ニライカナイの童達
第二部
第八話 逡巡 2
家に帰ったククルは、急激な眠気を覚えた。今日は、ずっと気を張っていたようなものだから、疲労が襲って来たのだろう。
「……眠い。ユル、昼寝していい……?」
玄関に上がったところでそう言うと、ユルは呆れたように肩をすくめた。
「好きにしろ」
「では、お言葉に甘えて……」
ククルは今にも倒れ込みそうになる体に鞭打って、なんとか寝室まで辿り着いてベッドに飛び込んだ。すぐに、瞼が降りる。
それから何時間ぐらい眠ったのか。目を覚ました時にはもう、窓の外は昏かった。
ベッドから降りて、ふらふらと寝室の外に出る。壁時計の針は、七時を示していた。
(……よく寝た)
帰って来たのが四時ぐらいだったから、ざっと三時間ほど眠ってしまったようだ。
いい匂いがする、と思って台所を見やると、ユルが振り返った。
「あー、起きたか。そろそろ起こそうかと思ってた。運ぶの手伝え」
どうやら今夜は、ユルが料理を作ってくれたらしい。
頷き、台所に行くと、もう皿に盛られた料理が並べられていた。ククルはそれを机まで運ぶ。
皿を並べ終えたところで、二人で卓を囲む。ユルはリモコンでテレビをつけていた。しかつめらしい男性アナウンサーが、早口でニュースを読み上げている。
いただきます、とほぼ同時に言って二人は食べ始める。
ククルは何気なく、ゴーヤチャンプルーを口にし、目を見開いた。
「お、おいしい」
昨日ククルが作ったものとは、比べものにならない。何だろう、この滋味なる美味さは。
ユルはそう得意になるでもなく、淡々と食べている。
「何でこんな、上手なの? 誰かに習ったの?」
問うと、ユルの視線がテレビから外れた。
「あー、この時代に来る前だけどな。オレが人魚の島に落ち延びたことは、知ってるよな」
「うん」
ユルは本島から逃げて、八重山に来た。そこにあった島の一つが、人魚の島だ。ユルはしばらく、そこで倫と暮らしていたはずだ。
「しばらくは、お前も会った夫妻の家に厄介になってたんだが……一月後ぐらいに、空き家に移り住むことにしたんだ。そこで二人暮らしだったから、倫先生はオレに料理教えてくれたんだよ」
「……倫先生、料理もできたの?」
ククルは思わず、箸を落としそうになってしまった。
大陸の皇帝にも見えたことがあり、琉球の王があらゆる手段を使って、王子のために招いた才人――それが倫だ。そんな偉人だというのに、料理もできたとは――。
「料理は頭を使うんだって言ってた。それが面白い、ともな。……まあ、それでオレにコツを教えてくれたわけ。料理は、ほとんどオレ担当だったな。倫先生は島人から教えを請われたりして、忙しかったから」
「……」
それでなのか、とククルは納得した。家事がきっちりできるのも、その暮らしがあったからこそ、なのだろう。
「今と昔じゃ勝手が違うけどな――今のが楽だし。まあ、オレは昔習ったことを応用してるだけ」
短く答えて、ユルはお茶を口に含んでいた。
「ユルって、倫先生のこと本当に好きだったんだね」
思わず、言葉が零れ落ちた。ユルは不審そうに、ククルを見る。
「何だよ、いきなり」
「……倫先生のこと話す時、表情が和らぐもの」
「……」
ユルは返事をせず、ごはんに箸を着けていた。
ユルの中には今も、二人の人物がいる。倫先生と、清夜王子だ。倫先生はユルにあらゆることを教えた。清夜王子はユルに名前と存在価値を与えた。
二人を失った時の哀しみは、いかばかりか――想像するだけで、胸が痛んだ。
(私は、ユルの何にもなれない……)
ククルはユルが切り捨ててしまえるぐらいの存在なんだろう、と実感してしまう。
ユルはきっと、ククルみたいに離れたことを淋しくも思わなかったのだろう。自分ひとりで生活して、新しい世界を作って、違う人と関係を築いて。ユルの世界はどこまでも、ククルなしで完結してしまう。
淋しい、哀しい、切ない。そんな気持ちが渦巻く。
「どうした?」
声をかけられ、ククルは意識を戻した。
「ううん、何でもない」
ククルは首を振り、和え物に箸をつけた。
「魔物退治は、明後日するんだよね?」
「ああ。……あ、そうだ。明日、オレ大学行くから」
「大学? 勉強しに行くの?」
「いや、休みに入る前に、サークルの最後の集まりがあるんだ」
「さーくる?」
ククルはきょとんとして、首を傾げた。
「部活みたいなもんだな」
「へー。何に入ったの?」
「古書研究会と留学生交流会」
