1. A Caged Bird
2
翌朝、フェリックスはレネの集落から発つことにした。
見送りはトゥルー・アイズ一人だ。
荷物を馬にくくりつけ、フェリックスは義兄弟を振り返った。トゥルーは、不安そうな感情を目にたたえていた。
「……お前だけで、大丈夫なのか。私も、何かできるのではないか」
「大丈夫だって、トゥルー。お前は部族を優先しろ。怪我人、出てるんだろ。シャーマンは癒し人でもあるんだから、使命を果たせ」
ぽん、と肩を叩くとトゥルー・アイズは苦笑した。
「お前はいつも、そうだ。最後の最後で、私に踏み込ませてくれない」
それはまるで、なじるような、責めるような――口調だった。だのに、トゥルー・アイズの表情は聖母のように優しい。
ああ、とフェリックスは幸福を噛みしめる。心の底から心配してくれている人がいるというのは、有難い。同時に、こんなことを言わせてこんな顔をさせてしまう自分が情けない。
「そんなことないさ。これでもお前に甘えてるんだぜ、トゥルー」
苦笑を返して、フェリックスはトゥルー・アイズの男性にしては華奢な肩を力強く、もう一度叩いた。
トゥルー・アイズは懐を探り、小さくて丸い容器を取り出した。それを開くと、赤い顔料が見えた。
「レネの、戦士の化粧だ」
親指にその顔料を擦りつけ、トゥルー・アイズはフェリックスの顔に手を伸ばした。指が、フェリックスの額に触れて、横に直線を引く。もう一度顔料をつけて、今度は右頬に縦線を引く。左頬にも同じことをして、トゥルー・アイズは箱を懐に仕舞った。
「戦士に施す、まじないだ。あとで、顔を洗うんだぞ。顔料は落ちても私の祈りは残るから、心配ない」
「……ありがとう」
じん、と温かくなる胸に心地よさを覚え、フェリックスは微笑んだ。
「無理はするなよ、兄弟」
「ああ。またな、兄弟。全て終わったら、また来るから!」
フェリックスは未練を断ち切るように、トゥルー・アイズから離れ、馬に飛び乗った。
フェリックスを見送ったあと、トゥル-・アイズは妻のもとに急いだ。
集落に入った途端、トゥルー・アイズの姿を認めた一族の者が案内してくれる。
示された天幕に入ると、リトル・バードが目を開けた。
「トゥルー様」
「すまなかった、リトル・バード……すぐに駆けつけられなくて」
傍に膝をついて、彼女の手を取る。
気を利かせたように、それまで傍に座っていたレネの者が出ていく。
「いいんです。あの怖いひとたちは、トゥルー様も狙っていたから。私が、伝言に行くレネの者に頼んだのです。危ないから、せめて昨夜一晩はここには来ないでと――」
「ああ。それも聞いた」
正直、気が気ではなかったが、トゥルー・アイズは妻の想いに応えた。
「それより、ごめんなさい……。ルース様を逃がせませんでした」
「お前のせいではない。お前はよくやってくれた」
「…………」
慰めたが、リトル・バードは後悔しているのか目を潤ませていた。
トゥルー・アイズは、視線を落とす。彼女には薄い布団がかけられていた。
「傷を、見ても?」
「はい。でも、見えませんよ。包帯が巻いてあるから」
リトル・バードは自ら布団をめくり、服も胸が見えないところまでまくりあげた。
白い包帯には血がにじんでおり、痛々しい。
できるだけそっと傷に触れて、傷の記憶をたぐる。
リトル・バードを傷つけた弾丸は背中から腹に貫通した。
弾丸が内臓を傷つけずに出ていたのが、不幸中の幸いだった。
中に弾丸が残っている場合は手術をしなくてはならないし、内臓を傷つけていたらもっとひどい傷になっていただろう。
傷口は洗われて消毒され、傷によく効く軟膏を塗られてから止血のために包帯を巻かれた。
ここまで読み取り、ホッと息をつく。
レネにはトゥルー・アイズ以外にも何人か医術の心得があるものがいるので、適切に処置してくれたようだ。
「弾が残っておらず、内臓も傷ついていなくて――よかった」
「本当です。グレイト・スピリットが守ってくれたのかも……」
「でも、痛いだろう」
「それはもう、痛いです! ぎゅってしてください!」
その言い分に、思わず笑ってしまう。
「抱きしめたら痛いぞ」
「……それもそうですね」
代わりに、とばかりにトゥルー・アイズは彼女の唇にキスを落とす。
「きゃー」
リトル・バードは、恥じらって喜んでいる。
もう一年以上も前から夫婦になっているのに、いつまでもリトル・バードはこういう反応をしてくれる。
「――あの、トゥルー様」
ふと、リトル・バードが真面目な顔になる。
「ルース様、大丈夫なんでしょうか」
「兄弟――フェリックスが救いにいった。大丈夫だ。兄弟は強い」
「それならよかった……。また、会えますかね? 私、ルース様と友達になれたのですよ……」
リトル・バードは不安そうに、問いかけてくる。
「きっと会えるさ」
力強く肯定すると、リトル・バードは微笑んで目を閉じた。
ルースはロビンに気絶させられた後、ずっと意識がなかった。
「おい、起きろ」
頬を叩かれて、ようやく覚醒する。
(どこ……ここ?)
