ニライカナイの童達
第二部
第七話 再会 4
リビングに出たククルを見て、ユルは微妙な表情になっていた。
「やっぱり、大きすぎるな」
「う、うん」
裾をたくし上げているのが妙に見えるのだろうと考えつつ、ククルは疑問を口にした。
「ねえ、ユル。ここって、ユルの他に誰か住んでるの?」
「……住んでないけど」
「じゃあ何で、二人分の食器があったり、ドライヤーがあったりするの?」
その質問に、ユルは驚いたようだった。視線が、彷徨う。
「食器は予備だ。たまに友達が来るし。ドライヤーは、前の住人が置いて行ったやつ」
「ほ、本当?」
「嘘ついてどうするんだよ」
たしかに、と納得しながら、ククルは霊力《セヂ》が働かないことを疑問に思う。妙に動揺しているせいか、霊力が安定しなくて、嘘か真実か見抜けないのだ。この力は必ず働くというわけでもなく、不安定なものなので仕方ないのだが……。
(何で、動揺するんだろう)
奇妙なこともあるものだ。たとえ、ユルが女性と住んでいたってククルには関係ないのに。
「……そっか」
「それより、お前。寝室で寝ろよ。ベッド貸してやる」
話題を変えられたことに気付きながらも、ククルは話を蒸し返すことはしなかった。
「いいの? ユルはどうするの?」
「ここで布団かぶって寝るから、心配すんな」
「……ごめんね」
やはり、事前連絡なしの来訪はすべきではなかったかもしれない。ククルは反省した。
でも、事前に言えばユルはククルの来訪を許可しなかっただろう。ともかく、もう来てしまったものは仕方がなかった。
寝支度を終えて、ククルはベッドに横たわった。掛布団をかぶると、ほのかにユルの匂いがした。懐かしい、と目を閉じる。
寝室の扉の隙間から、光が差し込んでいる。ユルはまだ起きておくようだ。
(あの荒みを、どうすればいいんだろう)
何か原因があるはずだ。考えなければ、と思いながらククルは、ゆらゆらと波のように打ち寄せる眠気に身を委ねた。
遠くに響く、男女の笑い声で目を覚ました。
ククルは身を起こし、窓を覗き込む。見下ろすと、四人の男女が大笑いして歩いていた。
(びっくりした……)
窓の外は、神の島では考えられないぐらい、明るい。街灯が点いているし、まだ開いている店もある。マンションと思しき建物も、ところどころ電気がついていた。
明るすぎて、落ち着かない。トウキョウの夜は、なんて騒がしいのだろう。
神の島はもちろん、そこよりも人口が多い信覚島でも、数百年前の夜空を思い出すこともあった。だが、ここではそうもいくまい。夜でも人工的な光に溢れたこの町は――とても、現代的だった。
(こんなところで、ユルはよく眠れるなあ)
首を傾げて、ベッドから下りる。喉が渇いた。水でも飲もうと思って、寝室を出る。
ユルも寝たらしく、リビングは昏かった。ユルを踏まないように、とククルは懐から首飾りを取り出す。暗闇でも光る海色の宝石は、こういう時に便利だ。
海色の光が、室内をぼうと照らす。その光を見ていると、発ってからそう時が経っていないというのに、もう故郷が恋しくなってしまった。
潮騒も聞こえない、温かな闇もないこの町で……ユルは、淋しくないのだろうか。
ふと、床で横たわるユルの傍に膝をつき、そっと、宝石を掲げる。彼は少し眉をひそめて、眠っていた。
さらりと頬を撫でる。
(霊力が、濁ってる)
どうすれば治してやれるのだろうと考えながら、しばらく触れていると、ユルの表情が和らいで来た。触れることによって、少しは癒せているのだろうか。
髪を撫で、頬を撫で、肩を撫でる。
ユルが呻いて寝返りを打ったところで、ククルは立ち上がった。少なくとも、今夜は彼に優しい眠りが訪れることだろう。
「おい、起きろ」
素っ気ない声が響いて、ククルは覚醒する。
「んー……」
ぼんやりした視界に、ユルが映る。ユルは少しむすっとした顔で、こちらを見下ろしていた。
(あれ、どうしてユルがいるんだっけ。ユル、琉球に戻って来たんだっけ)
混乱した頭は、窓から聴こえて来た自動車の音で、ようやくはっきりし始める。
「ああそうだ……ここ、大和だっけね」
「寝ぼけてんのかよ、お前。さっさと支度しろ。買い物行くんだろ」
「うん……」
ククルはようやく、起き上がった。するとユルが、ぎょっとしたような顔になった。
「どうしたの?」
「……別に。着替えたら、さっさと出て来いよ。今日は、朝飯も外で食べるからな」
