ニライカナイの童達

第二部

第九話 学問


 ククルとユルは朝食を済ませた後、大学に向かった。
「ふわあ……大きい」
 夏休みということもあってか、大学内は閑散としている。建造物の大きさ、敷地の広さに驚いて、ククルはきょろきょろしてしまった。
 城《ぐすく》より大きかったりして、と思ったが――さすがに城の方が大きかっただろうか。
 木陰が多いので、少し涼しい。蝉時雨を意識しながら、ククルはユルに付いて歩いて行った。
 広い廊下を歩き、ユルは一室の前で足を止めた。からり、戸を開く。
 中には誰もいなかったが、机の上に荷物が置かれていた。今ここにいないものの、先客がいるようだ。
「わー、本いっぱい」
 本棚に、所狭しと本が並んでいた。
「古書研究会って、何するの?」
「古い書籍を読み解いたり、研究したり……って名目だが、各々勝手に読んでるのが実態だ。ゆるい集まりなんだよ」
 ユルは本棚から一冊取り出した。和綴じ本のそれの題目は、古い琉球語だった。
「あ、琉球語!」
「それでも読んで待ってろ。オレ、飲み物買いに行って来る。お前もいる?」
 頷くと、何がいい、と問われたのでククルは「さんぴん茶!」と元気に答えた。
「さんぴん茶……あったっけな……」
 呟き、ユルは部室を出て行ってしまった。
 ククルは、ぱらぱらと本をめくった。いつの時代の本だろう。
 椅子に座ったところで、戸の開く音がした。もうユルが帰って来たのかと思ったが、そこに立っていたのは見知らぬ青年だった。
 でっぷりした体形に、丸眼鏡。暑いのか、しきりにタオルで額を拭いている。
「……んん? 君、誰?」
 問われ、ククルは慌てた。
「あ、あの。私、ユルの、その、親戚で……」
「んー? ああ、雨見くんが連れて来たのか」
 彼はククルを、まじまじと見つめる。
「素朴な妹系か……。ちぇ、これだからイケメンはずるい」
 妹系、とはどういう意味なのだろう。ククルは戸惑いながらも、立ち上がった。
「金髪美女と付き合うわ、妹系を連れて来るわ――全くイケメンってやつは」
 彼は笑いながら、机の上にあった鞄に手を伸ばした。
「金髪美女?」
 ククルが問うと、彼は動きを止めた。
「あれ、知らないの?」
「う、うん」
「えーっと、僕の口から言うのはアレかな」
 ククルは、じーっと彼を見つめた。教えてほしい、との念をこめて。
「ちょ、そんな子犬みたいな目で見ないでほしいなあ。……君、故郷から来た幼馴染兼恋人とかじゃないよね?」
「……違う。親戚」
 その答えを聞いて、彼は「うーん」と唸った。
「まあいいか、内緒にしろって言われてないし。雨見くんは、最近まで独逸《ドイツ》出身の金髪美女と付き合ってたんだよ」
「ど、どいつ……」
 西欧の国だっけ、とククルは必死に考える。
「どうして、独逸の人と?」
「えー、留学生交流会で知り合ったはずだよ。僕も詳しくは知らないけどね。まあ、安心しなよ。もう別れたはずだから」
「どうして別れたか、知ってる?」
 おずおずと聞いてみると、彼は肩をすくめた。
「彼女の方が、事情があって母国に戻らないといけなくなったんだとさ。それで別れることになったんだろう」
「……へえ。どんな人だった?」
「何度か見たぐらいだけど、悔しいぐらいの美人だったなあ。あ、そうだ。エリカに似てたな」
「えりか?」
「えーと、待って。これこれ」
 首を傾げたククルの前に、彼は携帯の画面を突き付けた。
 アニメ絵の、金髪美少女だった。やたら目が大きく、豊かな胸が強調されている。
「……そうなんだ」
 いまいち把握できなかったが、とりあえずかなりの美女なのだろう。
 ククルが目をぱちぱちさせている間に、彼は携帯をポケットに仕舞っていた。
「ていうか、肝心の雨見くんはどこに行ってるんだい?」
 噂をすれば影、という具合に、彼が口にした途端に戸が開いてユルが入って来た。
「……あれ、河東《かとう》」
 河東、というのが、この青年の名前らしい。
「どうも、雨見くん。いやあ、びっくりしたよ。部室に戻ったら、いきなり女の子がいてさ。もしかして、僕の幼馴染――いないけど――が、僕を追って来たのか!? それとも義理の妹か!? すわギャルゲーの始まりか!? ……って興奮したら、君の知り合いなんだもんなあ。君のギャルゲーかよ」
 河東がまくしたてると、ユルは呆れたようにため息をついてククルの傍に歩み寄って来た。
「さんぴん茶はなかったから、緑茶にしたぞ」
「うん、ありがとう」
「返事しろっ!」
 河東がじたばたすると、ようやくユルが振り返った。
「暑いのに元気だな。……まあ、紹介しとく。こいつはオレの親戚。ククルっていう」
「ええと、和田津ククルです」
 今更ながら、ククルは名乗って頭を下げた。
「ども、河東です。雨見くんの親戚ってことは、琉球の子だよね。君も、こっちに住んでるの?」
 問われて、ククルは首を横に振った。
「ううん、普段は琉球にいます」
「ええっ。ってことは、大和には観光に来たのかい」
「……はい」
 本当はユルを迎えに来たのだが、そういうことにしておいた方がよさそうだと判断し、ククルは頷いた。
「それで大学にも見学に来た感じ? この後の集まりにも出る? 結構専門的な話するから、つまらないかもしれないけど」
 河東は意地悪ではなく、純粋に心配で言ってくれているような口調だった。この後他の部員が来るのだろうし、人見知りなククルは一旦出ておいた方が気楽だと考えた。
「じゃあ、ユルが部活出てる間は私、大学を見て回ろうかな。いい?」
 ククルが首を傾げると、ユルは小さく頷いた。
「そんなに、時間かからないと思う。終わったら電話する」
「うん。それじゃ、お邪魔しました」
 河東に一礼して、ククルは部室を出た。
 さっき聞いた話が消化しきれていないこともあり、一人で考える時間がほしかった。
 しんとした廊下を歩き、ククルは適当に大学内をうろつくことにした。
 広々とした空間に、人はまばらで。考え事にはもってこいだった。
(別れた、のは確定なんだよね)
 しかし、まさか外国の……しかも西欧の人と付き合っていたとは、予想外だった。
 どうして、もやもやするのだろう。
 あれ、とククルは気付いて足を止めてしまった。
 もしかして、これが――
(独占欲――)
 首を振り、ククルはうつむいた。
(兄様とトゥチ姉様のことを祝えたように、いつか祝えるのかな)
 子供じみた独占欲はきっと、いつか消えてくれるだろう。将来、ユルが誰を選ぼうと祝福しなくては。姉妹として……。



