ニライカナイの童達

第二部

第二十五話 切望 3





 また、派手に転んでしまった。
 今度は胸と腹にガラスが突き刺さり、呻いてククルは起き上がる。
 まだ、水平線が見えている。
 あんなに歩いたのに、まだ現世に戻れない。
 再び、海神が近くに降り立つ。
『もう、いいかげんになさい。次の世では、ティンも生まれ変われるだろう。近くに生まれ変わるように配慮してやる。どうだ、最大の譲歩だろう?』
「……魅力的なお誘いだけど、だめなの」
 海神は、ククルが諦めるのを待っている。
 ククルが諦めれば、契約は破棄されて神々は現世への干渉をまた始める。
 神の血を引く子供がまた生まれて、ユルやティンのように過酷な運命に巻き込まれるだろう。
(そんなこと、させない)
 そのために、ニライカナイに渡ったのだから。
 ククルは何度も、転びながら、激痛に泣きながら、足を止めなかった。
 時折、温かい力が流れ込んで痛みが薄らぐことがある。
 きっとユルが待ってくれているのだと思えば、なんとか頑張ることができた。



 三月もあと二週で終わる。ククルはまだ目覚めない。
 今日も見舞いに来て、椅子に座る。
 少し希望が持てるのは、ククルの首飾りにまた海の色が満ちていることだ。
 気がつけば、ユルの首飾りの宝石から海の色は消えていた。
(おそらく、霊力は完全に返せた)
 ふとククルの左腕にはまった腕輪を見て、それに触れる。
 クリスマスのとき、慌てて買ったのを覚えている。
 デパートのアクセサリー売り場で見つくろっていると、店員が声をかけてきたのだ。
『どのようなものをお探しですか?』
『何か……お守りに、なりそうなものを。……腕輪がいいんですけど』
 首飾りは付けているし、指輪だと重すぎるだろう。だから、腕輪にしようと思った。
 ユルの答えを聞いて、店員は『これなど、いかがでしょう。お守りにもなるんですよ。神聖な花と波をモチーフにした文様が刻まれています。波は、永遠の愛も示しています』
 波。海はククルの力の根源だ。
 南国にある異国の島の海は、ユルも写真で見たことがあった。どこか、琉球の海に似ていた。
 そうして、薦められるがままにそれを購入した。
 あのときはもう、自分に時間がないと思っていた。
 まさか、こうして病室に横たわり、死にかけているのがククルになるとは、想像もできなかった。
 ふと気づいた。今日は同室の老婆がいない。検査だろうか。
 今のうちに、とユルは立ち上がり、ククルに口づけて生気を注いだ。



 痛い。辛い。もう、止めたい。
 泣き言なら、いくらでも出てくる。
 ククルが倒れる度に、海神が近づいて諦めろと囁く。
 また倒れて、激痛にあえいでククルは手をついて起き上がった。
 もう、現世に戻れないのかもしれない――と涙を流したとき、ふわりと左腕に何かが巻きついた。
「これは……」
 ユルのくれた、腕輪だ。
 少し、痛みが引いている。今の間に、とククルは立ち上がって走る。
 まだ、水平線が見えていた。



 三月があと一週に迫ったとき、ユルはどうするか迷った。
 大学は休学するしかないだろう。とりあえず半年。それでもククルが目覚めなければ、一年。
(だが……オレにも使命がある。ずっと琉球にはいられない)
 高校生のときはまだ、使命を果たすまでに猶予があった。だから、ユルは琉球にいられた。
 ユルが使命を果たさなかったら、どうなるのだろう。
 しかし、そもそもククルが死んでしまったら使命は意味がなくなるのではないだろうか。
 嫌なことを考えてしまって、ユルは思わずため息をついた。
「ナハト。憂鬱そうね」
 近くにエルザが立っていて、ユルは思わず目をむく。
「何よ。ちゃんと昨日、明日琉球に行くからって連絡したでしょ。ねー、ハルキ」
「ははは……。夜がまだ琉球にいるっていうから焦れて、急に僕のお見舞いについてくるって言い出したんじゃないか」
「連絡しただけ、偉いでしょ。で、ククルはまだ目覚めないのね。この子、大丈夫なの?」
「あんまり、大丈夫じゃない。エルザも、こいつに力を貸してやってくれ。お前は元気の塊だから、手を握るだけでも、ククルに力を貸してやれるかも」
 ユルの言い分に眉をひそめつつも、エルザはククルの手を取った。
「早く、帰ってきなさいよ。ナハトにこんな顔させられるの、きっとあなただけよ」
 エルザの発言にぎょっとして、弓削を見やる。彼は苦笑していた。
「自分ではわからないだろうね」
 一体、どんな顔をしているというのか。
 気まずくて、ユルはエルザと弓削から目をそらした。
「帰ってきて、ちゃんとワタシに引っぱたかれなさいよ」
 エルザの不穏な台詞にユルは思わず眉をひそめたが、エルザはにっこり笑ってウィンクした。
「ワタシ、ククルと約束してたことがあるのよ。――さあて、元気は送り込んだつもりよ。ちょっと琉球観光してくるわ。ハルキ、案内頼むわよ」
「はいはい……。じゃあね、ククルちゃん。僕からも、気を送っておくから。君の――お兄さんの魂もきっと、君を励ましているよ」
 弓削はククルの左手をつかんで、ククルに囁いていた。
「さっ、行くわよ。ハルキ。ワタシ、お城を見たいわ」
「わかったわかった。それじゃあね、ユル。何かあったら、いつでも連絡してくれ」
「アウフ・ヴィーダーゼーエン(さようなら)、ナハトにククル。ワタシ、観光してから帰るわ!」
 エルザと弓削は、賑やかに出ていった。
 ため息をついてククルに向き直ったとき、少しククルが笑っているように見えた。