ふあい、と返事すると同時にユルが寝室から出ていく。
そこでククルは、浴衣の前が大きくはだけていたことに気付く。
「……」
寸法が合ってなかったから仕方ないね、と自分で言い訳してベッドから降りる。
着替えてから寝室を出て、顔を洗うと一息ついた。
(……よく寝た)
リビングに戻ると、ユルはテレビでニュースを見ていた。
ククルはその隣に座り、ぼんやりと天気予報を眺める。
「そういえば、昨日ちょっとテレビ見たけどチャンネルいっぱいあってびっくりした。大和はすごいね……」
ユルは呆れたように肩をすくめ、リモコンでテレビを消す。
「支度できたなら、行くか」
「うん」
二人は同時に立ち上がった。
夏でも大和は涼しいのかと思ったが、琉球とはまた別の暑さでとても涼しいとは言えなかった。
琉球の暑さは南国の暑さで、照り付ける太陽の暑さだ。しかし、大和の――トウキョウの暑さは、コンクリートの地面から立ち昇る陽炎の暑さだった。こういう暑さに慣れていないククルは、家から出て近くのカフェに辿り着くだけでも、何だか疲れてしまった。
やたら洒落たカフェに入り、ククルは落ち着かなくてきょろきょろしてしまう。
注文を取りに来た若い男性店員が、ユルに「あれ、新しい彼女?」と聞いていた。ユルは小さく何事か答えつつ、ククルの分の注文も済ませてしまった。
新しい、彼女?
ククルは呆然として、頭の中でその言葉を反芻する。新しい、ってどういうことだろう。
「……ユル」
「何だよ」
「もしかして、今は住んでないけど……前は誰かと一緒に住んでたの……?」
その質問に、ユルはばつが悪そうに目を逸らした。
「たまに、来てただけ。一緒に暮らしてたわけじゃない」
「女の人?」
「……」
沈黙が、答えだった。
「お前には、関係ないだろ」
素っ気なく、温度のない声で言われて、頭の奥の方がしんと冷える。
「……そうだね」
そうだ、関係ない。ユルが恋人を作ろうが作るまいが、ククルには関係ない。ククルはユルの、かつての妹で、遠い親戚。彼の行動を咎める権利は、何もないのだった。
(そうだ。割り切らなくちゃ)
ククルはわざと、明るい笑顔を浮かべた。
二人は朝食を取った後、ショッピングモールに向かった。
ククルはその広さと人の多さに圧倒され、早くも酔いかけた。
「お前、買い物する金あるのか?」
問われて、ククルはぐっと詰まる。
「トウキョウって、物価高い?」
「高いな」
「……大丈夫な、はずだけど」
旅に出るに当たって、困らない程度には財布に入れて来たはずだ。
ユルはククルの不安を察したのか、ため息をついた。
「しゃあねえな。オレが奢ってやるよ」
「え、でも」
「で? どこの店入るんだ」
ユルは、朝だというのに元気な通行人を眺めつつ、ククルに質問する。ククルは、かあっと赤くなった。
「ま、まずは」
「うん」
「下着、買いたい」
「……お前さあ」
「うん?」
「ゴーヤ入れるより、他のもん入れて来いよっ!」
ぐに、とユルに頬の肉をひねられる。ユルの怒りは、もっともだったので、ククルは何も言えずに肩を落とした。
「さ、先に下着は自分で買って来るから。ここで待っといて」
近くにあるベンチを指さし、ククルはユルの返事も聞かずに走り出した。
かくしてククルは購入を終え、ユルの下に戻った。急いでいたので、店員に薦められたものを適当に買ってしまった。
「お待たせ」
声をかけると、ぼんやりしていたらしいユルは、すっくと立ち上がった。二人は何気なく、歩き始める。
「服は、どこの店で買おうかなあ」
店が多すぎて、迷ってしまう。しかも最近は琉装ばかり着ていたので、洋装を選ぶのは久しぶりだ。
「どうせなら、琉球にない店にすればどうだ」
「琉球にない店、かあ」
ククルは通り過ぎながら、苦労して店名のアルファベットを読んで行く。相変わらず横文字は苦手だった。
「……あ、ここ、テレビで見たことある」
ククルは立ち止まり、とある店の前で足を止めた。
海外のブランドで、最近大和に進出したとか何とかかんとか……結構なお手頃価格らしい。若者向けなので私は行けないわねえ、と高良夫人が嘆いていたことを覚えている。
「よし、じゃあここで選べ」
「うん。……二着でいいかな?」
ユルは来週帰る予定にしていたので、洗濯することも考えるとそれぐらいでいいだろう、と思ったのだが、ユルは首を傾げた。
「もうちょっと買えば」