「いいなあ、妹系。水臭いなあ、いいなあ、あんな親戚」
 河東は扇子で自分を扇ぎながら、ひたすら羨ましがっている。
 うるせえな、と毒づいてユルは本を広げた。
「なんか、純朴そうでいかにも萌えーって感じだよね」
「いい加減やめないと、はっ倒すぞ」
 雨見くん怖ーい、と河東は体を震わせていた。
「つーか、怒らないので言いなさい。あの子、昔の彼女とか?」
「……ちげえよ。ただの親戚。妹みたいなもん」
 頬杖を付いて答えると、河東は納得するどころか悔しそうに身をよじらせていた。
「正に妹系! イケメンはやっぱり有罪!」
 ひとしきり騒いだ後、河東は、はたと動きを止めた。
「ん? あの子、君より年下ってこと?」
「いや、同い年だ」
「ってことは、大学生?」
「違う。あいつは、故郷でノロやってんだよ」
「ノロって……ああ、琉球の――巫女さんみたいなものだっけ」
 河東は思い至ったらしく、「へー」と感心していたが……
「い、妹系で巫女さんって! やっぱりギャルゲーじゃないか! ずるすぎる! ……ああでも、ギャルゲーの巫女さんにしては胸が足りな……」
「殺すぞ」
「ごめんなさい」
 河東は速攻で謝っていた。
「雨見くん、いつも以上に怖いんだけど? 止めてよ? やっぱり、妹系には甘いんだねー」
 からかうように言われて憤然とした時、部室の戸が開いて女子学生が二人、男子学生が一人入って来た。
「ちわっすー。部長は忘れものしたから遅れるそうですよー」
 伝言を口にしながら、男子学生が先に入って来る。
「部長、ルーズだなあ」
 河東は笑ってから、ユルに向き直った。
「じゃ、部長抜きで先に始めちゃうか。……ああ、そうそう。雨見くん。君の捜してた本、見つけて来たよ。後で渡す」
「悪いな」
「うん。しかし、君って結構オカルトな趣味があるんだねえ」
 まあな、と答えてユルはいにしえの書物に目を落とした。



