り上がれるし、いいの」
「今回貸してもらった漫画も、面白かったよー」
さっきの休み時間で、ようやく読み終わったのだった。隣席の薫がそわそわしている中、ククルは辞書を引きながら真剣に読んでいた。
「それ読み終わったなら、これどうぞ」
薫は鞄から袋を取り出し、ククルに渡してくれた。
「うん、ありがとう!」
「あのね、この漫画のヒーローは雨見くんに似てると思うの」
薫が、こっそりと小さい声で耳打ちして来る。
「……ユルに?」
「読んで、確かめてみて」
「うん!」
にぱっと笑ったククルの頭に、腕が置かれた。
「おい、帰るぞ」
ユルが顔を覗き込むようにして来る。
「はーい。じゃ、比嘉さん。また明日ね」
「またねー」
手を振り、ククルは立ち上がって鞄を持ち上げた。
外に出ると、まだまだ強い日差しが肌を刺すように照らす。
暑いねえ、と呟いてククルはユルを追う。
相変わらずユルは、ククルの歩調には合わせず、さっさと歩く。あまりに遅れると立ち止まって、待っていてくれるのだが。それなら最初から歩みを合わせた方が彼も楽なのでは、と思わずにいられない。
数百年前の琉球――そこで旅をしていた時よりも、ユルの足が速くなった気がする。それは彼が成長したからだろう。
(やっぱり足の長さ、かなあ)
ククルは自分の足を見下ろした。
ユルに比べ、ククルはあまり背が伸びなかった。
その内背が伸びるかと期待していたのだが、女子はもう成長期が終わっているはずだと下宿先の伊波のおじさんに笑われ、ククルは大層がっかりした。
(ユルは何で、あんなに伸びているんだろう)
ニライカナイから帰って来た後も、順調に背が伸びているようだ。羨ましいが、こればかりはどうにもならない。
(トゥチ姉様みたいに、すらっとした女性になりたかったのに)
トゥチは女性にしては背が高く、そのすらりとした体つきにククルは憧れたものだった。
ふと前を見ると、ユルが立ち止まってこちらを見ていた。
「ご、ごめん」
謝って、ククルは走る。
もうすぐで追いつく、というところでちょうど石につまづいて転びそうになってしまった。
がっ、とユルが片手で受け止めて起こしてくれる。
「足元見ろよ」
「……ごめん」
へへ、と照れくさくて笑ったところでユルは背を向けて歩き出してしまう。ククルは慌てて彼を追った。
ユルはふと、横を見て肩を緊張させた。
「ユル?」
「魔物《マジムン》だ」
彼の視線は、木陰に向けられていた。ククルもその存在を知覚する。だが魔物はこちらを襲うこともなく、姿を消してしまった。
「大丈夫だよ、ユル。私、こっちに襲い掛かって来るような、悪意ある魔物がいたらユルより早くわかるから」
それはククルの、神女(ノロ)としての才能だった。一応、祖母について訓練したからだ。
ユルには元々霊力がある。半神だから当然とも言える。だが、これほど敏感ではなかったはずだ。彼の刀――天河が彼に何らかの影響をもたらしているのだろうか。
「……安全だと、お前の霊力は反応しないってことか?」
「まあそうだね。見たり、近寄ったりしたらさすがにわかるけど。それより私は、悪意みたいなのを感知するよう訓練したから」
「ふうん」
ユルは肩の力を抜いて、歩き出した。ククルも、彼と並んで速足で歩く。
魔物が皆、人間を襲うわけではない。今も昔も、魔物は人間の近くで生活しているが全面戦争にならないのはそのせいだ。
そういえば、とユルがいきなり話題を変えた。
「お前、友達できたんだな」
「ん? ああ比嘉さんのことだよね。まんが借りてばっかりなんだけど……えへへ、仲良くなれてよかった」
美奈と綾香とはもう話さない仲になってしまったが、美奈に教えてもらった漫画のおかげで薫と話せるようになったので、彼女たちに感謝すべきかもしれない、とククルは考えていた。
(かふぃーの店も教えてくれたし)
またあの店に行きたいな、と思いながらもククルはユルの背中を見上げた。
「ユルは、まんが読まないの? この前買ったのあるし、今日借りたのもあるし、一緒に読む?」
ククルはすっかり“君の瞳に完敗”に夢中になっていて、続刊をちょっとずつ買い集めていた。薫が貸してくれると申し出てくれたこともあったが、あの漫画だけは手元に置いて何度でも読み返したいと思い、集めることにしたのだ。
