ニライカナイの童達
第二部
第六話 離別 2
夕食の折も、ククルはずっと押し黙っていた。伊波夫妻は心配そうだったが、どうにもできなかった。
湯浴みをして、部屋に戻る。それから、部屋の電気もつけず、窓から覗く夜空をぼんやり眺めていた。
街中ということもあって、昔と同じぐらいの星が見える――というわけでもないが、こうやって夜空を見ていると、何も変わっていないのではないかという、気分になった。
本当は時なんて越えてなくて、家を出ればトゥチやカジが迎えに来てくれるのではないか。
そう思ってしまうのは、帰りたいからだ。
覚悟を決めてニライカナイに渡ったのに、どうして今更帰りたいなんて思ってしまうのか。友達だって、できた。神の島の島人は親切だ。高良家や伊波家は親身になってくれている。
ぽたり、涙が落ちる。
ユルと離れるのが、こんなにも心細い。そしてククルがこんなに淋しく思うのに、彼が平気な顔をしているのが辛い。
「……まーた、泣いてんのかよ」
振り向くと、ユルが勝手に入って来たところだった。
彼は目を逸らすククルの傍に座り込み、ため息を落とす。
「何でそんな、泣くんだよ。今生の別れってわけでもないだろ」
「だって……帰って来ないって言うし……」
「わかんねえ、って言っただけだろ。ああもう、やりにくいな……」
ユルはククルを引き寄せ、胸に抱いた。薄い浴衣ごしに、体温が伝わる。
ユルは黙って、ククルの頭を撫でてくれた。
「お前は、オレがいなくても大丈夫だよ」
「……どうして、そんなこと言うの」
「自立しろって言ってるんだ。お前は一人で立たないと。オレにべったりじゃ、結婚もできねえぞ」
その言葉に、どきりとする。
「結婚、しないもん。私、もてないし」
「ふうん」
「それに――私、子供産めない体になったんだよね? 結婚する必要、ないし……」
「子供できなくたって結婚する奴いるだろ。つーか、お前は養子取らないといけないだろ。次のノロだっけ?」
つらつらと、ユルはまるで世間話をするように続ける。
「結婚しないと、養子取れないの?」
「どうだっけ。知らね」
適当な答えに憮然としたが、次の瞬間、嗚咽と共に声が漏れた。
「……かえりたい……」
ユルの手が止まった。
「……帰る、って」
「元の時代、帰りたいよお……」
ひどいことを言っていると、自分でもわかっていた。付いて行くと言ったのは、ククルなのに。初めはユル一人で行こうとしていたのに。
ユルがどこか、罪悪感を覚えていることは、知っていたはずなのに。
でも、ユルは怒らなかった。ただ、弱々しいため息をつくだけで。
「帰りたい、帰りたい……」
傷付けるとわかっていて、嘆きが止まらない。それは、ユルがククルを一人にしてしまうから。卑怯な復讐にも似た行動を、止めることができなかった。
ユルは何も喋らず、動きもしなかった。ただ、ククルの涙と嘆きを胸で受け止めるだけで。
いつしか、眠ってしまったらしい。この体勢で眠るなんて自分でも器用だ、と思いながらユルから離れる。
ククルのせいで彼の襟がすっかり乱れてしまっていたので、気まずい気持ちを抑えて襟元を直してやる。
そっと、目線を上げる。ユルは起きていた。黒々とした目で、ククルを静かに見つめている。
「……ユル」
ごめん、と言おうとしたが、ユルが口を開く方が早かった。
「いい、何も言うな。……お前も、今は納得できなくても、これでよかったと思う日が来るさ」
ユルはククルから離れ、すっくと立ちあがった。
「おやすみ」とだけ言い残して、ユルは部屋から出て行ってしまった。
残ったよそよそしい空気に、ククルは唇を噛む。
絆を築くのは、あんなにも大変だったのに。壊すのは、こんなに簡単なのか。
それから、二人の間には確実に溝ができてしまった。話すことは話すけれども、どこかよそよそしくて。
ユルはきっと、悔いているのだろう。ククルが付いて来ると言っても、拒めばよかったと。
ククルは、時が過ぎないようにと祈った。けれども、時は非情にぐんぐんと過ぎて行ってしまった。
ククルは気を紛らわすように、舞の練習に打ち込んだ。
その甲斐あって、夏の祭りでは昨年とは違って、しっかりとした女踊りを披露することができた。
去年はユルが代わりに踊ってくれたんだっけ、と思い出しながら、ゆったりとした動作で舞う。
(かえりたい)
去年はあんなにも、心が通っていた二人なのに。今、観光客に混じって舞台上のククルを見るユルの目は、罪悪感をはらんでいる。
