ニライカナイの童達

第二部

第四話 幽霊 2


 翌日も、その翌日もユルは電話してくれた。三日目ともなると、ククルの熱も大分下がっていた。
「今日はキョウトだよね。どうだった?」
『さすが古い都だけあって、魑魅魍魎がうようよしてた。……幸い、襲って来なかったけどな』
 うんざりした声音だった。
『そうだ、明日は電話できないかもしれない』
「え、どうして」
 問いかけて、ククルは栞に書いてあったことを思い出した。
 四日目の夜には、生徒で集まって何やらイベントを開くのだったか……。告白大会とか、誰が参加するんだろうという代物も予定に入れられていたが……。
『多分、終わるの遅くなるからな』
「……そっか。うん、いいよ。明後日には帰って来るもんね」
『ああ』
 その時、電話口の向こうから「雨見、もう部屋に入ってろよー」と教師の声が聞こえて来た。
『もう切らないと。……またな』
「うん。おやすみ」
 電話を切って、ククルはため息をつく。
(いいなあ、楽しそうで)
 クラスのみんなは行き飽きた大和だから、そんなに嬉しくなさそうだったが……
(いつか一緒に行けたらいいなあ……)
 大和はどんなところだろう。テレビで見たり、本で読んだりはしたが……きっと行けば、もっと違う感想が出てくるのだろう。
 ククルの生まれた時代では、行くことすら浮かばなかった外国。そこに思いを馳せ、目を閉じた。

 翌日は予告通り、ユルからの電話はなかった。
(まあいっか。明日帰って来るもんね)
 そして、ようやくユルの帰って来る日になったが――
 まだ風邪の治りきらないククルは、昼頃から眠ってしまっていた。
「……はっ」
 壁時計を見上げる。時刻はもう午後五時。三時には帰る予定だったのだから、ユルは既に帰っているはずだ。
 ククルは慌ててベッドから飛び降りて、廊下に出た。
 すると、ちょうど通りがかった伊波夫人がククルを認めて足を止める。
「あら、ククルちゃん。起きたのね」
「は、はい。もうユル帰ってますか?」
「……ええ。実は、帰って来るなり寝込んじゃったのよ。今、様子見ようと来たところ」
「ええっ!?」
 ククルは仰天してしまった。
「私の風邪が移ったのかな」
「それにしちゃ、時間差があるけどね……。ククルちゃんも、入る?」
「はい!」
 伊波夫人に続いて、ユルの部屋に入る。
 ユルはベッドで、眠っていた。表情が苦しそうだ。
 二人の気配で起きてしまったのか、ユルが目を開ける。
「ユルくん、大丈夫? 薬、効いてないわね。とにかくお水を――」
 伊波夫人が話しかける傍らで、ククルはユルの近くを凝視していた。
 彼の近くに、長い髪の女性が浮いていた。簡素な着物を着ているが、琉球の着物ではない。大和のものだろう。
(死魂《シニマブイ》!)
 どうやら、ユルは大和から死霊を連れて帰ってきてしまったようだ――。

 伊波夫人が行ってしまった後も、ククルはユルに付き添うことにした。
 ユルは相変わらず苦しそうに、目を閉じている。
「ユル、ごめん。起きて。大切なこと言わないと」
 呼びかけると、ユルは怠そうに目を開けた。
「ユル、幽霊に取り憑かれてるよ。だから、高熱が出てるんだ」
「……祟られてるって、ことか」
「そう。大和で何かあった? お墓に行ったとか……?」
「いや、墓には行ってない。心当たり、ないんだ」
「そう……。いつから、体調崩れたの?」
「今日の朝からだな……。段々ひどくなって来たんだ」
 ユルは口元を手で抑え、咳き込んだ。
「うーん」
 ククルが考え込んでいる内に、ユルはまた眠ってしまった。
 ユルに心当たりがないとなると――
 ククルは、強い視線で幽霊を見上げた。私には見えているよ、と伝えるためにも強く見据える。
「あなた、誰? どうしてユルを祟るの?」
 幽霊はククルに見えていることが嬉しいのか、うっすらと微笑んだ。
『彼は、私の愛しい人に似ている。祟りたかったわけじゃない。付いて来ただけよ』
「……止めて。ユルを、放して。じゃないと、祓うよ」
『やってみたら?』
 ククルは挑戦を受け、祝詞を唱え始めた。幽霊を祓う、ノロやユタの使う祝詞。今まで幽霊や魔物を退治するには兄妹神の力を振るったので、こうした祓い方は習ったとはいえ、実践するのは初めてだ。
 しかし、彼女は微動だにしなかった。
「……どうして」
 ククルは呆然として、笑う幽霊を見た。