「……お前には、オレが少女漫画読むように見えるのかよ」
ユルが不機嫌そうに振り返る。
「しょうじょまんが?」
「知らないのか?」
ユルは呆れてため息をついていた。
「漫画には色々、種類があるんだよ。お前が読んでるのは、少女漫画っていう女向けのやつだ」
「へー! 他に、どんなのがあるの?」
「……お前の友達に聞けよ。詳しいんだろ」
説明が面倒になったのか、ユルは答えてくれなかった。
夕食後、ククルは自室で漫画を広げた。
「大和語の勉強だもんね」
自分に言い訳をして、今日貸してもらった漫画の表紙をまじまじと見る。
黒髪の男性と、金髪の少女が表紙だった。
(不思議な服を着てるなあ)
ククルは首を傾げて、ページをめくる。
「ん、んん!?」
最初から片仮名の羅列ばかりで、世界観もよくわからない。辞書を引いても、いまいち掴めない。
これはだめだ、と判断しククルは漫画片手に部屋から出た。
ユルの部屋の扉を叩くと、しばらくして内から開く。
「どうした?」
「ユル、まんが読むの助けて。片仮名ばかりでわからないの」
ユルは面倒臭そうな表情を隠さなかったが、「入れよ」と促してくれた。
ユルがベッド前に座ったので、ククルもその隣に座る。
「何がわからないんだよ」
「最初からよくわからないんだよね。辞書引いてるんだけど。ほら、これとか」
ククルが指さした単語を見て、ユルは眉をひそめた。
「これは人名だな」
「え!」
道理でわからないはずだ。
「あと世界観もよくわからない。どこここ?」
「ちょっと貸してみろ」
ユルはククルの手から漫画を取り上げ、ぱらぱら読み始めた。
「……ま、いわゆるファンタジー世界ってやつだな」
「ふぁんたじい?」
「架空の世界ってことだよ。中世の西欧を元に、架空の世界を作り上げたと思えばいい」
「はあ。西欧かあ」
馴染みのない地域だったので、ぴんと来ないのも道理だろう。
「あ、そうだ。それに出て来る男性がユルに似てるよ、って比嘉さんが教えてくれたんだよ」
にこにこ笑って言うと、ユルは思い切り顔をしかめた。
「オレに? どこが」
「さ、さあ。私、まだ読んでないもの」
漫画の登場人物に似ている、と言われたなら喜びそうなものだが、ユルはちっとも嬉しそうではなかった。
「――とりあえず、西欧に似た世界が舞台ってことを念頭に置けばいい。あと、辞書に載ってない片仮名は人名だと思えば、大分わかるんじゃないか?」
「なるほど。ありがとう」
笑顔で礼を言うと、ユルは肩をすくめた。
その後ククルは部屋に戻り、ユルの教えを頭に置きながら漫画を読み進めた。
(ほうほう……なんとなく、わかって来た)
世界観には相変わらず馴染めないままだったが、話の運びが面白くて夢中になっていく。
ユルに似ている、と言われたヒーローはたしかに少し似ているように思えた。
(でも、ユルはこんなにきざなこと喋らないよねえ……)
三分の一ほど読んだところで急激な眠気を覚え、ククルは漫画本を置いた。
翌日、登校して席に着いたククルは早速隣席の比嘉薫に話しかけた。
「おはよう、比嘉さん」
「おはよう」
「昨日もまんが、ありがとうね。少し読んだよ。……でも、あのまんがに出て来る人ユルに似てなくない?」
「えー! 似てるってば。もっと読み進めてみて!」
ククルが問うと、薫は熱弁していた。
「そうかなあ……」
そもそもユルは、あんなに喋らない気がする。
「あんまり読んだことのない舞台だから、読むの時間かかるんだよね。返すの遅くなるかもしれないけど、ごめんね」
謝ると、薫はにっこり笑って首を振った。
「気にしないで。返すのいつでもいいからね。……ああ、そっか。和田津さんって、病気で学校にほとんど行けなかったんだよね。先生が言ってたよ。娯楽もほとんど経験できなかったって……」
「へ? う、うん」
そういう設定になっているのか、と感心しながら一応頷いておく。
伊波家が先生に言ってくれたのか、それともユルか――。
(ユルじゃないか。伊波のおじさんだよね)
違うだろうと見当をつけ、ククルは前の方に座っているユルの背中を眺めた。
「私でよければ、何でも聞いてね」
「比嘉さん……!」
