ニライカナイの童達
第二部
第二十話 失恋
最近、祥子が暗い。
「どうしたの?」
とククルが聞いても、「ちょっとね」と言うだけだ。
料理を作り終えて配膳する前に、ククルはちらりとポケットから携帯を取り出して画面を見た。
(やっぱり、エルザさんからの返信、ないかあ……)
あれから三日経つ。
相当怒っているようだ。
(仕方ないよね。お邪魔しちゃったもん)
しかし、あのときに出ていかなかったらどうなったのだろうと考えると、胸が痛んだ。
(私、ほんっとーにユルのこと好きなのかなあ。恋なんてしたことないから、わかんない)
ククルは皿を持ち上げながら、考えた。
そもそも、周りに異性がほとんどいなかった。
(でも、たしかに……私、ティン兄様もカジ兄様も大好きだったけど、ユルに対する気持ちとは何か違う気がする。ふたりに対するのは、もっとこう家族愛的な……)
「おい」
いきなり近くでユルの声が響いて、危うくククルは皿を落とすところだったが、ユルが皿を左手で受け止めてくれた。
「何を、ボーッとしてるんだ?」
「え、あの、その、考えごと……。あはは、ごめん」
配膳を手伝おうと、来てくれたのだろう。
「エルザのことか?」
「……うん」
嘘ではなかった。そのことについても、悩んでいたのだから。
「まあ心配するな。そのうち、怒りも冷めるだろうよ」
ユルはそう言って、もうひとつおかずの皿を持って運んでいく。
ククルは炊飯器の蓋を開けて、茶碗にごはんを盛った。
二人分の茶碗や味噌汁の椀を盆に載せて、リビングに運んでローテーブルに並べていく。
相変わらず、テレビにはニュースが映っている。
いただきます、とふたりで手を合わせてから、夕食が始まった。
「お前、試験はどうなんだ?」
「うーん。模試だと、合格率七割だって……」
ユルに問われて、ククルはしょんぼりしながら報告する。
専願なら八割は超えてないと、と予備校の講師に昨日、言われたばかりだった。
「でも、頑張るよ。私の頑張り次第で、合格は不可能じゃないと思うし!」
「そうか。でも、高校の勉強も壊滅的だったお前にしちゃ、よく頑張ってるじゃねえか」
ふわりと、ユルが優しい微笑を浮かべる。
滅多に浮かべることのない、あの笑顔。
ぎゅっと、心が締めつけられるような気がした。
脳内に、少女漫画の主人公が独白するコマが浮かぶ。
――これが恋なのかしら。
あの主人公も、ヒーローの笑顔にときめいていたっけ。
――一度聞いてみなよ。自分のことをどう思ってるのか、って。
薫の言葉が、頭をめぐる。
「……あ、あのさ」
ククルは箸を置いて、切り出した。
「なんだよ」
ユルは、不審そうにこちらを見やる。
「ユルって、私のことどう思ってるの?」
震える声で、問いかける。
(……言っちゃった!)
真っ赤になっているであろう頬に手を当てて、ユルを見る。
彼は厳しい表情になっていた。
「どうって、どういうことだよ」
「その、あの……だから、私のことをどういう風に見てるのかなって? やっぱ、家族? それとも――」
恋人とか彼女とか。
言えなくて、ククルはうつむいた。
「なんとも思ってねえよ」
そんな冷たい台詞に、ククルの血が凍った。
「そっかあ……。うん、そうだよね」
ぼろぼろと涙が出てきて、ククルは顔を覆った。
「ごめん。私、ちょっと」
ククルは立ち上がり、自室に走った。
ユルは呼んでもくれなかった。
ベッドに突っ伏してひとしきり泣いたところで、傍に祥子がいることに気づいた。
『ククルちゃん』
「祥子さん。私、失恋しちゃった。自分の気持ちに気づいた途端に失恋って、鈍い私らしいよね」
『…………』
祥子は無言で、ククルの背をさすろうとしてくれた。
霊体なので実際はさすっていないが、少し背中が温かい気がした。
「なんとも、思ってないだって。せめて、家族ぐらいには思ってくれてると勘違いしてた。私とユルの距離って、実際はこんなに遠かったんだね」
『ひどいこと言うわよね。でも、厳しく言わないと――』
そこで祥子が言葉を止めたので、ククルは祥子を振り返った。
祥子は喉に手を当て、ため息をついていた。
薫に電話しようかと思ったが、そんな元気もなかった。
ようやく涙も止まったので、ククルは自室から出た。
リビングに行くと、電気はついていたが、テレビは消されていた。
ククルの分の夕食だけが、テーブルの上に残されている。
ユルは自分の食器は片付けてくれたのだろう。
ククルの夕食の上には、ラップが張られていた。ククルはラップを取って、すっかり冷えた夕食を口に詰め込む。
電子レンジで温める気力もなかった。
いきなりポケットで携帯が鳴ったので、ククルは携帯を取り出し、画面を見て驚いた。
エルザだ。
「は、はい」
なんでこんなときに、と思う気持ちがないでもなかったが、電話に出る。
『どうも。メッセージ、返してなくて悪いわね。どう返したらいいか、わからなかったから』
エルザが不満そうな声で、謝ってきた。
