ニライカナイの童達

第二部

第二話 旅人 3


 翌朝、顔を洗ってから食卓に向かったククルは、高良のおじさんおばさんがいないことに気付いた。
 座しているのは、ユルとおばあさんだけだ。
「……あれ、おじさんとおばさんは?」
「観光客が行方不明らしくて、島人総出で捜索中だ。オレたちも、朝食取ったら手伝いに行くか」
「――え」
 ククルの脳裏に、昨日会った女性が浮かんだ。
「まさか――」
 ククルは青ざめ、ユルに昨夜のことを話した。ユルも、顔色を失った。
「……お前。多分、その人だぞ」
「えっ」
「若い女性って言ってたからな。来い!」
 ユルが立ち上がり、駆け出す。ククルは嫌な想像を押し込めて、彼の後を追った。
 二人が浜辺に着いた時にはもう、島人がビニールシートに包まれた何かを囲んでいた。
「……ああ、ククルちゃんにユルくん」
 高良のおじさんが振り返り、こちらにやって来る。
「見ない方がいい」
 彼の表情だけで、わかってしまう。遺体が引き揚げられたのだろう。
「高良さん。こいつ、昨晩にその女性と会ったようなんだ」
「そうかい……。後で、警察に証言しに行ってもらわないといけないかもしれないね」
 ユルの説明を受け、高良のおじさんは眉をひそめた。
 ククルはじっと、青いビニールシートを見つめ続けた。
(どうして)
 今日来ると、約束してくれたのに。
 がくがくと、足が震える。そんなククルの肩を、ユルが叩く。
「しっかりしろよ。――オレたち、一旦戻ってます」
「ああ、その方がいいね。ククルちゃんの調子悪そうだし」
 高良のおじさんに言づけてから、ユルはククルの手首を掴んで歩き出した。導かれるがままに、ククルも歩く。
「何で、昨日の段階で言わなかったんだよ」
「……ごめん。でも、あの人もう行った後だったし。今日、言おうと思ってたの」
「まあ、オレに言ったからって何か変わったわけでもないだろうけどな……。お前の話では、話した後は考え直したようだったんだろ?」
「うん。今日、うちに来るって約束してくれたのに……」
 また考えが変わり、海に入ってしまったのだろうか。
 とにかく、ククルは止めたつもりだったが止められなかったということだろう。彼女の自殺を――。
 そう考えると、胃がきりきりと痛んだ。

 その後、信覚島の方から警察の増援が来たらしい。彼女の遺体は、信覚島に運ばれて行った。そして、警官の一人が高良家を訪れた。
 見せられた顔写真はまさに、昨日会った女性だった。
「……それで、約束した後に向こうの方に歩いて行ったんです。その後、この――ユルが私を迎えに来て」
「オレが来た時にはもう、彼女はもう見えませんでした」
 昨晩、彼女と会った浜辺でククルとユルは証言をした。二人の証言を聴き、警察官は深く頷いた。
「うーん。とにかく、君――和田津さんが最後の目撃者だね。悪いけど、信覚島の署まで来てもらえないか」
「はい」
「……オレも付いて行く」
 ユルが小さく主張すると、警官は快く頷いてくれた。

 帰りは、夕方になってしまった。連絡船に揺られながら、ククルは腹を抑える。ちょうど、空っぽの胃があるところを。
「お腹空いた……」
「お前、朝食も食べてないもんな」
「食べる気しなくて――」
 水は飲んだが、食べ物はまだ口にしていなかった。
 何も食べていないせいなのか、力が入らない。ずるずると、ククルは窓に頭をくっつける。
「――そんなに、応えたか」
「うん……。あのね、思い出したんだけど――昨日、私たちが帰るあたりで、魔物の気配がしたの。海からだったと思う……」
「何だと? ――なら、魔物のせいなのか?」
「わからない。でも、そうだと考えると……彼女がまた海に入った理由がわかるんだよね。心に闇を抱えた人は、魔物に付け込まれやすい。誘われやすいの」
「なるほどな……」
 ユルは考え込み、顎に手を当てた。
「おじさんたちに、この島で魔物が出たって噂がないか聞いてみようと思うの」
 ククルは呟き、窓の向こうに視線を向けた。
 夕方の海は、夕焼け色に染まっている。いつも通りの、琉球の美しい海。だけど、魔物が棲む恐ろしい海でもある。
 彼女の命を奪ったのは、海そのものなのか、それとも魔物なのか――。

