4. Good Bye, My Brother

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「……なあ、あんた」
「何だ」
「協力してやろうか。いや、もうむしろ協力してるんだが」
「…………! そうか、お前が気づかないはずがない。悪魔が失せたこと……」
 ロビンは知っているはずだ。ルースによって、悪魔が祓われて人間に戻ったことを。だが、彼はそれをビヴァリーに言っていないのだ!
「そういうことだ」
 ロビンは微笑み、近くにあった椅子に腰かけた。
 相手は悪魔だ。迂闊な約束をするわけにはいかない。フェリックスは、慎重に言葉を選んだ。
「何が目的だ? 契約者を変えたいのか?」
「……いや。というより、俺はそろそろ面倒になってきたんだよ。アーサーにこき使われるのが、な。俺はアーサーとの契約で、記憶を奪われたらしい。本来の名前すら思い出せない。そのせいで、抵抗できないんだ」
「なるほど――」
 フェリックスは、ロビンを注視した。
 相当な、高位の悪魔だろう。彼はルースの使ったブラックマザーの力にも、抵抗した。ブラックマザーと同等か、それ以上か……そのぐらいの悪魔に違いない。
 本来なら、悪魔を見抜くとはいえ只人のビヴァリーに使役される存在ではないだろう。
 だが、ロビンは記憶を奪われた。名前も思い出せないなら、本来持っている力の何割かしか出せていないはずだ。それでも、これほどまでに強い。
「なぜ、兄貴……いやアーサーに記憶を渡した?」
「さあな。そういう契約をしたんだろう。俺は元々、気まぐれな質だったんだろうさ。契約で俺が要求したものは、推測できる。それに対抗して、アーサーは俺の記憶を消すことを要求したに違いない。全く、ずる賢い奴だ」
 フェリックスにも、なんとなくわかった。そもそも、悪魔が人間に要求するものといえば決まっている。
 ビヴァリーは、「記憶をなくし、仕えよ――」とでも、命じたのだろう。そして、その契約にロビンは縛られている。本当なら、契約を反故にできるほどの悪魔なのだろう。
「お前は、何を要求する? まだ、これは契約じゃないぞ」
 フェリックスは、念押しも忘れずにロビンに問いかけた。
「はいはい。俺の要求は簡単だ。俺は契約のせいか、アーサーを殺せない。だから、あいつを殺してほしい」
「お安い御用だと言いたいところだが、俺は右手を怪我した。……左手じゃ、早撃ちに対抗できない」
「まあ、そこは俺が隙を作ってやるよ。アーサーは、俺が裏切るとは思ってないからな」
 ロビンは机の上に置いてあった銃を取り、フェリックスの左のホルスターに収めた。
「その条件なら、呑む」
「了解。縛られてるけど、その体勢で撃てるか?」
「問題ない」
 フェリックスは、左手でも撃てるように訓練はしていた。ただ、“西部の伝説”はさすがに利き手でないと撃てないし、速度は右手に比べて落ちるだろう。
「それで――俺側の条件だが、シュトーゲル牧師の魂の解放だ。お前も、知ってるんだろう?」
 ビヴァリーだけでは、あんなことはできまい。あのとき、既に契約を交わして力を貸してもらっていたのだろう。
「……ああ、あの魂か。だが、あれは今どうこうできない。アーサーが懐に、大事に隠し持っているからな。まあ、とりあえず約束はしよう。あいつは、あれを使ってお前を操るつもりだ」
 やはり、とフェリックスは嘆息した。ビヴァリーは魂を解き放っていたが、あれは「フリ」だったのだろう。切り札にも使えるものを手放したのが不思議でならなかったが、実は持っていたというのなら納得できる。
「牧師様の魂を人質に取るっていうのか」
「そうだ。そしたら、お前はあいつの傍にいる選択肢しかないだろう? あいつは、ずっとあの牧師を恨んでる。お前を連れ去った牧師をな」
「彼は、俺を助けてくれたのに……」
 涙がにじみそうになり、フェリックスは首を横に振った。
「ま、これで一応契約成立だな。悪くないじゃないか」
「ああ。だが、あんたがまさか協力してくれるとは……」
「ふん。俺も、最初は面白がってたんだ。アーサーは、悪魔の王国を作るって言ってたしな。だが、実態は悪魔の使役で支配権を得ようとしているだけだ。俺は悪魔だ。同胞への情なんか、ないに等しい。でも、やっぱり面白くはないのさ。人間なんざ、悪魔より下等な存在のくせにな。住んでるところが、地獄よりは天国に近いだけで」
 ロビンは吐き出すように、人間を罵った。
 人間としては怒るべきなのだろうが、今のフェリックスにはその憎しみが有り難い。
「そろそろ戻ってくるだろう。上手くやれよ」
「……ああ」
 フェリックスはじんじんと痛む手首とふくらはぎを意識の外にやりながら、左のガンベルトに収まった銃の銃把を握り、撃鉄を起こした。
 ちょうど、フェリックスは横向きに座っていて、ビヴァリーが扉から入ってきたときに左手は死角となる。ロビンに上手く誘導してもらい、撃つ。これだけだ。
 実にシンプルな行動なのに、フェリックスは冷や汗をかくほど緊張していた。
 “西部の伝説”が使えないという事実が、痛い。対するビヴァリーは怪我もしておらず、“西部の伝説”も使える。