「へえー」
なんだか真面目なものに入っていて、驚いた。
「そっか、ユルも留学生かあ」
「一応な。ほぼ大和人扱いだけど」
「明日は、どっちの集まりなの?」
「古書の方。……お前、明日はどうする?」
問われ、ククルは視線を彷徨わせた。
「付いて行って、いい?」
「いいけど」
「えっ、いいの!」
許可されると思っていなかったので、思わず身を乗り出してしまった。
「一人にしとくと、要らないことしそうだし」
「しないし! 失礼なこと言わないでよっ」
むっとして、ククルはすまし汁を啜った。
「……ま、とりあえず明日の予定は決まりだな」
「うん」
ククルはわくわくしていた。大学ってどんなところなのだろう。
ぼんやりしながら、テレビを見やる。遠い国の戦地の、ニュース映像が映っている。
「ユルが、テレビ買ってるとは思わなかったなあ」
「オレが買ったわけじゃねえよ。前の住人が残して行ったやつ」
「ドライヤーと一緒?」
と聞くと、ユルは頷いていた。ふうん、と相槌を打ってククルは考え込む。
前から思っていたが、ユルは嘘はあまりつかないようだ。ただ、隠し事をするのだ。たまに人が来るから食器が余分にあるというのも、嘘ではなかった。ただ、それが女性だっただけで。
ユルの口ぶりからすると、今は交際していないようだ。ただ単に、彼女が帰省しているだけかもしれないが……。
しかし、もしユルが大学に入ってから付き合ったのだとして、今別れているというのは――どうも、期間が短すぎるのではあるまいか。
(うーん、でもおかしくはないのかな……)
聞きたくてたまらなかったが、昨日の「お前には、関係ないだろ」という台詞をまた言われるかと思うと、胸がぎゅうっと痛んだ。
今日は、体調が悪いのだからユルにベッドを譲る、とククルが主張し、その提案が受け入れられることになった。
寝支度を済ませた後、ククルはユルにベッドに寝転べと促す。
「何するんだ?」
問いながら、ユルは怠そうに横たわった。昨日よりはまし、とはいえ、やはり彼は憔悴しているようだ。
「ちょっと試してみたいことがあるんだ」
電気を消し、室内に闇を満たす。
「命薬《ヌチグスイ》」
名を呼ぶと、手に小刀が顕現した。碧い光が、刀身から放たれる。
ククルは命薬を手にして、横たわるユルの傍で膝立ちになった。そっと刀身を、ユルの頬に当てる。
気持ちいいのか、ユルの目が細められる。頬を、首を、肩を、小刀で撫でる。すると、いつの間にかユルは眠ってしまった。
(効果、あるみたいだね)
ホッとして、しばらく命薬でユルの体を撫でていた。
命薬から溢れる碧い光は眩しすぎず、優しい。だからか、まるで水底にいるような感覚に陥る。眠気を誘われ、ククルはあくびを噛み殺した。
聞こえるはずのない波音が聞こえる。琉球に戻ってしまったのだろうか、と考えながらユルは目を開いた。
傍らで、ククルがベッドに突っ伏すようにして眠っていた。その手にもう小刀はなく、浴衣の合間から覗く首飾りの碧い宝石がゆらゆらと光を湛えている。
体を起こし、大分疲れが取れていることに気付く。
「……大したもんだな」
起こさぬように小声で呟いて、ユルはベッドから降りた。
そっとククルを抱き上げると、ううんと彼女は呻いた。
ベッドに寝かせてやろうかと思ったが、明日の朝、喚いて抗議されても敵わないので、彼女の希望通りリビングで寝かせることにした。
足で扉を開けて、リビングに出る。電気をつけても、ククルは起きなかった。
おざなりに敷かれた敷布団替わりの毛布に横たえ、大きく開いてしまった襟を直してやる。掛布団をかけたところで、ユルはまじまじと彼女の寝顔を見下ろした。
『……倫先生のこと話す時、表情が和らぐもの』と言われたことを、思い返す。さっきの海の底にも似た碧い光のせいもあってか、久方ぶりに倫先生との生活を思い出してしまった。
逃亡した先の、人魚の島。
倫はそこでも、ユルに色々と教えてくれた。大陸の皇帝にも拝謁した家庭教師が、まさか家事も得意だと思っていなかったユルは、大層驚いたものだ。
「おや、ユルくん。料理は頭を使うのだよ。他の家事もね。女人にだけ任せていては、もったいないというものさ」
倫は家事をむしろ楽しんでいたようだ。
それだけでなく、倫は授業も続けてくれた。教科書はなくとも、倫はほとんどの書物の内容をそらで覚えていた。それを島人から買った紙に書き写しながら、倫はユルに知識を与えた。
「勉強は止めてはだめだよ、ユルくん」