手をつき、起き上がる。高級そうな絨毯が目に入った。顔を上げると、目の前に長身の男が立っていた。
「……ビヴァリー……?」
名乗られずとも、わかった。
彼は、薄く微笑む。記憶の中で見た彼より、ずっと成長して大人の男性になっていたが、面影があった。そしてたしかに、彼の顔の造作はフェリックスに似ていた。
すっと通った鼻筋。淡い色の、薄めの唇。長い睫毛に彩られた、配置の完璧な双眼。フェリックスよりも完成された、作り物めいた美しさ。彫像のように、どこか硬質な感じがする。
長くのばされたプラチナブロンドの髪は、女性が嫉妬しそうなぐらいの煌きを持つ。目の色は、薄い青だった。フェリックスの目の色が夏の空だとすると、彼の目の色は冬の空だ。凍えるように寒い、朝の空の色。
「はじめまして、ルース。私は君のことを、ずっと知っていたけど……君は私のことを知らなかったはずだろう? どうして、私がビヴァリーだと知っている?」
彼の魅惑的な笑みには、どこか苛立ちが潜んでいた。
「……フェリックスから、教わって。ビヴァリーっていう、兄がいるって聞いたの。あなたは、フェリックスに似てたから――だから……」
言い訳してみると、彼は疑った様子もなく微笑んだ。
「ふうん?」
目を細めると、更にフェリックスに似て見えた。
「まあいい。――ロビン、ご苦労だった」
「ほんっと、ご苦労様だぜ」
ルースはそこで、背後にルースを連れ去った男が立っていることに、ようやく気づく。さっきルースを起こしたのも、彼だろう。
「ルース……現在のカロの娘、と言った方がいいかな? 君のことは、丁重に扱うよ。軟禁状態になるけど、傷つけないから安心してね」
ルースはハッとする。彼は、声も弟に似ていた。
「引き離し作戦、やーっと成功だな。ったく、めんどくせえ。あの男を傷つけないように、って命令はとんでもない足枷だったぜ」
ロビンはぶつぶつ文句を言っていたが、ビヴァリーは意に介した様子もなかった。
「あの子を傷つけるなど、言語道断だ。……まあ、いいじゃないか。結局、この娘は手に入ったのだから」
台詞の前半部分には感情がこもっていたのに対し、後半部分は随分と平坦な調子だった。まるで、ルースはただのモノだとでもいうように。
ビヴァリーは本当に、フェリックスことエヴァンという弟にこだわっているらしい。
「あなた、そんなにフェリックスを大事にしてるのに、どうして一度は殺人罪かぶせようとしたの?」
ルースの質問に、ビヴァリーは首を傾げた。
「殺人罪? ああ、あれか。あれはロビンが勝手に動いたことだよ。だから私がスナイパーを派遣して、証言者を殺してやっただろう」
「……」
ルースはぎょっとして、思わずロビンに目を向けてしまった。彼は、苦い表情で腕を組んでいる。
そういうことか、と納得する。フェリックスが、アンダースン氏殺害の容疑をかけられたときの、ブラッディ・レズリーの動きは明らかに変だった。一度、罪をなすりつけるような動きを見せておきながら、証言者を殺すという矛盾した動き。
ロビンが先に動き、アーサーがそれを取り消すように動いた――というだけの、話だったのだ。
「あいつがいると、動きにくいからな。引き離すためにも、捕まえさせようと思ったんだ。結局アーサーに怒られて、七面倒くさいことになったけど」
「全く、お前という奴は。どうせ、あのままエヴァンが有罪になればいいとでも思ったのだろう? ……ふざけるなよ。あの子は、私のかわいい弟なんだぞ」
「へいへい、このブラコン野郎」
ロビンは、あまり反省していないようだった。
「ともかく、君を案内しなくてはね。抵抗はしないように。逃げ出そうとすれば、君の家族に手を出すことになるよ」