「どうして?」
「琉球にない店なんだし、せっかくだから大目に買っとけ」
「……わかった」
ククルは頷き、速足で店内に入った。
これまた店員の薦められるがままに、買ってしまった。ユルはカードで支払いをしていて、ククルは思わず感心する。
(カード、かあ)
どうして板切れでお金が払えるのだろう。現代文明の謎の一つだ。
その後、手近な店に入って昼食を取った。
時間がないので、ゆっくり食事はとれなかった。事務所の最寄り駅に向かう電車の中で揺られながら、ククルは先ほど食べた甘ったるいパスタの味が口に残っていることに気付いた。
おいしかったけれども、半分ぐらい食べたところで若干胸焼けしてしまった。
気分の悪さを誤魔化すように咳払いして、ククルは電車内を見渡す。この電車はそれほど混んでいなかったが、満席だった。はしゃいでいる家族連れ、疲れたように眠る男性、化粧にいそしむ女性――色々な人が乗っていた。
琉球には電車がないので、なんとなく未知のもの、という印象がある。
「……ユル」
隣に立つユルに呼びかけると、黙って見下ろして来た。
「よく、ここで暮らせるね……」
滞在二日目にして、ククルはもう疲れてしまった。琉球と違いすぎる、というだけではなく、数百年前とも剥離がありすぎる。ユルはどうやって、適応しているのだろう。
すると、ユルは皮肉気な笑みを浮かべた。
「お前、本当に田舎者を体現してるよな」
「……う、うるさいよっ」
言い返しつつ、ククルは「そうか」と納得する。ユルは都生まれだ。神の島という僻地で生まれ育ったククルとは、前提からして違うのだ。
あまり御内原《ウーチバラ》から出してもらえなかったらしいが、それでもたくさんの女官にかしずかれていたのだろうし、人の多さに慣れているのだろう。
「ユルはね、昔……都の市場とかにも行ったの?」
「顔隠して、行ったことはあるな。倫先生が連れて行ってくれたんだ。オレが気の毒だったんだろう」
ユルは首を傾げ、答えた。
ユルは影武者ゆえに、表舞台に立つことは許されていなかった。授業以外はほとんど、御内原にこもり切りだったのだという。その境遇に同情し、倫が連れ出してくれたのだろう。母親の聞得大君は……とてもユルを連れ出してくれそうな性格でもなし。
「……この駅だ、降りるぞ」
電車が停まったと同時にユルが歩き出し、ククルはその後を追う。
相変わらず人が多い。駅も、そこから出た歩道も、人で溢れかえっていた。色んな服を着ている人ばかりだから、たくさんの色が目に映る。でも、不思議と鮮やかな印象はなかった。
(……太陽のせいか)
同じ夏の太陽でも、琉球の太陽より若干弱い気がする。ぱちぱちと、目を瞬かせる。目に映る景色の印象は、灰色。灰色のスーツの人が多いせいもあるのだろうか。
洗練された、大和のトウキョウ。やはりここは、異国だ――と実感してしまう。
ぼんやり歩いている内に、目的地に着いた。ユルはすたすたと、雑居ビルに入って行く。辿り着いた三階に――そこは、あった。
羽前《うぜん》事務所……、と心の中で読んでいる内に、ユルが中に入って行く。
ユルに続いて入ると、いたって普通の人たちがパソコンに向かって仕事していた。ユルに気付き、幾人かが挨拶をする。彼は早口の大和語で何か説明していたが、ククルはぼんやりしていたせいで聞き取れなかった。
(ここが、退魔事務所?)
普通の会社の一部に見える。ククルが戸惑っている間に、ユルは一人の女性に話しかける。彼女は頷き、奥の方に行ってしまった。
彼女はすぐに帰って来て、「所長室に行って」と伝えてくれた。ユルは頷き、歩き出す。
そして所長室の扉を開き、入った先には――艶やかな女性が、席に着いていた。はっきりした顔立ちの、文句なしの美女だ。年のころは、三十代ぐらいだろうか。
「どうも、雨見くん。そろそろ連れて来ると思ったわ」
彼女は立ち上がり、ククルに歩み寄って来た。
「はじめまして。あなたが、雨見くんの――」
ククルは、差し出された手を握る。冷たい手だった。
「雨見くんと、数百年前から来たのね。あなたも琉球の神の血を引く?」
その確認に、ククルは青ざめる。
「ど、どうして」
思わずユルの方を見やったが、ユルは「大丈夫だ」とククルを安心させるような、優しい声音で言う。
「所長は、千里眼なんだ」
その説明に、ククルは目を見張り――眼前の美女を、穴が空くほど見つめてしまったのだった。