ニライカナイの童達

第二部

第八話 逡巡



「改めまして……私は、羽前伽耶《うぜんかや》よ」
「あ……私は、和田津ククルです」
 名乗り返し、ククルは頭を下げた。
「それで? ククルさん。どうして、ここに来たのかしら?」
 問いつつも、彼女はククルの心中を見透かしているようであった。
「率直に言います。ユルにもう、魔物《マジムン》を……妖怪を退治させないでください。彼はもう、限界なんです!」
「……雨見くんが疲れていることは、わかるけど……それは承服できないわね。こんなにも強力な妖怪を消滅させる力は、滅多にない。彼はエースなの。報酬も、それなりのものを払っているわよ?」
「お金の問題じゃない! このままじゃ、ユルは死んじゃう!」
 言いながら、ククルはゾッとしてしまった。そう、あの荒みはユルを蝕んでいる。いつか死につながるだろう。
「ねえ、ククルさん。雨見くんには、使命があるそうじゃない。ニライカナイの神々と交わした、契約によるものが」
「……」
 一歩も退くまい、と思っていたのにククルは伽耶に気圧されていた。
「それなのに、妖怪退治を止めていいの? 雨見くんが疲れているのを解消するには、あなたこそが鍵なんじゃないの?」
「……私?」
「そう。だって、あなたも雨見くんと一緒にニライカナイに行ったのでしょう。雨見くんだけが契約を交わしたわけじゃ、ないはずよ。――あなたのすべきことは、雨見くんに妖怪退治を止めさせることじゃないわ。あなたの力を、思い出すべきなの」
 つらつらと語り、伽耶は少し屈んでククルの目線に合わせる。
「私はあなたの到来を予見した。だから、特に対策を打たなかっただけ。……どう? 納得した?」
「…………はい」
 恐ろしいほどの、正論だった。ククルはユルを治す方法がわからないから、止めさせてくれと訴えた。だが、伽耶は反対に彼を止めさせるのは使命にも反するから、どうにかして治す方法を探せと言う。
「それに、明後日行われる大々的な捕り物には、絶対に雨見くんの力が必要なの。これだけは譲れないわ。でないと、死者が出る。雨見くんの状態は、あなたが何とかしてちょうだい」
「……」
 ククルは、とうとう、うつむいてしまった。
 完敗だ。迫力で負け、理屈で負けた。
「そう、落ち込まないでよ。私がいじめたみたいじゃない。――雨見くん。この後、打ち合わせがあるから。横の部屋で待機しててちょうだい」
 伽耶はククルから離れ、ユルに指示を出した。
「……わかった。ククル、一旦下の店で待っといてくれ。一時間ぐらいしたら迎えに行くから」
 ユルが、ククルの顔を覗き込む。声音に気遣いが滲んでいるのが、かえって辛かった。
「一階に、カフェがあるから。わかったか?」
「うん」
 ククルは頷き、どうにか涙を零さないことに成功した。