 それから何度試しても、だめだった。
 ユルが起きた時に天河《ティンガーラ》を呼び出してもらおうとしたが、ユルの手に天河は現れなかった。ユルが消耗しているせいなのか、取り憑かれているせいなのかは不明だが、とにかく今回はあの霊剣に頼れない。
 夕食後もユルに付いていたが、幽霊はそこに現れ続けている。
(つ、疲れた……)
 霊力《セヂ》を使いすぎたようだ。ククルの病み上がりの体は、疲れ切っていた。
 どうして祓えないのかはわからないが、とにかくこの幽霊とユルを二人きりにしてはいけない。
 ククルは夜通しユルに付いておくことにした。
 床に布団を敷いて、目を閉じる。
 ユルの苦しそうな呼吸を耳にして、胸が苦しくなる。思わず、目を開けて幽霊を睨んでしまう。
 明日、高良ミエに連絡しようと心に決めた。呼んで来て、一緒に祓ってもらおうと。
 幽霊はククルの怒りも知ったことじゃない、とばかりにユルの周りをふよふよと飛んでいる。
 青白すぎる顔色を除けば、悔しいぐらいの美人だった。
(ひょっとして、誘惑されたとか……?)
 そう考えかけて、首をひねる。
(でもそれなら、覚えてないと変だよね)
 ふとククルは、幽霊が不審な動きをしていることに気付く。
『ああ、やっぱり触れないわ……。あ、そうだ。そこにちょうどいいのがいたわ』
 呟き、幽霊はこちらにやって来た。
 呆然としている隙を突かれ、ククルの中に幽霊が入って来た。
 混乱しているククルの意識を押しのけ、幽霊がククルの体を操る。
 ククルは――正確に言えば幽霊に乗っ取られたククルだ――、立ち上がり、ベッドの上に上がった。
 ユルの顔の横に手を付いて、彼に跨るような姿勢になる。
(ちょっと! 何してるの!)
『これで、触れるわ』
 ククルの手が、ユルの頬に触れる。その感触で起きたのか、暗がりの中でユルの目が開く。熱のせいで、その目は若干潤んでいた。
(ま、まずい)
「――どうした?」
 掠れた声で問われたが、ククルは答えずにその手を、浴衣のはだけた胸元に伸ばした。指が、滑らかな肌を、滑る。
 ユルは不審そうに眉をひそめた。
「……い、いい加減にして――!」
 ここでようやく、ククルの意識が幽霊を押しやった。霊力《セヂ》を解き放ち、幽霊を体から追い出す。
「ごめんねユル! 今の幽霊に乗っ取られてて! 私の意志じゃないからね!」
 まくしたて、ベッドから転げ落ちる。なるべく距離を取ろうと後ずさると、壁に後頭部を思い切りぶつけてしまった。
「いったあ……」
 痛みで、涙目になる。ユルは起き上がって、ククルを見ていた。
「今の、私じゃない! 私じゃないから!」
「……」
 ユルはわかっているのかわかっていないのか、乱れた襟を直してからまた寝転んでしまった。
(痴女だと思われたら、どうしよう……)
 しくしく、と泣きかけて……ククルは近くに幽霊がいないことに気付いた。
(あれ。祓えた?)
 喜びかけたが、ユルの体調はましになっていない。さっきの行動でククルの霊力を直に浴び、弱ったのでどこかに行ってしまった――というところだろう。まだ、ユルに取り憑いているはずだ。
 しかし、幽霊が近くにいないだけでも少しはましになるだろう。部屋の空気が、明らかに変わっている。
 ホッと息をつき、ククルはユルのベッドに近付く。半端にかぶられた布団をかけ直して、体を包んでやった。
「ちょっとはましなはずだから、ゆっくり眠ってね。明日にはちゃんと祓うから、我慢してね」
 ユルがしてくれたように、彼の頭を軽く叩いてから、ククルは床に敷いた布団の元に戻った。

