ニライカナイの童達
第十三話 帰還
故郷の白い砂を踏みしめて、ククルは家の前に立つ祖母に頭を下げた。
「ばば様、ただいま帰りました」
「――おかえり、ククル。それに、ユル。挨拶回りの旅、御苦労だったね」
祖母の厳しい顔つきはやわらぐこともなく、形式的に言葉を紡いだ。
「中に、お入り。あんた達が帰って来るってことは、胸が騒いだからわかったよ」
祖母に促され、ククルとユルは久方ぶりに懐かしい家の中に入ったのだった。
夕餉を終えた後で、祖母はククルとユルを自室に招いた。
「何か言いたいことが、いっぱいありそうじゃないか」
「……当たり前だよ。ばば様、ひどいよ!」
泣きそうになるところを、堪える。以前のククルだったら、泣いていただろう。
今は、祖母をしっかりと見据えて会話せねばならなかった。その時に、涙や嗚咽は邪魔にしかならない。
「ばば様は、ティン兄様を無理矢理クムさんから奪い去ったんだ」
ふう、と祖母はため息をついた。
「そうせねば、お前が……」
「私と兄様を結婚させないために? そんなこと、クムさんにちゃんと言ってあげれば――」
「誰からどう聞いたか知らないが、あの女はティンを生んだ時に既に狂い始めていたんだ」
衝撃的な新しい事実を聞いて、ククルはたじろいだ。
「嘘でしょ?」
「嘘ではない。神と交わして子を生むのは、想像以上に体にも精神にも負担を掛けるものなんだ。私達の祖先も、王族の祖先も、神の子を生んだ女は長生き出来なかったらしい。古代でそれなんだ。ニライカナイと大きく離れたと言われる今、母体に掛かる負担は、もっと酷いだろうよ」
ククルはうつむき、考え込んだ。
聞得大君も正気に見えたが、狂気をはらんでいたことは確かだった。
「だから、ばば様はクムさんからティン兄様を奪って良いと思ったの?」
「そうだ。説得が通じる相手じゃあ、なかった」
「だから私の妹と引き換えに、王府に頼んだんだね」
「そこまで、知ったのかい」
祖母が呻いても、ククルは構わず続けた。
「クムさんを、あのままにして?」
「援助は本人が受けたくないと言ったんだ。今更、何なんだい?」
ククルは、かっと頭に血が上るのを覚えた。
祖母には正しい面もある。だけど、あまりにも冷たい措置だった。
「兄様を私の“兄”にしたって、海神の意向は変わらなかったんでしょう?」
「……ああ。わしだって、神の意志には逆らえなかった。だから、お前が十四になったら、ティンと結婚させようと思っていた」
「それで――」
また、泣きたくなった。
自分は、死ぬために育てられていたようなものだ。
「まさかティンが、神に逆らうとは思っていなかった。トゥチと婚約すると宣言した時、問い質したら“考えがあるから大丈夫”とだけ私達に言っていたからね。まさか、海神に命を捧げるとは」
「ティン兄様は、最初から死ぬつもりじゃなかったと思う」
無論ある程度、命の危険は覚悟していただろう。しかし、まさか海神があっさりと自分を死なせるとは思っていなかったのではないか。
「私をユルと都まで行かせたのは、どうして?」
「そいつが、私を脅したからさ。首に刃物を当ててね」
祖母はじろりとユルを睨みつけたが、彼は動じた様子も見せなかった。
それならば仕方ない、と引き下がる気も起きなかったが、責める気持ちも湧いて来なかった。
祖母にとって、ククルは“神に等しい子を生んでいつか死ぬ存在”でしかなかったのだ。
「ばば様、私はこれから――」
どうすれば良いのだろう。
「何も変わらないよ。ティンが居ないから、このユルと組んで兄妹神として祭祀を頼むよ。あとは、見合いでも何でもして血をつないで欲しい」
祖母はここで初めて、頭を下げた。
祖母の部屋を出て廊下を歩いていると、後ろからユルの声が掛かった。
「あれで、納得したのか?」
振り向き、ククルは首を横に振る。
「納得出来るわけ……ないよ」
ぼろぼろと、涙が零れ落ちた。
本当なら、泣き叫んでこんな家なんて出て行きたかった。
「お前が嫌なら、ここを出て行くか?」
心を読んだようなユルの言葉に、ククルは顔を上げた。