ククルは薫の優しさに感動した。そして、聞こうと思っていたことを思い出す。
「そういえば、私……まんがの種類ってよくわからないんだよね」
「そうなの?」
「うん。よかったら教えて」
「いいよー。じゃ、今日一緒に本屋に行ってみる?」
「行く!」
ククルは即座に返事をした。
ククルは若干緊張しながら、薫と共に本屋に入った。ユルにはきちんと、先に帰っててほしいと言った。ユルは前回のような驚きは見せず、「ふうん」とだけ言っていた。
「和田津さん。ここが、少女漫画のコーナーだよ」
「こーなー……」
区画っていう意味だっけ、と考えながら薫の指さす一画を見やる。ククルにはお馴染みになった一画だ。
「それで、この反対側が少年漫画だよ。行こう」
「うん」
薫は丁寧に説明してくれた。
「具体的に、何が違うの?」
「大体、少年漫画は男子向けで少女漫画は女子向けなんだよ。でも、女の子でも少年漫画を読んだりする人は多いみたいだね。逆はあまり聞かないけど、いるはずだよ」
「なるほど。……で、ここは?」
ククルは周りを見渡す。この区画には馴染みがなかった。
「ここは青年漫画。大人向けの漫画だね」
「……ん?」
ククルは青年漫画が並んだ箇所の隣に、不思議な表紙が並んでいるのを見つけた。
「あれ? これ、どっちが女の人? どっちも胸ぺったんこだね」
手を取り合っている二人、という構図としてはありがちな表紙だ。
それを手に取ってみると、薫が慌てた。
「和田津さん! そ、そこは私も詳しくないジャンルだから……! 少女漫画コーナーに戻ろう!」
「ん? うん」
薫が必死だったので、ククルはその本を戻して薫を追って歩き出した。
その後、二人とも漫画本を買って本屋を後にした。
「比嘉さん。せっかくだから、あの店で一緒にかふぃー飲まない?」
思い切って誘ってみると、薫は嬉しそうに頷いてくれた。
(やった!)
二人並んで店に入ろうとしたところで、薫が「あ」と声を発した。
「どうしたの?」
「……あれ、雨見くんじゃない?」
見れば、商店街の道向こうからユルと男子数人が歩いて来ている。
「あれ。ユルも友達と遊ぶことにしたんだね」
何も言ってなかったから、ククルが言づけた後に決まった予定なのだろうか。
ああして同年代の男子に交じっていると、ユルは普通の少年に見えた。
「和田津さん、入ろう。それとも、雨見くんに挨拶していく?」
「う、ううん。ユルこっちに気付いてないみたいだし、入ろう」
なんとなく気まずくて、ククルは店内に入った。
そしてまた、注文口で立ち往生することになる。
(なんだっけ……この前飲んだやつ……)
来る度に覚えておこうと思うのに、すっかり忘れて店を出てしまうのが常だった。
「こ、これ! お願いします!」
メニュー表を適当に――氷のものに限るが――指さすのも、もはやお馴染みになってしまった。
「はーい。ストロベリーカフェラテウィズホワイトチップのフローズンですねー」
「は……はい」
戸惑いながらも会計を済ませ、商品を受け取って席に着く。薫も少し遅れて、ククルの正面に座った。
いただきます、と呟いてストローで名前の覚えられない飲み物を啜る。
「おいしい……。いちごの味だ」
来る度に違うものを頼んでしまうが、どれもおいしいので問題なかった。
「おいしそうだねー。私は抹茶フローズンにしたよ」
「それもおいしそうだね」
「一口飲む?」
「うん。私のも飲んで」
交換して、ククルは抹茶なんとかを啜った。
(ああ……やっぱり、いいなあこういうの)
今はもう喋ることもない、美奈と綾香と来た時もこうやって交換し合ったことを思い出す。
(ユルはいつも苦いかふぃーしか頼まないし。それくれ、なんて言わないし。まあ付き合ってくれるだけ、ありがたいけど)
「和田津さんは、この店よく来るの?」
薫に問われ、ククルは曖昧に頷いた。
「うーん、よく……ってほどじゃないかな。たまに」
「そう。雨見くんと?」
「うん。ほぼ、無理矢理連れて来てる感じだけど」
あはは、と笑ってククルは一口啜った。
「仲いいねえ」
「……う、うーん?」
果たしてユルと自分は仲良し、と言える関係なのだろうかと考えてしまう。固い絆があることはたしかだけれども――