あの時に、戻りたい。屈託なく笑い合って、支え合って。
(私が、悪いのに)
ユルにあんなことを言ってしまった自分が悪い。でも、それでも、ククルに相談もせずに大和に行くと決めたユルのことが、どうしても許せない。
こんな苦い気持ちを抱えながら、離れ離れになるなんて――。
ククルの考え事は、愛しい者を亡くした女――この踊りの役どころに、ぴったりな悲哀を添えたらしい。最後の構えを決めると、盛大な拍手が響いた。すすり泣く声さえ聞こえて来る。
ククルはぺこりと頭を下げてから、観客を見る。ユルは複雑そうな表情で、手を叩いていた。
祭り後の打ち上げの途中、ククルはユルに話があると言われた。二人は島人に挨拶をしてから、宴会を抜け出す。
いつかおぶわれて通った道を、今度は二人並んで歩く。
夜の浜辺は、静かだった。響くのは潮騒の音のみ。潮騒に混じって星の声さえ聞こえて来そうなぐらい無数の星が輝く夜空が、二人を見下ろしていた。
ユルは海を見つめてから、ククルを振り返った。
「……悪かった……」
ユルは顔を背け、また海の方に向いてしまう。
「お前の提案に飛びついて、悪かったよ。お前には、トゥチもカジもいたのにな。家族だっていた。……オレは一人で行くべきだった。オレには、誰もいなかったけど――お前には、親しい者がいたんだし」
その淋しげな台詞に、虚を突かれる。
「……時を遡る方法があるかもしれない。大和に行って、捜してみる。何とかして、お前を帰してやるよ」
「違う!」
突如叫んだククルを、ユルはびっくりしたように振り返る。
「違うの、ユル……。私、ニライカナイに行ったことは後悔してない。あの時はそうしないと、私も辛かったもの。ちゃんと、覚悟を決めて渡ったの」
ちゃんと言わないと、と思うのに嗚咽が漏れる。
「帰りたい、って言っちゃったのは、ユルがいなくなるから淋しくて――ユルは淋しく思ってないことが、悔しくて。あんなこと言っちゃったの。ごめん……傷付いたよね……」
ごめん、と幾度も謝り、ククルは腕で涙を拭った。
「……」
ユルは一歩ククルに近付き、首を傾げた。
「帰りたく、ないのか?」
「……たまに、トゥチ姉様やカジ兄様に会いたくはなる。でも、帰れないってことわかってるもの。大丈夫」
「そうか――」
頷きながらも、ユルの表情はどこか痛ましかった。
「なあ、前も言ったけど今生の別れじゃねえだろ。そんなに、傷つく必要ないだろ」
「うん……」
それでも、ククルは淋しかった。
ユルが、ククルから離れたがっているのが、わかるから。
「どうして、ユルは私から離れたいの?」
直球の質問に、ユルは眉を上げた。
「離れたいわけじゃねえって。ただ、大和の大学に行きたいだけだ」
「……そっか」
相槌を打ちながらも、ククルは自分の力が恨めしかった。研ぎ澄まされた霊力《セヂ》は、時折こうして教えてくれる。嘘か、そうでないか。
ユルは、嘘をついていた。
本当は、ククルから離れたいと思っているのだと考えると、哀しくて切なくて――また泣いてすがりそうになってしまった。
でも、どうしようもない。ユルが決めたことなのだから、ククルに止める権利はなかった。
元の時代と違って、自由な時代になったのだ。ユルはきっと、ククルという足枷から逃れ、自由に生きたいと願ったのだろう。
(それなら私は、祝福してあげないと)
人を祝福するのだって、ノロの大切な役目だ。
「わかったよ」
だからククルは哀しい気持ちを抑えて、涙を流しながら微笑んだ。
それから、二人の関係は少し改善した。前のように気まずくないし、話す回数も増えた。
けれど、どうしても去年のように、というわけにはいかなかった。薄くとも確実に、二人の間に壁ができてしまっていた。
ユルの受験勉強は順調に進んだようで、無事に第一志望の大学に合格していた。ククルは、お祝いに何か贈ろうと考えたのだが、結局思いつかないままに卒業式がやって来た。
「ククルちゃーん。淋しくなるよ!」
卒業式の後、比嘉薫は卒業が哀しいと言って、しくしくと泣いてククルに飛びついて来た。
校庭は、ククルと薫のように別れを惜しみ合う生徒で賑わっている。
「私も……。薫ちゃんは、本島に行くんだってね」
「うん。ナハにある専門学校行くから……」
薫は美術系の専門学校に行き、漫画家を目指すのだという。
本島に行く者、大和に行く者、それ以外の外国に行く者、地元に残る者――と、卒業生の進路は様々なようだ。
「ククルちゃんは、故郷でノロ継ぐんだよね」