 エルザと弓削の声が聞こえた気がした。
 足の痛みが、また少しマシになる。
 ククルは、ふらつきながら歩いていく。海底のガラスは相変わらず、ククルの足の裏を引き裂き続ける。
 痛みに慣れる、ということがない。
 ククルは、前方を見て口を両手で覆った。
 遠くに、海岸が見える。
(現世だ……)
 ふと、左手を意識する。手が、温かい。
(ずっと、握っててくれたんだね。頑張れって、祈ってくれていたんだね)
 ククルは走り出した。痛さに涙が出る。
 ようやく、足が砂浜に触れて、光が溢れた。

 ククルが目を開けると、うつむいているユルが見えた。
 眠っているのだろうか。
「ユル……」
 声を出すと、ひどくかすれていた。
 ユルが顔を上げて、こちらを見る。
「ククル! 目が覚めたのか!」
 ユルはククルを抱き起こし、抱きしめた。
「苦しいよ……」
 まだ、うまく喋れない。
 背中を叩いても、ユルは返事をしない。
「ごめんね……。待っててくれて、ありがとう」
 礼を言うと、ますます固く抱きしめられた。

 ようやくククルを解放したあと、ユルは医師を呼びにいった。
 それから色々な検査をされて、面会時間が終わってしまった。
「また明日、来るから。何か欲しいもん、あるか?」
 ユルに問われて、ククルは「アイス」と答えた。
 なぜだかすごく、アイスクリームが食べたくて仕方がなかった。
「わかった。色々話もあるが、明日な」
 意外にけろっとした顔で、ユルは病室を出ていってしまう。
 暮れゆく太陽を眺めながら、ククルは「帰ってきたんだ」と実感して呟く。
 もちろん、もう足の裏はもう痛くなかった。

 翌朝、目を覚ましたあと、運ばれてきた朝食を取った。
 なんだか物足りない気分になったので、ククルは枕元にあるセーフティボックスの鍵を開けて、財布を取り出した。
 昨日、ユルが「ここにお前の財布、入れてるから」と暗証番号と一緒に教えてくれたのだ。
 ククルの財布のなかは、持ち出したときのままの状態だった。
 パスポートは、ユルが持っていてくれているのだろう。
 ククルは財布を持って、いびきをかいている老婆の前を通り抜けて、病室から出た。

 院内カフェは、朝早くにもかかわらず、そこそこ混んでいた。
(ええと、コーヒー、コーヒー)
 ククルは自販機でカップのコーヒーを買った。もちろん、ミルクも砂糖もたっぷり入れる。
 甘いコーヒーを持ってカフェを出たところで、ふたりの看護師とすれ違う。
「あっ、あの子よね?」
「そうそう!」
 ふたりはククルをちらりと見て、角を曲がっていってしまった。
(あの子? 私、何かしたのかな?)
 心配になって、ククルは彼女たちを追う。
 ちょうど、ふたりは角を曲がったところで立ち話に興じていた。
 ククルは壁に身を隠して、様子をうかがう。
「王子様のキスで目覚めた、って評判の子なんでしょ? 一体、どういうこと? 私、この前まで違う病棟にいたから……」
「あの子を毎日のように見舞っていた男の子が、眠るあの子にキスしているところを見た看護師がいるのよ!」
 それを聞いて、危うくカップを落としそうになる。
(お、王子様ってユルのこと? なんで王族って知ってるの? あれ? でも、ユルって本当の王子じゃないし……)
 と思ったところで気づく。
 王子様とは、おそらく比喩だと。
 たしか、外国の童話で王子様のキスで目覚める話があったはずだ。
(毎日お見舞いに、ってことは……ユルのことだよね。どうして、そんなことを――。あ、もしかして)
 たまに、痛みが和らぐときがあった。
 あのとき、きっとユルが生気を注いでくれていたのだろう。
 合点がいってホッとしたが、頬は熱くなっていた。