ビヴァリーは軽い口調で脅して、手を差し伸べた。その大きな手を取り、ルースは立ち上がる。
そのまま手を引かれ、広間を出る。廊下も、随分と広い。大きな屋敷なのだろう。
赤い絨毯を踏みしめ、ルースは歩く。
「ビヴァリーさん」
「うん?」
「あなたは、あたしをどういう風に使うつもりなの?」
「……いずれわかるよ、カロの娘」
答える気は、ないらしかった。
どのぐらい歩いたのか、ビヴァリーはとある扉の前で足を止めた。彼は鍵で扉を開き、「どうぞ」とルースを誘う。
天蓋付きのベッド。白と、薄い青で統一された内装。心地よさそうな部屋だった。調度品も、随分いいものを使っているようだ。
「この部屋には洗面所や風呂なども、付いているからね。不自由はないだろう。食事は一日三回。風呂の準備はメイドにやらせる。それ以外に、扉が開くことはない。……ああ、たまに私が訪れるかもね?」
ビヴァリーは、にやっと笑って、ルースの頬に手を伸ばした。
「君、エヴァンにご執心だったんじゃないか?」
「……」
ルースはきゅっと唇を引き結び、ビヴァリーを睨んだ。
「あの子は優しいからねえ。別に、君にだけ優しいわけじゃないよ。しかも、君の場合はカロの娘っていう監視対象だったから、ずっと付いていただけだ」
「……別に、フェリックスのことを特別に想っているわけじゃないわよ」
そう口にしながらも、ルースはどこか胸が痛むのを覚えた。確定ではないけれど、気持ちが傾いていたことは事実だったようだ。だからこそ、彼が悪魔祓いの職務で、ずっと付いていたのだと聞いて、ショックを受けたのだ……。
「嘘の下手な娘だ。……どうだい、私の声はエヴァンに似ているだろう」
ビヴァリーは屈み、ルースの耳に囁く。
「ルース」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。本当に、そっくりだ。フェリックスが近くにいるかのように、錯覚してしまう。
くすくす、笑い声が耳朶をくすぐる。
「代わりに、相手してやろうか?」
次の瞬間、ルースはビヴァリーの頬をひっぱたこうとして――手首をつかまれていた。
「おやおや、冗談の通じない子だね」
ビヴァリーは、にこにこ笑っていた。目は、笑っていなかったけれど。
「まあ、初回ということで今のは許してあげよう。……さっき言ったことを忘れずにね。服もまた、届けさせるよ」
どん、とビヴァリーはルースを突き飛ばして、出ていってしまった。がちゃん、と鍵の閉められる音が響き、ルースは自分の姿を見下ろす。
まだ、レネ族の服のままだった。
リトル・バードの仕立ててくれた、レネの服。簡素な貫頭衣だが、丁寧に縫われたそれにはリトル・バードの想いがこめられていた。
(リトル・バード、無事かな……)
すぐに手当てをしてもらったから、無事だと思いたい。あんなに親切にしてくれた、友達。また会って、直接お礼と謝罪を言いたい。
服には、血も着いていた。リトル・バードの血だ。
思い切るようにして顔を上げ、ルースは室内を見て回った。当然だが、窓はなかった。風呂場には小さな窓があったが、とても人の通れる大きさではない。しかも、ルースが開けようとしても開かなかった。専用の鍵が必要なのだろう。
硝子ではなく木製なので、割ることもできない。ここから手紙を落とす、という手段は使えなさそうだ。そもそも、室内に紙もペンもなかったが。
はあ、とルースはため息をつきながらも、見て回った。結局、脱出につながる手段は見つからず、疲れたようにベッドに座る。
(どうすれば、いいんだろう)
ルースは胸を抑え、目を閉じた。