「そうだよ。帰って来た時、会おうね」
「もちろん! ……雨見くん、大和行くんだってね。離れ離れになって、大丈夫なの?」
問われ、一瞬ククルは戸惑ったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「平気だよ。私、子供じゃないし」
「そうじゃなくってさ……」
薫は、ちらりと、男子生徒たちと談笑するユルの方を見やる。
「遠距離になるじゃない?」
「え? あ、うん?」
たしかに大和は遠いが……。
「大和でも、首都のトウキョウの大学だよね? 誘惑いっぱいだと思うから、ククルちゃんが頑張って、つなぎとめておくんだよ!」
「……うん?」
薫は一体何を言っているのだろうか。わからなくて、ククルは首を傾げた。
それから数日後、ユルはトウキョウに行くため、島を発つことになった。
空港には、高良夫妻と伊波夫妻が揃って見送りに来てくれた。
お世話になりました、と両家に挨拶をしてから、ユルはククルに視線を寄越す。
「じゃあ、あとはお二人で……。またね、ユルくん! 夏休みに!」
高良が挨拶をして、両家はその場から立ち去る。
残されたククルとユルは、どこか気まずく目を合わせる。
泣きそうになってしまって、ククルは唇を噛む。笑わなければ、と思うのに口角が上がってくれない。
ぽん、と頭にユルの手が置かれた。
「魔物《マジムン》には気を付けろよ。何かあったら、電話しろ。……ノロの務め、頑張れよ」
一気に言ってしまって、ユルは一歩後ずさった。
「……ユル」
泣かないつもりだったのに、勝手に涙が一筋、滑り落ちた。
「今まで、ありがとう……」
最後に、感謝の言葉を。これだけは、決めていた。
契約は終わりだ。もう兄妹神の力もない。ユルが留まる理由もない。
「ユルが兄になってくれて、よかった」
「……お人好しだな、お前。オレは、お前を振り回しまくったのに……」
「それでも、よかったと思うの」
ほろほろ、流れる涙をユルのひとさし指が留める。
「泣き虫」と、低い声で耳に囁かれたので、「知ってる」と答えて目を閉じる。
泣かないつもりだったのに、どうしても涙が止まってくれないのだ。泣いても、ユルが意志を変えることはないと、痛いほどわかっているのに。
滑り落ちた涙が唇に降り、塩辛い。まるで海水のようだ。
「ククル、命薬《ヌチグスイ》を出せ」
「……うん?」
指示に驚きながらも、胸元に仕舞った首飾りを取り出す。青の濃淡も鮮やかな、海の色をした宝石は人工的な光の下でも、きらきらと輝く。
ユルも自分の首飾りを取り出す。星の散る、夜空の色をした宝石。
ユルはククルに近付き、少しかがんで、両方の宝石を重ね合わせるようにして、手で握り込んだ。彼の手の中で、宝石が触れ合う。
ふわりと、奇妙な心地がした。
霊力《セヂ》同士が触れ合う、不思議な感覚。
温かくて、切ない気持ちが湧く。泣き出したいような、反対に喜び叫びたいような――感情が交錯して混じる。
言葉はなくとも、伝わる想いがあった。
色々なことがあった。反発したけど、最後には手を取り合った。一筋縄ではいかなかった旅の行程、戸惑いながらも過ごした現代の日常が頭に渦巻く。
「オレの姉妹《オナリ》。祈りをくれ」
請われ、ククルは頷く。
「私の兄弟《エケリ》。あなたに祈りを」
永久に、我が霊力があなたを守ってくれますように――。
二人はどちらともなく離れた。
「もう、搭乗口行かないと……。ククル、またな」
ユルは微笑み、背を向けてしまった。あっという間に彼は人波に呑まれ、ゲートをくぐる。
「……ユル」
ぽつり、名前が零れ落ちる。
「待って、ユル! いやだ、嫌だよおおっ!」
走り、泣き叫ぶ。
「ククルちゃん! だめよ!」
後ろで見ていたのか、伊波夫人がククルを抱きすくめて留める。
聞こえていないのか、ユルは一度も振り向くことはなかった。
涙を流し、床にへたり込む。
(どうして、離れようとするの)
結局、彼は嘘をついたまま、行ってしまった。
神の島に帰ったあと、ククルは夕焼けで赤く染まる浜辺に立ち、海を眺めていた。水面は金色《こんじき》に輝いている。
もう、ユルは大和に着いた頃だろうか。
強い風が吹き、白い着物をあおった。髪を抑えながら、ククルはすうっと息を吸う。
大和の海はどんな色をしているのだろう。……きっと違う色だろう。ニライカナイには、つながっていないだろう。
しかし、海と空を通して彼に祈りが届くと信じて――ククルは手を合わせ、祈りを捧げた。