 夕食時、ククルは高良家の人々に魔物の噂がないか聞いてみることにした。
「……実は最近、遭難事件が相次いでいるんだよ」
「えっ」
 高良の答えを聞いて声をあげ、ククルはユルと顔を見合わせた。
「この島だけでなく、ここの諸島全域でね。そりゃあ、今までも海難事故はあったよ。しかし春ぐらいから、ちょいと多くてね。なあ、おばあ」
 話をふられ、神女(ノロ)でもある老婆――ミエが頷く。
「そうだねえ。おそらく魔物だね。だけど海にいるんじゃ、こっちからは手が出せなくてね。一応、島の人には警告を出してたんだよ。夜はなるべく歩かないように、と。他の島の巫女(ユタ)も警告を出してるはずだよ。でも、観光客が言うこと聞くわけもないからねえ。被害者は観光客ばっかりだ。それもどうしてか、女ばかり」
「なるほど……」
 ククルは頷いて、ゴーヤの漬物を口に運んだ。
 春ぐらいから、というとちょうどククルとユルが信覚島に行ってしまった後だ。もちろん、何度かはこの島に戻って来てはいたが。
 信覚島での事故は耳にしていなかった。信覚島付近には、まだ出ていなかったということだろうか。
「私とユルで、魔物退治ができないか試してみます」
「しかし、ククル様。いつ出るかもどこに出るかもわからず、夜の海から引き込むような魔物ですよ。どうやって退治するというのです?」
 ミエは弱り切った表情だった。彼女もノロとして、頭を悩ませたのだろう。しかし、諸島一帯に現れるというのは広範囲すぎる。彼女や他のノロおよびユタにはどうにもできなかったのだろう。
「うーん……時間かかると思うけど、何とかやってみます」
 何かできるとしたら、古の力を保持している自分たちにしかできないだろう、とククルは確信していた。
(まあ……私の命薬は退治には使えないだろうけど)
 ユルの天河は、魔物を斬る。あの力が役に立つはずだ。
 今はまだよくても、被害がずっと続けば観光客が減ってしまい、島人の生活が脅かされてしまう。そんな事態を回避するためにも、この夏休みを利用して魔物退治をしようとククルは決めたのだった。

