ニライカナイの童達

第二部

第五話 投影 5




 ククルは携帯が電池切れになったことに落胆し、足を速めた。
 そうだ電話すればいいんだ、と気付いたのはいいが、充電するのをすっかり忘れていたので、ユルにつながる前に切れてしまった。
 ククルにとって、現代文明の機械は奇々怪々である――洒落ではない。特に携帯電話というのが、さっぱりわからない。どうして遠くの人と話せるのか、手紙が送れるのか、あまつさえ“いんたあねっと”という謎の機構につながるのか。
 それでも、ユルはこれの使い方を熱心に教えてくれた。緊急の時、役に立つからと。電話だけでいいから、使えるようになれと。
『難しいことは考えるな! 手順を覚えろ。登録しといてやったから、通話ってのを押してこれを押せ。オレの携帯につながるからな。これだけでいいから、覚えろ』
 その指導あって、無事ユルに電話することができたのに――電池切れで役に立たないとは。
 ククルは自分に呆れながらも、走り続けた。

 ククルは、教えてもらったカラオケの店に飛び込んだ。いまいちカラオケというのが何かわかっていないが、気にしている暇はない。
 店員に「いらっしゃいませー」と声をかけられる。
「あ、あのっ……高校、の……」
「ああ、高校の団体さん? 105号室だよ」
「ありがとうございます!」
 礼を述べ、ククルは教えられた部屋に急ぐべく、廊下を走る。すると、ククルは目の端で人影を捕らえて足を止めた。横にある階段の空間で、ユルと女生徒が話をしていた。
「ユル!」
 叫ぶと、ユルがククルの方を見る。
「あれ、お前来たのか。……松田、じゃあオレ……行くから」
 ユルは気まずそうな口調で女生徒に告げて、ククルの近くにやって来た。すると、松田の背後に何か黒い気が立ち上った。憎悪の眼で、ユルの背中を見つめている。
「ユル、危ないっ!」
 ククルがユルを横に突き飛ばすと、目標を失った黒い鳥はククルの首をかすめ、鮮血がほとばしった。
「いたっ!」
「……ククル!」
 ユルは慌てて、倒れたククルの体を受け止める。
「え……? な、何で。あたし、何もしてな……」
「くそっ。おい、誰か呼んで来てくれ!」
 ユルが怒鳴る声を聴きながら、ククルは薄れ行く意識の中、目を閉じた。



 ククルは、周りに真っ青な海が広がっていることに気付いた。
「あれ?」
 ここは、どこだろう。海だけど、海に入った記憶がない。
 ふと気配に気付いて、振り返る。すると、後ろにティンが立っていた。茶色い髪と、昔ながらの琉装が風になびいている。
「兄様!」
 引き返そうとしたが、ティンはゆっくりと首を振る。
『ここに来てはいけないよ』と、口の形だけで伝えてくれる。
「え……?」
 また声には出さずに『ほら、ユルが呼んでいる』と伝えて、ティンは背を向けて行ってしまった。
 追いたいけれど、そうもいかず。ククルは首を元に戻して、前を見据えた。
「ユル、呼んでるかな?」
 声は聞こえないのに。
(あれ、でも)
 手が、温かい。まるで誰かが、握ってくれているようだ。
 ククルは得心して、目を閉じた。