「う、ううん。私、お邪魔しちゃったから。こちらこそ……」
ごめんなさい、と言いかけたところで、エルザが声をかぶせてきた。
『ねえ、ククル』
「はい?」
『あなた今、ナハトと一緒に住んでるんじゃない? 最近、ナハトの調子が悪いから。そうでもないと、あんな遅い時間にいるとは思えなかったのよね』
ためらったが、エルザの勘違いを肯定することにした。
「……うん。実は、そうなの」
『やっぱりね。あと、それと――ナハトとあなたは好き合ってるの? 薄々そんな気がしてたんだけど、ワタシは諦めるのが嫌だった。だから、アタックしてるの。でも、もしあなたたちがそういう関係なら、もう馬鹿らしくなってきたのよね。ピエロみたいじゃない』
「実は、その……私はユルのこと、好きだったみたい」
『みたい?』
「最近、気づいたの。それで、ユルに私のことどう思ってるか聞いてみたの。そしたら、どうも思ってないってさ。だから、エルザさん。諦めなくていいよ。私とユルは、そういう関係じゃないの」
一気に言ってしまうと、エルザが沈黙した。
『なら、あなたは振られたってこと?』
「そういうことになるかな。あはは」
笑ってみせたが、エルザは笑わなかった。
『なんだか、素直に喜べないわね。ナハトがあなたを異常に大切にしてたのは、ワタシにはわかったわ。だから、ナハトもそうなのかもしれないと思っていた。ナハトの心は、どこにあるのかしらね』
「わからない……」
『ふうん。まあ、いいわ。なら、ワタシは諦めないわ。それでいいのね、ククル?』
「私に、どうこう言う資格はないし」
『それもそうね。あのときあなたが邪魔したのは、あなたはナハトが好きだと気づいたからなのね?』
多分、と答えるとエルザは
『それじゃあ、切るわ。おやすみ』
と言って通話を切ってしまった。
携帯をポケットにしまって、食事を再開する。
冷えているからか、全然おいしくない夕食だった。
その夜は勉強も手につかず、つい薫に電話してしまいそうになった。
(だめだ! 言ったら、薫ちゃんは自分を責めてしまうかもしれないし)
ベッドに突っ伏して、ククルは涙をこらえた。
ユルはいつも、距離が近づいたと思ったら離れていってしまう。
寄せては返す波のようだ。
(変なの。海神の末裔は、私のほうなのに)
少し、うたたねをしてしまったらしい。
夢には、ティンとユルが出てきた。
ティンはにこやかで、ユルは仏頂面で。とてもわかりやすい、ふたりの兄の対比。
ハッとして目を開ける。
壁時計を見ると、午前零時を過ぎていた。
「もうこんな時間……お風呂、入らなくちゃ」
時計を見ていると、戻してほしい、という気持ちが湧いてきた。
(カジ兄様とトゥチ姉様がいた、あの時代に)
涙がこぼれて、ククルは拳で拭った。
ふたりぼっちだと思っていた。でも、ふたりぼっちですらなかった。
ククルは、ひとりぼっちだ。
ふらりとベッドから降りて、ククルは廊下に出た。
風呂に入るつもりだったのに、なんとなく外に出てしまった。
(…………甘いものでも、買って帰ろうかな)
階段を下りきったところでそう考えて、近くのコンビニに足を向ける。
携帯も財布も、小さな鞄に入れて持ってきた。
ククルが歩いていると、酔っ払った男性の集団とすれ違った。私服だしまだ若そうだし、大学生の集団だろうか。
そのひとりと肩がぶつかり、ククルは後ろに転倒する。
「おいおい、何するんだよお!」
ぶつかった男が、ククルの髪をつかんで頭を持ち上げる。
悲鳴をあげると、男たちがはやしたてた。
みんな、酔っている。
こんなときに限って、通行人がいない。
ククルは手をひっかいたが、男の手はびくともしなかった。
鈍い音がして、手が離れてククルの髪が解放される。
男が、地面に倒れていた。
近くにユルが立っていて、拳を構えていた。
どうやら、ユルが殴って相手を昏倒させたらしい。
「て、てめえ! 何するんだよ!」
倒れた男に駆け寄った男が、ユルをねめつける。
「こいつの髪をつかんでただろ。あんたたちこそ、何してたんだよ」
ユルの気迫に気圧されたのか、男たちは「行こうぜ」と言って倒れた男を担いでいってしまった。
ゆっくりと、ユルが振り返る。
「今、何時かわかってんのか? ここは神の島じゃねえんだよ! 真夜中にふらふらうろつくな!」
怒鳴られて、ククルはへたりこんで静かに涙を流した。
「ごめん……なさい」
「ほら、帰るぞ」
手を差し出されたが、ククルはその手を取らずに立ち上がった。
「優しく、しないで」
「は?」
「ユルは、私のことなんとも思ってないんでしょ。勘違い、させないでよ!」
叫んだあと、ククルはハッとして口を片手で押さえる。
「ごめん……」
「いいから、帰るぞ」
ユルは先導するように、歩き始める。
ククルが外に出たのを、どうやって知ったのだろう。
玄関の扉を閉める音で気づいたのだろうか。
そんなことも聞けずに、ククルはユルの背中を追って歩き始めた。