ニライカナイの童達

第二部

第九話 学問 2


 かくして、二人は昼食の内容を決め、大学にほど近い蕎麦屋に入った。
 ククルもユルも、天ざる蕎麦を頼んだ。
「おいしい……」
 ククルは、しゃくしゃくと、しその天ぷらを齧る。しみた天つゆが、何ともいえない滋味を出している。蕎麦の方は喉越しがよく、今日のような暑い日にはぴったりだった。
「いらっしゃいませー」
 店に入って来たのは、小奇麗な恰好をした女子二人組だった。大学生だろうか。
(みんな、ばっちり化粧してるな……)
 ククルはまだ、日焼け止めを塗っているぐらいである。そろそろ化粧をしなくては、と今日実感してしまった。
 頬に触れると、その動作が気になったのか、ユルが目をすがめた。
「どうかしたのか?」
「……私も、お化粧した方がいいかなって」
「はあ? 何だよ、いきなり」
「なんとなく……。すれ違った女の人、みんな綺麗にお化粧してたから」
 ククルの理由を聞いて、ユルは肩をすくめた。
「好きにすりゃ、いいんじゃねえの」
「うん……」
 相槌を打ちながら、考えてしまう。ユルの、別れた独逸人の彼女は、どのぐらい美人だったのかと。聞けば嫌な顔をされそうだから、聞かないけれども。
「そういや、この後どうする? 観光してもいいけど。お前、修学旅行行けなかっただろ」
 突然の提案に、ククルはちゅるっと蕎麦を啜って目線を上げた。
 ユルはとっくに食べ終わったらしく、頬杖を付いてこちらを見ている。
「私ね……ミッチーランドに行きたいの」
「え。あそこは、今からじゃ厳しいな」
 ユルは難しい顔をして、腕を組んだ。
「他のところは諦めてもいいんだけど、あそこだけは諦めきれなくて」
「行くとしたら、明々後日になるな……」
「そっか、明日は魔物退治だものね」
「ああ。朝方まで、かかるかもしれないからな。明々後日でもいいなら、付き合ってやるけど」
「いいの!? やった!」
 ククルは思わず万歳をしてしまった。斜め前に座っていた一人客の会社員男性に、ぎょっとして見られたが、構やしない。
「今日はもう、いいのか?」
「うん。疲れちゃった」
 ククルはため息をつき、蕎麦をつゆに浸す。ただ大学に来て、うろついていただけなのに、妙に疲労していた。
 明日は魔物退治なのだから、ユルも休んでおいた方がいいだろう。ククルは正面のユルを、じっと見つめる。荒みは、大分ましなようだ。しかし、完全に取れたわけでもない。何か間違っているのだろうか。
「ねえ、ユル」
「うん?」
「ユルは、契約を思い出したんだよね。それって、私に関することは思い出してないの?」
「……ああ、そのことか。オレが思い出したのは、大和で魔物を狩ることが使命ってところだけ。天河《ティンガーラ》が魔物を引き寄せるってことは、思い出したんじゃなく気付いただけだし……本当に、一部しか思い出してない。お前に関することは、さっぱり」
「そっか……」
 ちゅるん、と蕎麦を啜り終えて、ククルは蕎麦湯を啜った。
「私たちの記憶って、わざと神様が消したってことはないよね?」
「それはないだろ。多分、ニライカナイから帰還する時に負担がかかったせいだ。帰りは、二人とも行きより力がなくなっていたはずだからな――。だが、敢えて神々がオレたちを思い出させることはないだろう。契約なんだからな。オレたちが使命を果たさなければ、神々がまた干渉するだけの話だ」
 ククルはユルの説明を聞いて、真剣な顔で口をつぐんだ。
 神々の干渉。またティンやユルや、ククルのように神々に振り回される人間が出てきてしまうかもしれない。――これは一種の、神々との駆け引きなのだ。
「ユルは、どうやって思い出したの?」
「……どうやって、だったかな」
 ユルが考え込んだ時、女性店員が空になった湯呑に冷たいお茶を注ぎ直してくれた。どうも、と礼を言ってユルは茶を一口飲んでから、話を続ける。
「ある日、ふっと思い出したんだよ。……ああ、オレ大和に行かなくちゃいけないんだって――。進路考えてた時だったか」
 ――魔物が溢れれば、災いも溢れる。災いは海を通して琉球に流れ来る。災いを防ぐため、魔物の溜まる都市トウキョウに行き、魔物を狩ること――。
 そんな声を思い出したのだと、ユルは語った。
「なるほどね……」
 ふと、ククルは窓の外を見やる。トウキョウは今日も、人で溢れている。人が多ければ、負の感情はそれだけたくさん溜まる。魔物はそれから生まれることもあり、負を栄養に育つこともある。育った魔物は災いを引き起こし、人に負の感情を与える――。
「でも、すぐにはトウキョウに行かなかったよね。それでも大丈夫だったのかな」
 ニライカナイから帰って来て、ざっと二年半は琉球に留まっていたことになる。
「多分、猶予があったんだろ。オレたちの力が目覚めたのは、帰って来て一年後だし。すぐに行かないといけない、ってわけでもなかったんだろう」
「うーん、なるほど。神様も、待ってくれたのかな」
「待ってる、というよりもあっちの方が時間過ぎるの遅いから悠長なんだろ」
 ユルは相変わらず、遠慮なくものを言う。もっとも、ユルは自分の親という感覚があるからかもしれないが。ククルにとって、海の神は祖先でもどこか遠い存在だ。ティンを殺したことは許せないが、それは祖母が神に願ったせいもある。海神だけが悪い、というわけでもない。
 それに、神々に善悪があるとは思わなかった。人間と感覚が違いすぎるだけで。その“ずれ”が、あの悲劇を引き起こしたとも言えるのだが。
「そろそろ行くか」
 ユルが伝票を持って立ち上がったので、ククルもゆっくりと腰を上げた。