 目を開くと、白い天井が見えた。
 自室ではない。それに、この空気は……薬臭い。
 身を起こし、きょろきょろする。隣のベッドでは、小学生ぐらいの女の子が退屈そうに本を読んでいた。その向こうのベッドは空いている。
「……」
 ふと、首に手を当てる。ごわごわとした感触。首に包帯が巻かれているようだ。痛みが走った。
 すっ、と病室の戸が開いて、ユルが入って来た。起きたククルを見て、目を丸くしている。
「目が覚めたか」
 ホッとしたように、ユルは笑う。久しぶりに見る、ユルの優しい笑顔に嬉しくなる。たまに、こんな顔をしてくれるのだ。滅多に見られないのが難点だが。
 ユルはククルのベッドに歩み寄って、顔を近付けて来た。
「気分はどうだ?」
「うーん……首痛いけど。私、どうなったの?」
 はあ、とため息をついてユルは傍らにあった小さな椅子に座った。
「魔物が、お前の首を掠めて血が出たんだ」
「うえ」
「お前なあ、オレを庇ってんじゃねえよ。オレなら、怪我してもお前の命薬《ヌチグスイ》で治せるだろ。お前が怪我したら、どうにもならないんだから」
「……と、咄嗟に体が動いてて」
 ククルはもじもじと、頬をかいた。
「私、死にかけてた?」
「そこまでじゃねえよ。最初出血が多かったから、貧血起こして気絶したんだろ」
「ふーん、そうなんだ」
 なら、あそこはニライカナイではなかったのか。てっきり、死にかけたせいでニライカナイに行ったのかと思ったら。
「でも、めちゃくちゃ焦ったぞ……。頼むから、ああいうのはやめろよ。もっと深い傷だったら、死んでたかもしれない」
「気を付ける……。魔物は、どうなったの?」
「お前の止血で、魔物退治どころじゃなかった」
 あれ、とククルは苦笑した。
 でも、あれはたしかにあの鳥のような魔物だった。
「松田さんに憑いてたんだね……」
 舞台袖に置いた後、彼女の元に戻ったのだろう。そういえば、松田は小道具係で、本番は特にすることがないので客席にいたはずだ。
「松田さんって、どうしてユルを恨んでたの? ……あっ! そうだ、修学旅行で告白したけどユルに断られたからか!」
「……お前、どこでそれを知ったんだよ」
 ユルは不審そうに眉をひそめた。
「うっ。比嘉薫さんに聞きまして……。どう考えても、それが原因だよね?」
「多分そうだな」
「あの時、何を話してたの?」
「諦めきれないから、もう一度考えてくれないかって言われたんだよ。オレは気を持たせるようなことしたくないから、無理だって断った」
「もっと優しく断りなよ」
「無茶言うな」
 ユルはムッとして、腕を組んだ。
「何でユルって、妙にもてるんだろ。口悪いし、粗野なのに」
「ケンカ売ってんのか、てめえ」
「あわわ」
 凄まれ、怯えてしまう。つい言いすぎてしまった。
「オレが知るかよ。物珍しいんじゃねえの」
「物珍しい?」
「本当は、現代人じゃないからな」
 なるほど、と頷きかけてククルは首を傾げた。痛いので、すぐに体勢を戻したが。
 それならククルももてていないとおかしいのだが、全くその気配がないのはどういうことだろう。まあいいや、とククルは思考を打ち消し、話題を変えることにした。
「ユルが、この病院まで運んでくれたの?」
「いや、救急車呼んでもらった。オレも付き添いで乗って行ったけど」
「きゅーきゅーしゃ……」
 病院用の車だっけ、とククルは思い浮かべる。道路を走るのを、見たことがある。
「私が意識ない間、手を握っててくれた?」
 その質問は意外だったらしく、ユルはぎょっとしていた。
「はあ?」
「違うの?」
「さあな」
 はぐらかす意味がわからない。この反応は……照れているのか、と気付いてククルは笑ってしまった。
「へへー」
「何笑ってんだよ」
「へへへ」
「不気味だぞ」
 指摘されても応えず、ククルの顔は緩みっぱなしだった。
 ユルは憮然として、立ち上がる。
「どこ行くの」
「お前の意識が戻ったこと、知らせないと。意識ないから入院になったけど、そこまで深い傷じゃなかったし縫合もしたから、もう帰れるはずだ。ちょっと待ってろ」
「はあい」
 ククルは病室を出ていくユルを見送ってから、ため息をついて天井を見上げた。
「あいたた……」
 しばらくは、首の痛みに難儀しそうだった。