 翌日は土曜日だった。
 ククルは早速朝早くに、高良家に電話してノロのミエに来てもらう約束を取り付けた。
 そわそわしながら、ククルはユルにずっと付き添っていた。幽霊もまた、現れている。
 インターホンの音が鳴り、ククルは飛び跳ねるようにして立ち上がった。
 階下に下りると、既に伊波夫人が応対しているところだった。予想した通り、高良ミエが玄関に立っている。
「おやおや、ククル様。どうも」
「ミエさん、来てもらってすみません」
「いえいえ。上がらせてもらいますよ」
 戸惑う伊波夫人の横を通り、ミエはククルに歩み寄る。
「して、状態は?」
「うーん。とにかく、見てもらった方が」
 ひそひそと話しながら、ククルとミエは二階に上がった。
 ユルの部屋に入るなり、ミエは顔をしかめる。
「こりゃあ……しっかり、憑かれとりますね」
「……何度も祝詞を唱えたんですけど、だめなんです。何かやり方が悪いのかも……」
「それじゃ、私が一旦やってみますね」
 そうしてミエは、ククルのように祝詞を唱えたり、札を使ったりして、何度も幽霊を祓おうとした。
 しかし、幽霊は大した動じた様子もなく、ユルの傍に存在し続けた。
「――ククル様、ちょっといいですか。一旦部屋から出ましょう」
「え? う、うん」
 二人は部屋から出て、廊下で向き合った。
「あれは多分、本体が別にあるんでしょうね」
「本体?」
「ええ。ユル様に取り憑いたきっかけがあると思うのですが……おそらく、何か物に憑いていたんじゃないでしょうか。それを、ユル様が手に入れてしまった」
「……なるほど」
 ククルは納得して、頷いた。さすが、経験豊富なノロなだけはある。彼女を呼んでよかったと、心の底から思う。
 ククルは霊力は十分でも、あまりノロとしての務めはしていなかったので、経験が足りないのだ。こういうところで差が出るのか、と感心する。
「ユルに聞いて来ます」
 ククルはユルの部屋に戻り、ベッドの傍に膝をついた。思い切って、ユルを揺さぶる。
「ユル、ごめん。起きて。聞きたいことがあるの」
「……何だよ」
 ユルは、渋々といった様子で目を開いた。
「ユル、大和で幽霊が憑いてそうなもの買った? 多分、それに幽霊が憑いてたんじゃないかと……」
「……何、か……」
 ユルはふと、思い至った様子だった。
「一昨日、キョウトで……お前の土産にと――簪《かんざし》を買ったな」
「簪?」
 そうだ。ククルがユルに頼んだ土産物の一つが、簪だった。
「簪……どんな店で買ったの? どんな簪?」
「古物商の店があったんだ。そこで買った。赤い簪だ」
 そういう店になら、幽霊の憑いた簪があっても不思議ではないだろう。
「わかった。それ、今どこにある?」
「机の上に置いたはずだ……。土産は一旦、全部出した。食べ物は、おばさんに預けたけど。それ以外は机に」
 ユルの答えに頷いて、ククルは机に向かった。
 おそらく、これらは帰ってすぐククルに渡してくれるつもりだったのだろう。しかし、ユルが寝込んでしまったせいでここにあるというわけだ。
 頼んでおいた、あひるのぬいぐるみや、扇子など……ククルが頼んだ品は全部置いてあった――簪を除いては。
「ユル、簪ないよ!」
 血相を変えて振り返ったが、ユルはもう眠り込んでいた。彼の上を漂う幽霊は、うっすらと笑う。
(近くには、ないか)
 どうやってか、簪は隠してあるのだ。だからこの幽霊は、こんなにも余裕たっぷりなのだと気付く。
 捜してみせる、と誓ってククルは幽霊を睨みつけた。