 一階に下りて、カフェの中に入る。こういうお洒落な店に入ると、いつもはわくわくするのだが、今は重たい気持ちが勝っていた。
 こんなに落ち込んでいるのは、伽耶にククルの怠惰さを暗に責められたからだ。ククルはユルに魔物退治を止めさせればいいと考えて、治す方法を考えることを怠っていたのだ。
(私の、馬鹿)
 捜すと誓っていたけれど、今は止めさせればいいという安易な考えで満足してしまっていた。もっと、必死にならなければならなかったのに。
 オナリ神失格だ――と考えながら、ククルは注文カウンターに近付く。
「……えっと」
 しまった。何も決めずに、注文口に並んでしまった。こんな時に限って、「どうぞー」と別のレジから店員が呼んで来る。
(あわわ、どうしよう)
 相変わらず、こういった注文は苦手だ。まず横文字が苦手で、何が何だか……。
 こうなったら、秘儀・適当にメニュー表を指す、で乗り切るしかない。動揺を鎮めようと深呼吸した時、背後から涼しげな声が響いた。
「大丈夫?」
 振り向くと、優しそうな風貌の男性が立っていた。
「あ、あの、はい。その……」
「季節限定のものとか、お薦めだよ。甘いのは好き?」
「は、はい」
「今の季節限定フラペチーノは、オレンジのだっけね。……サイズは、トールが一番お得だよ。それでいい?」
「……はい?」
 ククルが圧倒されている間に男性は進み出て、何と注文を済ませてしまった。自分にはアイスコーヒーを頼み、彼はククルの方を向いてにっこり笑う。
「受取カウンターへどうぞ?」
「……は、はい」
 ククルは戸惑いながら、少し離れたところにある受取カウンターに向かい、そこでお金を払っていないことに気付いた。
 ハッとした時にはもう、あの男性が隣に立っていた。
「私、お金払いそびれちゃった……」
「ん? ああ、いいよ。僕が払っておいたから」
 彼の発言に、ぎょっとしてしまう。
「え! で、でも!」
「まあまあ、大和へようこそ――ってことで、奢らせて」
 そこで、ククルは動きを止めた。どうして、ククルが外国人なことがわかるのだろう。見た目では、琉球人と大和人の区別などつかないだろうに。
「……まあ、詳しいことは席に着いてからでも」
 彼がそう言った時、店員が注文の品を二人に渡してくれた。
 なんとなしに、ククルは彼に先導されるがままに、二人席に着く。
「……あの?」
 まじまじと見つめると、青年は穏やかに微笑んだ。
「実は、さっき君のことを見ていたんだよね。事務所にいたからさ」
「あれ、じゃあ退魔事務所の……?」
「そう。休憩ついでに寄ったら、ここに君がいたというわけ。――弓削《ゆげ》春貴《はるき》です。よろしく」
 手を差し出され、ククルはおずおずと握手を返す。
「和田津ククルです」
「かわいい名前だね。……夜の連れだから、琉球の人かなと思ったんだけど、当たりだよね?」
 かわいい名前、と言われて照れながら、ククルは弓削がユルを夜と呼んだことが、気になった。ユル、ではなくヨル。大和の読みだ。
「よる?」
 ククルが首を傾げると、弓削は思い至ったらしく、苦笑した。
「ああ、本当の読みはユルなんだっけね。うーん、実はさ……彼が入って来た時、先に字の方を見たんだよね。それで、夜って漢字は大和ではヨルだからさ……。勘違いして、ずっとヨルって呼んでたわけ。あいつもなぜか、訂正しなくて」
 訂正しなかったんだ、とククルは驚いてしまう。
(ユルはあんまり、名前にこだわりがないのかも……?)
 ユル、という名前は清夜王子が自分の名前から取って、ユルに与えたものだ。それ以前、ユルの名前はなかったという。
「ユルという読みだと気付いたのは、最近でね。もうすっかり、ヨルと呼ぶことに慣れてたから、そのまま。あいつも、別にそれでいいと言ってたし」
「そうなんだ……。他の人も、ヨルって呼ぶの?」
「いいや、他の人は大体苗字で呼ぶからさ」
 首を振り、弓削はコーヒーのストローをくわえた。そこでククルも思い出したように、フラペチーノを啜る。柑橘の酸味は爽やかで、甘いクリームとちょうどいい具合に調和している。
「……おいしい。弓削さん、注文ありがとうございました。あ、それに奢ってくださって……」
「いえいえ。あんまりこういう店に、慣れてないのかな?」
「……はい」
 琉球というか信覚島にも似たような店があったが、こちらの方が高級な印象を受ける。やたら椅子が高いし、ククルが気後れするような洒落た内装だ。
「君はユルの……えっと、妹じゃないよね? 似てないし、苗字も違うし」
 弓削に問われ、ククルは答えに窮する。
「私は、ユルの――親戚です」
 この答えが、一番無難だろう。
「へえ、そうなんだ。なんだかあいつ、故郷のことあんまり語りたがらなくてね。今日君と一緒に来て、驚いたよ。親戚でも、特に親しかったのかな?」
 弓削の目には、好奇心が浮かんでいた。どうしてわざわざ所長に会いに行ったか、興味があるのだろう。
 隠すことでもなし、とククルは口を開いた。退魔事務所の人間なら、詳しいことを言っても理解してくれるだろう。
「実は私、神女《ノロ》なんですけど」
「ノロ?」
「えーと、大和でいう……巫女さん、かな? 御嶽《うたき》という聖域を守ったり、神事をこなすのがお務めで」
「ああ、なるほど。ふうん。君には不思議な雰囲気があると思ったけど、そういうことか」
 弓削は納得したように微笑み、頷いた。
「ある朝、神様にお参りしたら、警告みたいな感覚を受けてしまって。それで、ユルに危険が迫ってるんじゃないか――って、不安になって。無理矢理、押しかけたんです」
 説明を終えると、弓削は眉を上げた。
「夜に、危険か――。その正体は、わかったの?」
「はい。ユルは、魔物を退治していく内に、何か荒みみたいなものを溜めてしまったみたいで……それを何とかしないと、危険だと……」
「なるほどね。それは、君がどうにかできるんだろうか?」
「多分――。いえ、どうにかしてみせます」
 強く言い直すと、弓削は幼子を見守るかのように目を細めた。
「それなら、何よりだけど。……さて、僕はもう行こうかな。君は、このまま帰るの?」
「いえ、ユルを待ってます」
「そっか。それじゃあね」
 ありがとうございました、と頭を下げてククルは弓削を見送った。彼は手を振り、行ってしまう。
 颯爽とした人だ、とククルは改めて感激してしまう。大和の男性は、みんなこんな感じなのだろうか……と思ったところで、ククルはくしゃみをした。
 店内の冷房で、体が冷えてしまったようだ。