「どうしてだ、先生。オレはもう、城に帰るつもりはないのに……」
「どんな境遇にあっても、学問は君を助けてくれるはずだ。だから、続けなさい。一見役に立たないと思っても、いずれ役に立つ。いや……役に立たなくてもいい。ともかく学問は君の血となり、肉となるのだから」
その時、ユルは倫の言ったことを完全に理解できたわけではなかった。だが、ほとぼりが冷めたらこの諸島から発って大陸に行く予定にしていたこともあり、そこで学問は必要になるかもしれないと、漠然と納得しただけだった。
粗末な暮らしだった。ずっと御内原《ウーチバラ》で暮らしていたユルは、戸惑いっぱなしだった。身の回りのことを自分でして、倫の時間が空けば学問を習って。
穏やかな時間だったけれど、自分の存在が清夜を弑した事実は頭を離れず、ユルは時々煩悶した。布団に入った後、黒々とした絶望をどうにもできず、のたうち回ることもあった。
「ユルくん。これからは、王子になろうとしなくていいんだ。自分らしさを見つけるために、色々なことを経験しなさい」
倫は優しく諭してくれたけれど、長年影武者としてしか生きて来なかったユルは、どうしていいかわからなかった。
字は、清夜の字を真似たもの。太刀筋は彼の太刀筋に、合わせたもの。学問も清夜と同じぐらいできる。
性格はショウとは大分違うけれど、いざとなれば自分を抑えて彼のように振舞える。品よく笑える。優雅に舞える。朗々と歌える。
ユルにとって、自分らしく生きる、というのはとても難しいことだった。
懊悩しながらも、二人暮らしの日々は続いた。その平和な時間は、幸せに似ていて。簒奪者である自分が幸せになることに強い抵抗を覚え、ユルは板挟みになった。
その幸せも、そう時間が経たない内に奪われたのだが――
「んー」
ククルのうめき声で、ユルはハッと我に返った。
電気の光が眩しいのか、ククルは眉をひそめていた。
悪い悪い、と呟いてユルはククルの目を平手で覆ってやる。
すぐに立ち上がり、電気を消して寝室に帰る。
トウキョウの夜は、完全に暗くならない。人工的な光が、窓の外に見える。
あの人魚の島で見た夜空とは、似ても似つかない。ここは異国だ。生まれた時代なら、行くことも大変だった……大和。
急激に、疲労と眠気が襲って来て、ユルは倒れ込むようにしてベッドに横たわった。
過去を回想したのが、悪かったのだろうか。昔の夢を見てしまった。
ショウはとても優秀で、ユルは追いつくのが大変だった。だけど、一つだけユルの方ができることがあった。――剣術だ。
大和から招かれた剣士の師範の下で、ショウとユルは剣をならった。
双子でもないのに、ショウにそっくりなユルのことを師範が初め不気味そうに見ていたことを、よく覚えている。
だが、時が経つ内に彼は、そんなことを忘れたように熱心に指導してくれた。ユルは、筋があると褒められた時、とても嬉しかった。
御内原に帰ったユルは、廊下の向こうから女官を連れて歩く聞得大君を認めて、声をかけた。
「母上」
あの時はまだ、あの女のことを母と呼んでいたのだ。
「……おや。なんだか、嬉しそうだな。どうした?」
「オレ、剣術の先生に褒められたんだ! ショウも、ユルはすごいねって言ってくれた!」
そこで、聞得大君の眉がひそめられる。
「王子より、お前の方が剣術で上になったと、言いたいのか」
「え? う、うん」
きっと、喜んでくれると思ったのだ。だが、いきなり頬を張られてユルは目を見張った。
「この、痴れ者! 王子に勝ってはならん!」
「どう、して」
「どうして、だと?」
顔を近付け、母は笑った。
「どうしても、だ。お前は、清夜王子の写しにならねば。勝っても負けても、いかん。次は、手加減するのだぞ。警戒されては、本も子もない!」
もう一度母はユルを打ち据え、戸惑う女官たちに「捨て置け」と告げて、行ってしまった。
廊下に座り込んだユルは、飛んで来た女官に助け起こされながら、呆然として母を見送った。
――――勝っても負けても、いかん。
頭の奥で、あの女の声が響く。
目を開けると、窓から陽の光が差し込んでいた。起き上がり、窓の外に視線をやる。
かつて暮らしていた世界とは似ても似つかない、近代都市。あの紺碧の海もない、異国。
故郷が全く恋しくない、と言えば嘘になる。だけどそれ以上に、離れて安堵した面がある。
脳裏で響く声は、外から聴こえて来た車の音で、かき消されるようにして、聞こえなくなっていった。