 とりあえず毎夜、浜辺に見回りに行こうと、ククルはユルと約束した。
 皆が寝静まった頃に二人は起き出し、浜辺に出た。
 空を見上げると、無数の星が瞬いていた。この島から見上げると、信覚島より星がよく見える。昔と同じぐらい、とはいかないが――それでも、かつての夜空を思い出すような星空だ。
 ククルは波打ち際にやって来て、ユルを振り返った。
「……いる、よね」
「そうだな」
 二人とも、勘づいていた。魔物が、近くにいると。
 まさか連続でこの浜に出るとは想定外だった。二人とも油断して、寝間着の浴衣姿で来てしまっていた。
 ユルは静かに「天河《ティンガーラ》」と呼んだ。瞬時に、彼の手に太刀が顕現する。
 強い風が吹き、木々が揺れる。
 海の向こうから、黒い何かがやって来た。
「お前は家に入ってろ!」
「……でも」
 ククルが逡巡している内に、魔物が浜辺に近付いてきた。
 ひたひたと黒い波が打ち寄せる。
 ククルは魔物の姿を凝視した。足が、すくむ。
 それは巨大なチョウチンアンコウ――のような、形の魔物だった。本物のアンコウではない。こんなに大きな魚は存在しないからだ。魔物の姿は、一軒家に匹敵するほど巨大だった。
 ククルは、ハッとした。
 魔物の体内で、光るものがある。あれは――
「この魔物、人間の魂《マブイ》を食べてる! お腹の中にいっぱい……」
 益々集中して行くと、マブイの形も見えて来た。
 昨日話した、あの女性もいる。
「……とにかく、退治するしかないか」
「うん。私、邪魔にならないようにするけど、家には帰らないよ。ユルに何か教えられるかもしれないから」
「わかった。――下がってろ」
 ユルは素直に頷いた。
(戦えないけど、私もユルを手伝うことができる。ユルは、私ほど魔物のことが見えてないみたいだし)
 ユルが刀を構えると、魔物が咆哮をあげた。ユルを頭から食おうと、口を開けて襲って来る。
 ユルは飛びずさり、刀を一閃した。しかし皮が厚いのか、ちっとも効いていないようだった。何度も、その応酬が続く。
 相手があまりにも巨大で、ユルは戦いにくそうだった。
(このままじゃ、こっちが不利だ)
 傷つけられないまま、ユルが消耗してしまう。以前ならククルの祈りの力で身体能力も上がったのだが。二人の力が分離した今、ユルは普通の人並の体力で戦わねばならない。
 魔物は緑の液体を吐き出し、ユルにかけた。
「……くそっ」
 避けたものの、腕に傷が走り赤い血が噴き出す。
「……命薬《ヌチグスイ》!」
 小刀を呼び出し、ユルの腕に当てる。たちまち、傷が癒えた。
「ユル。これじゃあ、きりがないね」
「どうすりゃいいんだ?」
「それは――」
 ククルが続けようとした時、急にユルに突き飛ばされ、砂浜に尻もちをついた。魔物が襲って来たからだ。
 ユルは刀を魔物の目に当てたが……固い何かで覆われているのか、弾かれてしまった。
(目なら普通、弱点になるのに)
 ククルは起き上がりながら、必死に魔物の体を見据えた。顕現したままの命薬を握りしめ、集中する。
(お願い、教えて)
 意識が澄んで、闇越しに何かが見えた。魔物の横腹に、何か凝《こご》ったものが付いている。
 魔物の本体――ないし弱点は、あれかと知覚する。
「ユル! 魔物の左のお腹にくっついているのが本体だよ!」
「……わかった!」
 ユルも認識したらしく、砂を蹴って海に飛び込んだ。
「気を付けて!」
 ククルは警告を発した。夜の海は魔物の領域だからだ。
 魔物が叫び声をあげた。海中で、ユルが斬ったのだろう。魔物が暴れ、波が起こる。
 浜辺に打ち上げられた波の中から、ユルが立ち上がった。
「惜しかったな。海中じゃ、刃が鈍る」
 呟き、ユルは血の混じった唾を吐き捨てた。
 魔物を浜辺に寄せるには……と考えて、ククルは閃いた。
「ユル! 私が囮になる!」
「ばっ、馬鹿!」
「その隙をついて、斬って!」
 ククルは魔物に近付き、ゆっくりと後ずさった。ユルは眉をひそめ、こちらを見守っている。
(今思ったら、ユルも近くにいるしユルを襲ってしまうんじゃ……)
 と、そこまで考えたところで思い出した。
 “行方不明者は女性ばかり”とミエが言っていたことを。
 ぞっとした瞬間、魔物はククルに向かって襲って来た。
 ユルは青ざめたが、冷静に魔物の横腹に飛びかかる。彼の刀が、横腹に付いた小さな雄と思しき物体を引き裂く。
 魔物は絶叫したが、速度を緩めることもなく大口を開けてククルに喰いつこうとする。
 尻もちをついてしまい、思わず目をつむった時、走って来たユルがククルの前に立った。
 彼は気合の声と共に、太刀で魔物の口内を突き刺した。どろどろした液体が魔物の喉の奥から滴る。
 魔物は絶叫し、のたうちまわる。それに呼応したように海が荒れ、波が魔物と二人を飲み込んだ。