ニライカナイの童達
第二部
第二十五話 切望 2
ある日、病室に入ると老婆が起きていた。
「ばあさん、今日は起きてるのかよ」
「何だい、その言い草」
老婆は豪快に笑った。
そういえば、彼女に見舞客が来ているのを見たことがないな、とふと思う。
するとユルの考えを見抜いたように、老婆はゆったりと笑った。
「ちょいと、長生きしすぎたみたいでね」
曖昧な言い回しだったが、なんとなくわかった。伴侶や子供は亡くなったのだろう。
「まあ、今日は眠くないから起きてるけど。ずずいっと、いつものは遠慮なくやりなよ」
「……あんたやっぱり、見てたのか」
「いやー、のぞき見したいわけじゃないんだけどねえ。あんたの想いが強すぎて、起きちまうことがあるのさ」
「想いが、強い?」
「そう。あんたがこの子に口づけている時、いつも聞こえるんだよ。愛《かな》しゃ――ってね」
虚を突かれ、ユルは老婆から目を逸らす。
「気になるなら、向こうを向いておいてやろ」
恩着せがましく言って、老婆は反対側を向いて寝転んでしまった。
ユルは戸惑いつつも、ククルの頬に手を添える。
(そんなに、感情が溢れてるのか……?)
さっさと済ませないと看護師が来るかもしれないので、老婆の存在が気になりながらもユルはククルに口づけた。唇を通して、生気を注ぐ。
胸に募る想いを、意識してしまう。
愛《かな》しゃ、とたしかに己の心は啼いていた。
かなしい、哀しい、愛《かな》しい。
切なくて痛いのに、どこか甘美なその気持ち。陶然として、ユルは目を閉じた。
ククルの携帯は、ユルが管理することにしていた。ククルの目覚めが、いつになるかわからないせいだ。重要なメールや電話には、ユルから返事しよう、と思っての措置だった。
ククルの荷物に、ユルへの手紙があり、それに『勝手な行動してごめんね。もしものことがあったときのために、手紙を残しておきます。私が考えての行動だから、もし私に何かあってもユルは自分を責めないでね。あと、大丈夫だと思うんだけど……もし私が死んじゃったら、私の友達――あんまりいないけど――に、知らせてください。携帯のパスワードは****です』と書いてあったのだ。
河東やエルザや弓削はユルの友人でもあるので、ククルの携帯からしか連絡できないのは比嘉薫ぐらいだった。
もちろん、過去のメールやライソ、着信履歴などは見ないように気を付けた。
あくまで向こうから連絡が来たらユルが応対する、という形だ。
三月に入ったある日、比嘉薫から『ククルちゃん! 私、春休みに八重山に帰るよ。ククルちゃんも八重山に帰ってくる? それとも、まだ大和? ククルちゃんが八重山にいるなら、都合がよければ会おうよ』というメールが届いたので、ユルは返信を打った。
(そうか、比嘉はナハにいるんだったな)
ククルが事故による怪我で入院し、意識不明だという旨を伝える。
すると、薫はお見舞いに行きたいが問題ないかと、メールで聞いてきた。
都合のいい時にいつでも来てほしい、と返信すると、『それじゃあ、明後日に行きます』というメールが来た。
そして今、昼下がりにやって来た薫は、眠るククルを見下ろし、涙をこらえていた。
「ククルちゃん……」
耐え切れなくなったのか、薫は鞄からハンドタオルを取り出し、目元に当てていた。
「雨見くん、ククルちゃんってどうして目覚めないの?」
「……わからない。体はもう、大丈夫らしいんだが」
「そうなの――。精神的なものなのかな」
「多分な。よかったら、呼びかけてやってくれ」
薫の声を聞けば、ククルも嬉しがるだろう。
頼むと、薫は「うん」と頷いた。
「ククルちゃん、また一緒に遊びに行こうね。漫画、また新しいの描いたんだよ。今度、読んでね。ククルちゃんの話、聞かせてね。トウキョウの話、聞きたいよ」
とりとめのない、まるで明日の約束をするような呼びかけ。だけど、それが涙まじりの声で言われるものだから、こちらまでもらい泣きしそうになってしまう。
薫は一通り言い終えたのか、口をつぐんでククルの肩をぽんぽんと叩いていた。
「ちょっと、ジュースでも買って来ようかな」
「喫茶スペースがある。案内する」
ユルは薫を、病院内のカフェに案内した。
なんとなしに二人用テーブルに座り、向き合う。薫は気恥ずかしそうに、ユルから目を逸らしてしまった。
