ニライカナイの童達
第二部
第六話 離別
冬休みが始まり、ククルとユルは神の島に帰った。
帰ってすぐに、今現在、御嶽を祀るノロの役割を負った高良ミエが、ククルに話があると言って来た。
「実は、そろそろあなたにノロという職を譲ろうと思うのです」
提案に驚き、ククルは思わず視線をさまよわせた。ミエの部屋には、二人きりだった。ユルすらいない。
「……どうして、いきなり?」
「そろそろ私も年ですからねえ。腰も悪くなって来ました。本来なら、あなたが正当なノロの家系なのだし……。トゥチ様は、霊力のある女子を養女にしたと、言いましたね?」
「はい……」
ククルの祖母はトゥチにノロの地位を譲ったものの、トゥチ自身に霊力はなかった。だから、彼女は霊力の高い女子を養女にして、次代のノロを継がせた。
そのノロも子供を残すことはなく、トゥチのように“霊力の高い女子を見つけ、養女にする”という手段を取ったのであった。それが、代々続いて来た。
戸籍は、カジの子孫である高良家に属することになる。
つまり、ミエは高良の血は引いていないのだ。ノロとは代々世襲でなる者だが、高良のノロは、こんな特殊な形で続いていたのである。
「トゥチ様以降も、養女を取る形式が続いたのは――ひとえに、あくまで“預かりもの”の地位である、という意識が働いたとされます。生き神である兄妹神や、ニライカナイに最も近いとされる御嶽を祀るのにふさわしい霊力高き女子を代々確保する必要があった、というのも理由でしょうが。霊力の強い女子の娘だからといって、必ず霊力の強い子を生むとは限りませんからね。……ともかく、やはりあなたに“神の島のノロ”を譲るのが一番いいでしょう。霊力も段違いですし」
「……」
ククルは、こくりと頷いた。
そう。元々、ククルは祖母の跡を継がなければならなかったのだ。数百年ほど留守にしていたから、間が空いてしまっただけで。
「もちろん、高校卒業までは自由に過ごしてくださいな。それまで、私が頑張りますから」
「うん……。ミエさん、ありがとう」
「いいえ」
こうして話が終わり、ククルは立ち上がってミエの部屋を出た。
(ノロ、かあ)
高校を卒業したら、ここでずっとノロをやることになる。もちろん、嫌ではなかった。むしろ、すとんと腑に落ちたぐらいだ。
(でも、ユルはどうするんだろう?)
ユルも兄妹神の片割れであるものの、もう二人いないと使えない力ではない。彼は自由なのだ。
兄妹神は元々、ずっと続く力ではなかった。次代の兄妹が生まれると、その力は次代に移ってしまう。
ノロの家系も兼ねていたため、妹が家の外に嫁ぐのではなくて、兄がよその家に婿入り――というのが、ククルの家の伝統だった。兄が婿入りした時点で、兄妹神は不在となる。妹は先代の後を継ぎ、次の兄妹神を見守るノロの役割となる。
妹は婿を迎え、子供を産む。兄も婿入り先で、子を為す。普通は妹の子に兄妹神が生まれるが、たまに兄の方に霊力高き兄妹が生まれることもあったという。
昔は、どちらかの子であれば、兄妹神の資格ありとされたらしい。もっとも、ククルの時代では、より遠い親戚から連れて来ることもあったらしいが。血が薄れた所以だろう。
「……」
ククルはそっと、己の下腹を撫でた。
(私に、子供は産めないはず)
これはユルと話し合ったことなのだが……ニライカナイで何があったにせよ、子供を産めない体にしてもらったことは、確実なのだ。もちろん、ユルも子は為せない子供になったはず。
神の血がもたらした悲劇を知った二人だからこそ、神にそれを頼まなかったはずはない。
たとえ、体質がそうなっていなくても、ククルは子供を残す気はなかった。また、ククルのように血の濃い子供が生まれないとも限らないからだ。
神は不干渉を守っているようだが、ククルとユルが死んだ後はわからない。ニライカナイで何を約束したか覚えていないのが、歯痒かった。
廊下で突っ立っていると寒くなって来て、ククルは歩き出した。
なんとはなしにユルの部屋に、足を向ける。
「ユル、入っていい?」
襖越しに声をかけると、応《いら》えがあった。
どうぞ、と素っ気ない声が響いたので、ククルは遠慮なく室内に入る。
ユルは机に向かって、勉強していたらしい。椅子から降り、ククルに近寄った。
「あー、ノロのばあさんから話あったんだっけ。どうだった?」
「……えっとね」
ククルはゆっくりと、語った。卒業したら、ノロになることを。
「ふうん」
ユルは驚いた様子もなかった。
「ユルは、どうするの?」
ククルの問いに、ユルは少し間を開けてから答える。
「オレは――せっかくだし、大学に行こうと思う」
「えっ」
想像していなかったわけではない。ユルはククルと違って、学校の授業にも付いて行っているようだったから。
「そっ……か」
それなのに、淋しいと思ってしまったのはなぜだろう。
琉球の大学は、本島にしかない。ククルがこの島でノロをやって、ユルが大学に行くというのなら、離れ離れになる。もちろん、昔と違って八重山と本島はすごく遠いというわけでもないのだろうけど――。
それでも、すぐに承服できなくて。ククルは口を開けなかった。
(動揺することじゃない。それに、大学卒業したらユルは戻って来る……よね)
ただ、「卒業後は戻って来るの?」と聞けばいいのに、それができなくて。ククルはユルから目を逸らして、必死に言葉を探す。でも、言葉が見つからない。