 フラペチーノを飲み終わり、ククルはぼんやりと外を眺めていた。行き交う人は、相変わらず多い。せかせかと歩く人ばかりで、みんな何をそんなに急いでいるのだろう、と不思議に思う。
「……待たせたな」
 声をかけられ、顔を上げるとユルが傍に立っていた。彼は眠そうにあくびをかまして、ククルの前に置かれた、空になった容器を見やる。
「オレも何か飲もうと思うんだけど、お前ももう一杯頼むか」
「うん」
「何がいい?」
 どうやら、頼んで来てくれる腹積もりのようだ。ククルが注文口に行くと、時間がかかるせいかもしれないが。
「あったかいの。甘いやつ」
「……もうちょっと具体的に言えよ」
「えーと、うーん」
「わかったわかった。適当に頼んで来てやる」
 面倒になったのか、ユルは話を切り上げて行ってしまった。
 しばらくして、ユルはカップを二つ持って戻って来た。
 目の前に置かれたカップを「ありがとう」と言って持ち上げ、口につける。ほろ苦さと甘みが広がり、ククルは息をつく。
「おいしい。これ何?」
「カフェモカ」
「かふぇもか……」
 なんだか響きがかわいらしい、と思いながらククルはもう一口飲んだ。冷房とさっきの冷たい飲み物で体が冷えていたため、温かさにホッとしてしまう。
「さっきね、弓削さんが奢ってくれたんだよ」
 ククルの発言に、ユルは眉をひそめた。
「弓削が?」
「そう。注文で困ってたら助けてくれて、その上、奢ってくれたの。いい人だね」
「……あいつ、愛想はいいからな」
 ユルは肩をすくめ、カップを傾けていた。
「颯爽としてて、すごいなあ……。大和の男性って、みんなあんな感じなの?」
「んなわけねえだろ」
 一蹴されてしまったが、ククルは先ほどの弓削を思い出していた。温かな笑み、洗練された動作、柔らかい声。そう、まさに――少女漫画に出て来そうな男性ではないか。いつかユルが「こんな男いないだろ」と言っていたが、ユルの方が間違えていたことになる。
「何、にやにやしてんだよ」
「えへへ」
 上機嫌なククルとは裏腹に、ユルは不機嫌になったらしい。
「お前、気を付けろよ」
「へ?」
「あいつ、ああ見えてタラシだからな」
「……たらし」
 ぱちぱち、とククルは何度も瞬きをする。そんな風には、見えなかったが……。
「ああ、でも大丈夫か」
 急に、ユルの声音に意地悪な響きが滲む。
「さすがのあいつも、子供には興味ないだろうしな」
「こ、子供じゃないっ!」
 ククルが顔を赤くして言い募ると、ユルはからから笑った。何やらツボにはまったらしく、なかなか笑い止まない。
「笑わないでよ!」
「ああ、おかしい」
 私はおかしくない、と呟いてククルは頬を膨らませる。
 話を逸らしたくて、ククルはふと口を開く。
「ねえ、ユル」
「うん?」
「私、ちゃんとユルの荒みを治す方法探るからね。少しだけ、我慢して」
「ああ……そのことか。多分、命薬《ヌチグスイ》が鍵だよな」
 ユルは急に真剣な顔になり、ククルを見据えた。
「うん。今日はどう? ちょっとましに見えるけど」
「そういえば――今日は以前より、疲れてないな」
「そっか。実は、夜中にユルに触れたんだ。私の手が、癒しの力を持つのかもしれない。今日、色々試してみようね」
 ククルの提案に頷いたユルの表情はやはり、昨日よりは穏やかに見えた。
(私が来たこと、無駄じゃないはず。……必ず、捜すんだ)
 決意を新たに、ククルは拳を握り込んだ。