「え?」
「別に、義理を果たすことないだろ。お前がどう生きたいか、決められる」
「でも……」
兄妹神の力は強い。二人の力を使えば、他の地でも生きて行けるだろうか。
「……もう少し、考えさせて」
「ああ」
ユルはそれ以上、何も言わなかった。
結局、どうするかという結論は出せず、特に何もしないままに、日々が過ぎた。
翡翠も、未だにククルの傍に在る。ティンの魂《マブイ》を還さなくてはいけないのに、離れ難くてまだ儀式を実行出来ないでいた。
ククルとユルは、たまに兄妹神の力を奮うだけで、ゆるやかな日々を過ごしていた。
時折カジとトゥチに会って旅の思い出を語ることがなければ、あの旅が嘘だったかのように平穏で、退屈な毎日だった。
だが旅に出る前と、変わったことがいくつか在る。
もう、誰もククルを馬鹿にしたりしない。代わりに、畏《おそ》れた。ククルとユルが発揮する力は強すぎて、それこそ神の領域であった。
密林の島で、神女《ノロ》候補である少女・サーヤに言われたことを思い返す。
『同質のものを取り込んでも、ある程度しか強くなれません。しかし異質のものを取り込み、それをも自らの力とすれば……。相反するものは、反発し合うものです。だけど、同時に合わされば新しい力が生まれるでしょう。……そして同時に鎮め合うでしょう』
今、ククルはユルと完全に信頼し合っていると言える関係だった。
サーヤが言っていたように、同質の力を持っていたティンと使う力よりも、異質の力を持つユルと奮う方の方がずっと強くなったのだ。
島の人々がククル達を見つめる目は、もう人を見る目ではなくなって来た。
元々、兄妹神の信仰があったこの島でさえ、そうなのだ。他の土地に行くとどうなるだろう、と考えるとククルは絶望しか覚えなかった。
ククルは哀しい想いを抱え、浜辺で海を見つめていた。
ユルも何かわだかまりを抱えているのは同じらしく、隣で海に視線を注いでいた。
そして突如、ユルは口を開いた。
「――オレは、ずっと思ってたんだ。生まれちゃいけなかったって」
「また、そんなことを……」
「でも、本当なんだ。オレは災いしか呼ばないんだよ。良いか、ククル。もうこの世界は人間のものなんだ。神が干渉しすぎてはならない世界になってしまった」
かつて、まだニライカナイと現世の境が曖昧だった頃――ユルや、ティンのような存在は許されただろう。むしろ歓迎されただろう。
だけど――。
「神は必死だったんだろう。離れていく世界を引き留めようと、オレやティンのような存在を生ませた。――つまり、ニライカナイ自体が腐ってやがる」
ユルはゆらりと立ち上がり、海に向かって歩いて行き、水に足を浸した。
「だからオレは、ニライカナイに行く」
「はっ!?」
「――馬鹿な神様共の根性を、叩き直して来るんだよ」
ニライカナイに行く――それは、人間としての生は諦めるということだった。
「そんなことしても、結局は死んで兄様みたいになるだけだよ。兄様だって、力は契約しないと使えなかった」
「なら、どうすれば良いんだ?」
ユルは静かにククルを見つめた。前のような絶望はそこになかったけれど、底知れぬ空虚が存在した。
「私も、お供するよ」
すっ、と言葉が滑り出て。ククルは、ユルに駆け寄った。じゃぶじゃぶと、潮水が跳ねる。
「二人なら、神になれる。半分人間だけど、二人の力を合わせれば……」
ユルの手を握ると、彼は目を見開いた。
「生きて、帰れるかもしれないよ」
「お前には、敵わねえなあ。どんだけ前向きなんだよ」
「前向きなわけじゃないよ。兄様が、教えてくれてるんだ」
ククルは、紐を通して首に掛けていた翡翠を手で包み込んだ。
「――やるか」
「うん」
自分達は、神の世界に渡ろうというのだ。人間が行って帰って来るなど、本来は有り得ないことだった。けれど、出来る気がする。それは、ティンが伝えてくれているからだろう。
「誰かに、伝えて行かなくちゃいけないね。伝えて行くべき人は、ばば様でも父様でも母様でもなく――」
「ああ、あいつらか」
「うん」
ユルは、すぐにわかったようだった。