 家に戻り、ククルはリビングでぼーっとしていた。暑さでやられてしまったのだろうか。普段、もっと暑いところに住んでいるのに、不思議なものだ。
「ククル。こっちの部屋来い」
 ユルに促され、寝室に入る。さっきつけた冷房はまだ効いていなかったが、リビングよりも若干涼しい。
「ちょっと寝たらどうだ?」
「うん、そうする」
 なんだかとても眠かった。ククルはばたん、とベッドに倒れ込む。
「お前、この時代に来てからよく眠るよな」
 布団をかけてくれながら、ユルが呟く。
 この時代に来てから、というのは間違いだ。ククルは昔からよく眠っていた。霊力《セヂ》が人より高いので、負荷がかかっているのかもしれないと、祖母に言われた。
 ただ、ユルと旅している時は、眠ってばかりではいられなかったのと、気を張っていたので、今ほど眠っていなかっただけだ。
 そう説明しようと思ったのに、眠すぎて舌が動かない。
「……ククル。まだ、帰りたいか?」
 問われ、ククルは眠りに落ちかける頭で必死に考える。
 帰る、とは琉球にということだろうか。たしかに、滞在三日目にしてもう疲れ切っていた。異邦の空気に慣れないのか、現代的な町に慣れないのか――どちらもだろう。
「……かえり、たい」
 本音を零すと「そうか」と声がして、ユルが離れる気配がした。

 ――それから、どのぐらい眠ったのだろう。かりかり、と何かを書く音で目を覚ました。
「ううん……」
 もう窓から見える空は、橙色だ。夕方まで眠っていたとは、と呆れながらもククルはかけられた布団の中で縮こまる。
 冷房が効いたのか、すっかり体が冷えていた。
 顔を横に向けると、ユルの背が見えた。机の前に正座して、何か書いている。
 ククルはベッドから降りて、ユルの隣に座った。
「……起きたか」
「うん。ユル、何書いてるの?」
「写本。コピーすりゃ早いんだけどな。こっちの方が、頭に入るから。覚えたいところは、たまにこうしてる」
 へえ、と呟いてククルはユルの手元にあるノートを覗き込んだ。お手本のように綺麗な漢字が、書き連ねられている。昔の漢文だろうか。
「前から思ってたけど――ユルって、字が綺麗だね」
 一見荒々しい性格だし口が悪いのに、字がきっちりしていて綺麗なのは不思議だ。こういうのを、“ギャップ”と言うのだと友人の比嘉薫が教えてくれたっけ、とククルはつらつら考える。ギャップ萌え、というのがあるらしい。ユルが、やけにもてるのは、こういう要因もあるのだろうか。
「……ま、オレの筆跡じゃねえけどな。ショウの字が綺麗だったから、オレの字も綺麗に見えるだけ」
 その一言に、ククルは凍り付いてしまった。
 そうだ、ユルは何から何まで清夜王子を模倣できるようにしたのだった。
「ご、ごめん」
 謝ると、ユルは目をすがめてククルの頭を叩いた。
「別に、傷ついてねえっつの。……ただ、オレはわからないんだ」
「わからない?」
「ああ。オレらしい字を書こうと思っても、無理だし――。……オレって一体、何なんだろうな。もう真似る必要もないのに、癖が消えないんだ」
 自分って何なんだろう、とユルにしては弱々しい声が零れる。
「……ユルは、王子と性格は全然似てないんでしょ?」
「――それだって、いつでも消せる個性だけどね?」
 別人のような声音になって、ユルはククルに微笑みかけた。ユルが到底浮かべることのないような、淡い笑み。
 ククルは、思わず後ずさる。
 これが――ショウ。本物の清夜王子。
「びっくりしたか? ……いつだって、オレはこうやってショウになれるんだ。今のオレの口調や性格だって、母親やショウに反発するために形成したもんだ。どっちが素か、わかりゃしない」
「そんなことないよ。私、いつものユルのがいい……。反発して形成した性格だって、長い時間を経たらユルに染みついて、ユルになって行くよ」
「本当か?」
 ユルはククルの肩に手を置き、顔を近付けた。
「ショウの性格の方が、穏やかでティンの方に近いと思うけど? ……君は、こっちの方が気に入るのでは?」
 また、あの別人のような声音と口調と顔つきになって、彼は囁く。
 ククルは驚きすぎて、すぐには答えられなかったが、なんとか震える声を絞り出す。
「や、やだ。口が悪くて、素っ気ないユルのがユルらしいよ……。止めてよ、そんなこと言わないでよ」
 すると、ユルはクッと笑った。
「悪い悪い。ちょっと、悪ノリしちまったな。筆跡はともかく、性格はまあこっちが素だな」
「も、もう! びっくりしたよ!」
「悪いって言ってるだろ。詫びとして、今日はオレが夕飯作ってやるよ」
 え、と呟いた隙に、ユルはもう立ち上がっている。単にそれは、ククルの料理を食べたくないだけではないだろうか。
「まだゴーヤ残ってたよな。お前、どんだけ持って来たんだよ全く。三日連続食うことになるとは思わなかったぞ」
 ぶつぶつ呟いて、ユルは寝室を出て行ってしまう。
 残されたククルはふと、机の上に置かれたノートに目を落とした。
 整然とした字が並んでいる。その整然とした様は、さっき見たユルの演じたショウ――清夜王子を思い出させずに、いられなかった。