 学内を一通り見て回ったククルは、校舎の外に出た。声が聞こえる方向に足を進めると、テニスコートがあった。
(大学生といえば、テニス……な気がする)
 というか、あまり知識がなかったククルは大学の部活と聞いて、ユルはテニスサークルに入ったと思ったものだ。
 ユルがテニスなんて似合わないか、と若干失礼なことを思いつつ、フェンスの向こうで楽しそうに打ち合う女子を見やる。
 なんとなしに、高校を思い出してしまった。高校生活は、学校というものに慣れていないククルには大変だったし、緊張してばかりだった。だが、今思い出せば不思議と懐かしい。
 友達もできたし、新鮮な体験ができた。ユルも、なんだかすごく優しかったような……。今が優しくない、というわけではない。ただ、あの時はずっと傍にいて、気遣ってくれていたように思う。
 そういえば、とククルはふと思う。
 もしかしてユルは、高校の時にも彼女がいたのだろうか?
 ククルは考え事をしながら、白っぽい服のテニスウェアに身を包んだ女性を見つめる。
 まさか、と一蹴しそうになる。でも、ユルは隠し事をするから――その可能性だって、ゼロじゃなかったのだ。
 特に、三年生になってからは、少し気まずい関係が続いた。あの時、一緒にいた時間は少ない。
(ユル、妙にもててたしなあ)
 ククルはため息をついて、その場から離れることにした。
 別に、ユルの交際関係を把握する必要なんてないのだ。それこそお節介、だろう。婚約者だよ、とククルにトゥチを紹介してくれたティンと、ユルは違うのだし――。
 ――関係、ないだろ。
 あの硬質な一言は、ククルに予想以上の衝撃を与えていたのだった。
 その時、電話の音が鳴り響いた。ククルは手提げ鞄から、携帯を取り出し、受ける。
「はい」
『今、終わったから。お前今、どこにいる?』
 ユルの声だった。まあ、他にかけて来る人もほとんどいないので、ユルだと思って受けたのだが。
「外にいるよ。テニスコートの前」
『そうか。じゃあ、外で待ち合わせた方が早いな。門のところに行っといてくれ』
「わかった」
 承諾し、電話を切って鞄に仕舞う。
 さあ門に向かおうと、ククルは歩き始めた。考え事をしながら、ぼんやりふらふら歩いていると、突如どんっと誰かにぶつかってしまって、ククルは尻もちをついた。
 見上げると、背の高い茶髪の男性が大げさに嘆いた。
「あー、いったあ。骨折れちゃったじゃん。どうしてくれんの」
 彼の台詞を聞いて、連れの男性が大笑いしていた。
「……ご、ごめんなさい」
「あっはは、この子信じてるよ!」
 彼は声をたてて笑う。明らかに嘲りを含んだ笑い声に、ククルは唇を噛みしめる。
「合コン中止になって凹んでるのに、ぶつかられて俺カワイソー。君が、慰めてくれる?」
 彼は屈んで、ククルの顔を覗き込んだ。
「あれ。君、化粧もしてないの? こりゃ、微妙なの引っかけちゃったか」
「……」
 一体どう答えればいいかわからないが、とにかく馬鹿にされていることはわかった。
「……こいつに、何か用か」
 声が響いて、いつの間にかユルがククルの前に、庇うように立っていた。
「え? いやあ、この子にぶつかられたから謝罪を求めているだけ」
「悪かったな。オレから謝っといてやろう。これで満足か?」
 ユルの睨みに気圧されたのか、青年たちはにやにや笑いながら行ってしまった。
 ユルは黙って、ククルに手を伸ばす。有難くその手を取って、立ち上がる。怪我は、と端的に問われて「大丈夫」と答えた。
「あ、ありがと。ぼーっとしてたら、ぶつかっちゃって。気を付けないとね」
 わざと明るく言ってみせたが、無理しているのが伝わったのだろう。ユルは首を傾げた。
「何か言われたのか?」
「……ううん。大丈夫だったよ」
「なら、いいけど。――何か食って帰るか」
 ユルはあくびをかみ殺しながら、歩き出した。ククルは彼の後を追う。
「何食べるのー?」
「……そういや、お前、まだ大和らしいもん食ってないんじゃねえか」
「それもそうだね」
 昨日のお昼はパスタだったし、夕食は琉球料理だった。しかし、大和らしい料理とは何だろう。
「大和っぽい料理って何……?」
 ククルが尋ねると、ユルは顎に手を当てて考え込んだ。
「うーん……昼飯で大和の料理といえば……そばとか、うどんとか?」
「なるほど! トウキョウは、どっちのがおいしいの?」
「トウキョウなら、そばだろ」
「じゃあ、おそば食べよう」