「ちょ、私、男前と向き合うことに慣れてないので――ごめんっ」
「……」
どういう反応を示せばいいかわからなくて、ユルはため息をついてホットコーヒーのカップを口に付けた。
「もうちょっと早く知ってたらなあ……。来週、八重山に帰る予定にしちゃったから。それまでに、頻繁にお見舞いに来てもいい?」
「ああ。あいつも喜ぶだろ」
しばし、ふたりの間に沈黙が落ちた。
「……ねえ、雨見くん」
「何だ」
「ふたりって、付き合ってはいないんだよね?」
「それは、恋人関係かどうか、って質問か」
「そう」
「違うな」
素っ気なく答えて、ユルはコーヒーを口に含む。値段相応の薄いコーヒーだと思いつつ、もう一口飲む。
「でも、ふたりとも好き合ってるよ……ね?」
「……」
思わず、睨んでしまったらしい。薫は「ごめんなさい!」と身を縮めていた。
「……あのね、私はふたりが両想いだと思ったから、ククルちゃんに雨見くんにどう想ってるか聞いてみなよ、って言ったことあるの。もしかして、何か聞かれたりした?」
「ああ……。そのときは、なんとも思っていない――と返した」
「ひ、ひどい!」
薫は立ち上がりかけたが、すぐに萎縮していた。
「ごめん。ふたりの問題だよね。でも……違うよね? 雨見くん。どうして、そんな答えを?」
「あのときは、余裕がなかったんだよ。詳しいことは言えないが、オレはもうすぐ死ぬかもしれないと思っていた。そんな状態のときに、ククルとどうこうなるわけにはいかないだろ。オレは、ククルの未練になりたくなかった」
「そうなんだ……。その問題は、解消されたの?」
「一応な」
「そしたら、今度はちゃんと伝えてあげてね。あ、ごめん。これは私の希望に過ぎないんだけど。だから、あんまり見ないでください。男前は苦手なんです。はい」
妙な頼まれごとをしたので、ユルは敢えて薫から視線を外した。
薫を見送り、ユルは病室に戻った。もう、西日が差し込んでいる。
夕焼けの光がククルを照らし、茶色い髪が金色に見えた。
綺麗な色だ、と素直に思う。屈みこんで、その髪を撫でる。
相変わらず、ククルは静かに眠っている。嫌になるほど、頬が冷たい。
不安になって、その胸に耳を押し当てる。弱々しい鼓動が、微かに伝わる。
こんなに弱ったのは、ユルのせいだ。何もかも。
どうしてこうなったのか。ユルが何度突き放しても、ククルはいつもユルに追いつこうとする。
馬鹿なククル、と一人ごちる。
……もし、彼女が戻って来なかったら、自分はどうなるのだろう。果てのない絶望に呑まれ、今度こそ魔物《マジムン》になってしまうような気がした。
絶望を思い描いて心が暗くなったが、彼女の鼓動を聞いていると、不思議と落ち着いて来た。
大丈夫だよ、と声が聞こえるような……。あの、能天気な声が。
かえるからね、と聞こえたような気がしてユルは身を起こし、ククルの顔を覗き込んだ。
だけどククルは相変わらず、眠ったままだった。
痛い。とうとう倒れてしまって、両手両膝をついた。
傷が走って、血が噴き出す。
近くに、海神が浮かんでいた。
『愚かな娘よ。いいかげん、諦めるんだ。見ていられない。特別に、お前の転生先の希望を聞いてやる。だから、もう止めろ』
「……諦めない。私が死んだら、ユルをひとりにしてしまう」
『仕方がないことだろう』
「仕方がなく、ない! 私だけは、ユルを置いていったりしない。そう、誓ったの」
ゆらりと立ち上がると、膝から血が流れて水面に落ちる。
ふらふらしながら、歩き続ける。
痛い。楽になりたい。
でも、止まりたくない。
涙と血を流しながら、ククルは進み続けた。
ククルの傍に座りながら、少しうたたねをしてしまった。
ユルはふと、いつかの記憶を夢に見た。
かつての自分が、神々に告げる。
「オレが子供を作れない体にしてくれ。神の血が呼ぶ悲劇は、もうたくさんだ」
『いいだろう。そっちの娘はどうする』
空の神は頷いて、ククルに水を向けた。
「わ、私もお願いします。ニライカナイの子供たちは、私たちで最後にしたいから」
『よかろう。お前たちから、子供を為す能力と子供を産む能力を取り去ってやろう。後悔するなよ』
空の神が腕をかざす。
特に体に変化があったとはわからなかったが、ユルは安堵して息をついた。
「夜」
呼びかけられて、目を覚ます。