何を言えばいいのだろう。
妙に動悸が早くなって、視界もぐるぐるする。どうしてこんなに、衝撃を受けてしまったのだろう。
ごはんですよ、と高良夫人が呼ぶ声がして、ククルはようやく意識を戻した。
それから、ククルが進路の話題に触れることはなかった。ユルの方も、特に言い出すでもなく……まるでその話題は、一旦保留になったかのようだった。
時が過ぎるのが怖くなったのに、そう思えば思うほど、時の速さがいや増したようだった。
冬が過ぎて春がやって来て、ククルは三年生になった。
放課後、帰る準備をしていると、教師がユルに「後で職員室に」と告げた。
「先に帰っといてくれ」
ユルはそう言い、鞄を片手に教室を出て行ってしまった。
ククルは友人に挨拶をしてから、教室を出て廊下に立ちすくんだ。迷ったものの、ククルは下駄箱には向かわずに、職員室に向かった。
半開きになった戸から、そっと中を覗き込む。幸い、と言うべきか、担任の机は入り口から近いところにあった。
ユルは担任の机の近くに佇み、真剣な面持ちで頷く。耳を澄ませると、二人の会話が聞こえて来た。
「まあ、この前の模試の結果を見ても、お前の成績なら志望校に通るだろう。頑張りなさい」
「……はい」
「大和の大学の中でも、国際色の強い、いいところだよ。先生の友達が行ってたんだけどね――」
ばたん、と音がしてククルは自分が鞄を落としたのだと悟る。その音に気付いたのか、ユルが首を巡らす。
目が、合った。
ククルは後ずさり、尻もちをついた。慌てて立ち上がり、鞄を持って――駆け出す。
「ククル!」
後ろからユルの声が飛んできたが、振り返らなかった。
――大和。
ククルが行ったこともない、異国。そこに、ユルが行ってしまう。
家に帰ってすぐ、ククルは部屋に閉じこもった。ベッドの上に座って、ぼんやりと天井を眺める。
てっきり、琉球の大学に行くのだと思っていた。それでも淋しかったのに……大和、なんて。
しばらくじっとしていると、扉を叩く音が耳を打った。
「……」
「……入るぞ」
許可も取らず、ユルは勝手に宣言して入って来た。
「……どうして」
彼を見上げ、問い詰める傍から涙が滲む。
「どうして、大和に行っちゃうの……。何で、言ってくれなかったの……」
「――どこでも、一緒だろ。どうせ、八重山諸島には大学ないんだし」
「だけど! だけど、全然違うよ! 大和は、外国だよ!」
いくら近くたって、昔は同じ国だったことがあっても、大和は大和で――琉球とは違う。文化も、本来の言語も違う。
「考えてた志望校に届くってわかったのは、今日だ。だから、今日言おうと思ってた」
「……」
ククルはうつむき、片手で涙を拭った。
「別に、内緒にしてたわけじゃねえよ。お前、詳しく聞かなかっただろ」
「そうだけど――」
そこで、ククルは過去の行動を後悔した。淋しさに負けて対話を拒んだのは、たしかに自分だ。
「オレは――あんまり、本島には行きたくないんだ。……わかるだろ」
「うん……」
ユルは都の、城の中で生まれた。神の子として生まれ、簒奪者として育てられた。都に、いい思い出がないのは、道理だろう。
「なら、外国の大学にするかなって考えてさ。大和なら、一度は同じ国だったこともあって、色々都合もいいみたいだし、言葉も困らないし……って考えたんだ。大体、ここから本島に行くにも飛行機使わないといけないだろ。大和でも琉球でも、そんなに変わらねえよ」
ユルはため息をついて、ククルの隣に腰を下ろした。
「ユルは、帰って来る?」
その問いに、ユルは頬杖をついて目を細める。
「長期休暇には、帰って来る。夏とか、冬とか、春とか」
「……そうじゃなくて。卒業したら、帰って来る?」
驚いたように、ユルはククルから目を逸らす。その視線が、物語っているようだった。
「わからねえよ、そんなこと」
「ど、どうして」
嘘でも、帰って来ると言ってほしかった。
ククルは、ずっとここにいるのに。ユルはここから離れ、帰って来るかもわからないと言う。
いつしか、涙が滂沱と溢れていた。
「……泣くなって。きょうだいって、そういうもんだろ。いつか、離れるもんだ」
がしがしと、頭を乱暴に撫でられる。ティンとは似ても似つかない、粗暴な動作。初めは、その荒々しさに反発したこともあった。でも、彼の優しさに気付いてからは、ククルはユルにずっと懐いていた。家族として――。
ククルは涙をほろほろ流し、しゃくりあげる。
わかってはいた。兄妹神は、永遠に兄妹神ではいられない。いつか兄は婿入りして、妹は婿を取って、次代の兄妹に力を譲るのだ。
でも、ククルとユルは最後の兄妹神だから――永遠に離れないものだと、呑気に考えていた。違ったのだ。もう、二人は兄妹神ですらない。二人で使う力はないのだから。
ククルは命薬《ヌチグスイ》を、ユルは天河《ティンガーラ》を、それぞれ別個に使うことができる。
今も島人は二人を兄妹神と崇めてくれるが、実際はもう違うのだ。
いつしか、ククルは泣き止んでうつむいていた。その様子を見てホッとしたのか、ユルはククルから手を放す。
「……じゃあオレ、着替えて来るから」
ユルはそう言い残して、思い切ったように立ち上がった。ぱたん、と空疎に響く扉の閉まる音を聞きながら、ククルは動けなかった。