 二人で食事をしながら、テレビをぼんやり見る。
 テレビには、相変わらずニュースが映っていた。ユルはニュース以外見ないのだろうか、とククルは首を傾げながら味噌汁を啜る。
 ユルの作ってくれたごはんは、今日もおいしい。
「あのね、私も、普段はもっとおいしいの作れるんだよ。一昨日のは、たまたまっていうか」
「……はいはい」
 ククルは訴えたが、ユルは気のない返事をするだけ。
 むう、と頬を膨らませながら、ゴーヤの揚げ物に箸を付ける。ゴーヤはククルがたくさん持って来てしまったのでまだあったが、他の食材が切れていたので、先ほど二人で近所のスーパーに買い物に行った。
 当たり前だが、琉球のスーパーとは並んでいるものが違っていたのでククルは興味深く観察した。ユルの言った通り、さんぴん茶はジャスミンティーになっていた。
 いつか、ユルもさんぴん茶のことをジャスミンティーとか言い出したりするのだろうか。
 ククルはコップに入れた、さんぴん茶をこくりと飲む。
「ねえ、ユル」
「何だよ」
「さんぴん茶って、大陸のあの国にもあるんだよね」
「ああ、華《ファ》のことか。あっちから来たからな」
 大陸の大国は時代を経て何度か国号が変わった。今は華国と呼ばれている。琉球との所縁が深く、あらゆる文化や事物は大陸から伝わったという。また、ユルの恩師・倫はその国出身だった。そのため、ユルは何と昔の大陸の言葉がペラペラだというから驚いたものだ。だが、時代を経て少し言語が変化したため、ユルは大学でその言語を学び直しているのだという。
「華の国では、さんぴん茶のこと何て呼ぶの?」
「茉莉花茶《モーリーファーチャ》」
 本場の発音で言ってくれたので、ククルは思わず「おおっ」と言ってしまった。
「……ユルって、華の国の言葉、学び直してるんだよね。すごいねえ」
「一応昔のは身に付いてるんだから、今のも勉強しないと勿体ないだろ」
 ふうん、とククルは返事をしてお茶を啜る。
 ユルは、なんだかんだ勉学が好きなのかもしれない。現代大和語でも、あわあわしているククルから見ると、ユルの脳はどうなっているのか不思議なぐらいだ。
「華国に、行ってみたい?」
 なんとなしに、問うてしまった。すると、ユルの表情が少し陰りを帯びた。
「……そうだな。倫先生の形見でもあれば、持って行きたいな……。倫先生の、故郷に」
 その悲哀に満ちた声を聞いて、胸が締め付けられるように痛む。また、思い出させてしまった。
「その時は、私も一緒に行っていい?」
 お願いしてみると、ユルは短く「いいけど」と答えてくれた。了承してくれると思わなかったククルは、「わあ」と目を見開く。
 嬉しい。そこまで、歩み寄ることを許してくれるのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。
 ふと、さっきの清夜王子の真似をしたユルを思い出す。あのユルは――ときめくどころか、むしろ怖かった。まだ彼は、深い闇を抱えている。
 姉妹として、その闇から解き放ってあげたいと、ククルは強く思った。