 ユルはククルの所望したアイスを持って見舞いに訪れた。
 ククルは起き上がって、窓の外を眺めていた。
 起きているところを見ると、安堵が溢れる。
「……あ、ユル。おはよう」
「よう。調子どうだ」
「もう元気だよー。早く退院したいな。あ、何のアイス買ってきてくれたの?」
「お前の好きな、チョコなんとか」
「ちょこみんと!?」
 ククルは、ぱっと顔を輝かせた。
「今、食べるか?」
「うん、食べる!」
 ククルがそう言ったので、冷蔵庫には入れずに、そのまま渡してやることにした。
 若干溶けかけたチョコミントアイスを、ククルは嬉しそうに食べ始める。
「おいしいー。ユル、ありがとね」
 食べ続ける彼女に目を細めつつ、ユルは椅子に腰かけた。
「それで……私、記憶を取り戻したよ。ごめんね、ユル。私が使命を果たしていなかったから、均衡が崩れていたんだね」
「ああ――オレも、思い出した。だが、もう謝るな。あの影が生まれたのは、オレが憎しみや恨みを現世まで持ってきたせいだ。この話は、もう止めよう。謝り合うのも、不毛だろ」
 ユルの意見に、ククルは賛同して頷いていた。
「カレンダー見て、驚いちゃった。もう、三月なんだね」
「ああ」
「試験、もちろん終わっちゃったよね……」
 ククルの目は、涙で潤んでいた。
「そうだな。……どう声をかけていいか、わからない。悪い」
 ずっと努力してきたのに、試験を受けられなかった。さぞ辛いだろう。そして使命がある以上、もし試験に通っていても、ククルは大和の大学には通えなかった。
「お前、ナハの大学にしたらどうだ? 琉球から出なきゃいいんだろ?」
「ううん、いいの。私ね……昨日、起きたあと、考えてたの。私がどうして、大和の大学に通いたかったか……。もちろんね、勉強したいって思いもあった。でも、それより――ユルと離れたくないって気持ちが強かったみたいなの。不純な動機だよね」
 ククルは笑ったが、ユルは笑えなかった。
「私の選択は間違いだった。でも、短い間だったけど楽しかったよ。もう、悔いはないよ。ちゃんと神の島に帰って、神女《ノロ》として神々を祀るから」
「ああ……」
 沈黙が下りる。しばらくふたりは黙り込んでいたが、ククルが意を決したように口を開いた。
「あのね、ユル」
「何だ?」
「その……私に生気を注いでくれたり、した?」
 ククルにおずおずと問われ、ユルは思わず同室の老婆を振り返った。
 寝息といびきが聞こえてくる。眠っているようだ。
「そのおばあさんに聞いたわけじゃないよ。看護師さんが、噂してたの。王子様がどうとか?」
「王子?」
 何の話だろう。たしかに一度、看護師に見られてしまったが。
「仕方ねえだろ。所長に聞いたんだよ。お前が戻ってこられるよう、生気を注いでやれって。それで――そのやり方が口移しだったんだよ。あと、霊力を返すためにも」
 気まずくて、早口で説明してしまう。
 ククルは、「うん、仕方ないよねー」と目を泳がせ、更に質問をしてくる。
「……あのさ、口移し……何回、したの?」
 そんなことを真っ赤な顔で聞かれたら、嫌でも嗜虐心を刺激されてしまう。
「数えきれないぐらい」
「ええっ!?」
「冗談だ。一日一回ぐらいだな」
「あ、そ、そうなんだ……。ふーん。え、でも毎日ってことだよね、それ……」
 数えてしまったらしい。ククルは先ほどよりも赤くなって、熱を冷やしたいかのようにアイスを一気食いしていた。
 その様子に目をすがめていると、ククルがきっと睨んで来た。
「……な、何でそんなにやにやしてるのっ!」
「別に」
 うそぶいてみせると、ククルは「もう!」と怒っていた。
 ふと、甘い空気が漂っているのに気づく。ここで言ってもいいのだが……
(やっぱり、あの空の下で、海の前で、言おう)
 ククルとユルの出逢った島、兄妹神として眠り続けていた、あの島で。
 大概オレもこだわるな、と思いながらユルは微笑んだ。
 視界の端で、いつの間にか起きていた老婆が笑うのが見えた。