振り仰ぐと、弓削が立っていた。
「弓削? どうしてここに、いるんだ」
「お見舞いに来たんだよ。所長から、様子を見てきてと言われてね。どうだい、ククルちゃん」
「相変わらず、眠ったままだ。内側で戦っているのかもしれないけどな」
「そうか……」
弓削は、病室の隅に置いてあった椅子を取ってきて、ユルの隣に椅子を置いて座った。
「君も、疲れているんじゃないか。毎日、見舞いに来てるんだろう?」
「別に。見舞いぐらい、そんな負担じゃねえし。……もう、一ヶ月になるんだな。ククルが眠ってから」
「そうだね」
「段々と、ニライカナイの記憶を取り戻してきたんだ。やっぱり、ククルの使命は琉球の神の島で神々を祀ることだった。そのときは、オレもククルも深く考えていなかった。オレたちは昔の人間だ。こんなに外に出やすい世界になっているだなんて、想像もできなかった。ククルの使命は、酷だ。ククルは一生、琉球から長く離れていられない」
ユルが唇を噛みしめると、なだめるように弓削が肩に手を置いた。
「琉球以外には、住めないってことだね。旅行ぐらいはできるんだろう?」
「ああ。でも、長くて二週間ぐらいだろうな。それも一年に一回できるかできないか。そうしないと、均衡が崩れる」
ユルも大和で魔物を狩り続けなければならないので、縛られるのは縛られる。だが、毎年一定の数の魔物を屠ればいいのだから、ククルほど厳しい縛りではなかった。
「随分、条件が厳しいね」
「仕方がない。神々の干渉を止めさせるんだ。代償が必要だった。ただ、その代償が思ったより大きかった――特にククルにとっては」
「それに、ひるがえって言えば、君たちは一緒に暮らせないということだろう?」
「――ああ」
ユルは大和で魔物を狩る。ククルは琉球で祈る。
使命を果たす以上、ふたりは一緒にいられない運命だった。
「どうするんだい、夜。ククルちゃんが目覚めたら」
「……それは今、考えている」
正直に答えると、弓削は大きなため息をついていた。
弓削は用事があるからといって、日帰りでトウキョウに帰ってしまった。
居候させてもらっている新垣家に戻って、夕食のあと、あてがわれている部屋でぼんやりする。
ククルが、一向に目覚めない。
壁にかかった、カレンダーを見る。
無論、もうククルの試験の日は過ぎている。あんなに勉強していたのに、無駄になってしまったのだ。
そもそも、使命を考えればククルは大和の大学に通うことはできなかったのだが。
あのままククルが気づかず、大和での生活を続けていたら、どうなったのだろう。
ユルは、影に霊力を全て取られて死んでしまっていたかもしれない。
――ごめんね。
ククルは血まみれになりながらも、ユルに詫びていた。
自分のせいだと、思っていたのだろう。
いきなり電話が鳴って、ユルは慌てて携帯を取った。
「はい」
『ああ、ユルくん。元気かな』
高良だった。
『ククルちゃんの様子、どうかなと思ってね。あれから一ヶ月だろう?』
「相変わらず、目覚めません」
『そうかい……。本当に、気の毒なことだ』
高良には、魔物に襲われて怪我をしたと説明してあった。
さすがに、自分の影が襲ったとは言えなかった。
『居心地はどうだい? 新垣には、よく言ってあるけどね』
「新垣さんには、よくしてもらっています」
『それならよかった。もしククルちゃんに何か、少しでも動きがあったら、すぐに連絡してくれ。家内もミエさんも心配しているからね』
もちろんです、と言ってユルは通話を終える。
(少しでも動きがあったら――か)
悪くなっても良くなっても知らせてほしい、と伝えたかったのだろう。
(これ以上、悪くなることはあるのか?)
病室のユタは「帰ってこようとしている」と言っていた。だが、ククルが諦めてしまったら、肉体にも死がやってくるだろう。
ふと、足に走った痛みを思い出す。
ククルを抱えて、どこまでも続く浅瀬を歩いたことを、少しだけ思い出す。
「ああ……そうか。試練があったんだ」
とんでもない激痛だったはずだ。今、ククルはあの試練を受けているのかもしれない。
ククルが戻ってきても、受けるはずだった試験は終わっている。琉球に縛りつけられる。
それでも、戻ってきてくれと願わずにはいられない。
身勝手でわがままな願いだと、わかっていても。