 あの用心深いビヴァリーが、隙を見せてくれるだろうか。
(しっかりしろ)
 これが上手くいけば、兄を葬れる。その上、養父の魂を解放できるのだ。
(焦るな、エヴァン。震えるな。情は捨てろ。……俺は悪魔祓いだ)
 悪魔を使役する人間を始末するのも、悪魔祓いの仕事で間違いない。たとえそれが、身内であっても。
「……来たぞ」
 足音を聞き取ったのか、ロビンが呟く。彼はさりげなく、フェリックスの左半身の前に立った。銃を見とがめられないように、だろう。
 そうして、扉が開いた。入ってきたのは、ビヴァリーだけだ。
「ヴラドはどうした?」
「用事を頼んだ」
 会話を交わしながら、ロビンはビヴァリーが扉を閉めて、前を通り過ぎるまで待っていた。
「暴れなかったか?」
 ビヴァリーは机の上に置いてあった、ワインボトルからグラスに赤い酒を注ぎながら、ロビンに問う。
「おとなしいもんだったよ」
 ロビンは軽く笑って答え、彼に近づいていった。
「それよりアーサー。話がある」
「話? 私も話があるんだ。エヴァンとルースの逃亡はエウスタシオの裏切りのせいだとして、なぜ悪魔憑きがいなくなっている?」
 ワイングラスを傾けながら、ビヴァリーは眉をひそめる。
「それを話すと長くなる……。ちょっと、来てくれ」
 ロビンはアーサーの背を押し、机の向こう側にある窓へと誘う。
 ちょうど、フェリックスから見て左にある窓だ。
(いける)
 ビヴァリーは油断しているし、片手に酒も持っている。
 フェリックスは銃をガンベルトから出し、狙いを定めた。
 だが、ビヴァリーが振り返り、目にもとまらぬ速さで銃を抜く。
(間に合わない)
 そうは思いながらも、フェリックスは引き金を引く。大きな音がした。音の正体がわからないまま、銃弾が放たれる。
 音に気を取られたのか、ビヴァリーは銃を発射することなく身を翻す。フェリックスの放った弾が、ビヴァリーの腕をかすめる。
 そして――――ビヴァリーの首に、ナイフが突き立っていた。
「あ……ああ……」
 ごふり、と口から血を流しながら、ビヴァリーは膝をつき、前のめりに倒れた。さすがにあれは、致命傷だ。追撃する必要はないだろう。
 フェリックスは目を見開き、右側を見た。するとそこには、ナイフを投げたとおぼしきジェーンと、片足を上げたフィービーが立っていた。
 そこでようやく、フィービーが扉を蹴破って、ジェーンがナイフを投げたのだと理解する。
 いつの間にかフェリックスの傍らに移動していたロビンは、自分を抱きしめるようにして笑った。
「あんた! フェリックスから離れなさい!」
 ジェーンがもう一本ナイフを構えたとき、フェリックスは「大丈夫だ!」と制した。
「こいつは、主を裏切って協力してくれたんだ。……危険はないはずだ」
 そうだろう、とばかりにロビンを仰ぐ。すると彼は、けらけらと笑っていた。
「……ああ、そうとも。トドメを刺したのはお前じゃなかったが、お前の作った隙でアーサーはあのナイフを避けられなかったようなもんだ。約束は守ろう」
 ロビンは真面目な顔になって、ビヴァリーの体を足で転がし、仰向けにした。
 美しい青い目は、虚ろになっていた。
 とんでもない悪人だとわかっていても、兄が死んだという事実にフェリックスは衝撃を受けずにはいられず、思わず目を逸らした。
 ロビンはごそごそとビヴァリーの懐を漁り、小箱を取り出し、フェリックスに投げた。縛られているフェリックスはそれを胸で受けた。小箱は、フェリックスの太腿に転がり落ちる。
「これが、牧師様の魂か」
「そうだ。そして――俺が誰かわかるか!?」
 ロビンは自信に溢れた笑みを浮かべて、手を広げた。
「察しはついていた」
「ほう? それじゃあ、言ってもらおうか。もちろん、当てても何もないが」
 ロビンは次いで、ビヴァリーの胸に手を入れた。その光景に、ジェーンとフィービーは目を見張る。
 フェリックスは驚かなかった。悪魔と契約するとき、差し出すのは魂というのは定石だ。ビヴァリーもそうしたのだろうと、わかっていた。
「……ベルフェゴール」
 地獄でも位の高い悪魔。そして「面倒」という口癖。その二点から、悪魔についての知識をたたき込んだフェリックスには、彼が怠惰の悪魔ベルフェゴールであろうとは、すぐに推測できていた。
 ロビン――ベルフェゴールは哄笑し、ビヴァリーの体から薄黄色い光の球を取りだした。
「その通り。我が名は、ベルフェゴール! 解放の手伝いをしてもらったので、このまま立ち去ってやろう」
 ベルフェゴールは球を持っていない方の手をかざし、何事かを叫んだ。
 部屋中に青白い光と風が吹きすさび……それが絶えたときにはもう、ベルフェゴールはいなくなっていた。
 抜け殻になった金髪の男の体だけが、横たわっていた。フィービーが近づき、彼の首元に手をやる。
「……死んでるな。何なんだ、あれは」
「悪魔だ」
「ふうん。よくわからんが、まあいい。ところで、エウはどこだ?」
 ああそうか、知らないのだとフェリックスは歯がみする。
「ここには、いない。話すと長くなる。……とりあえずジェーン、縄を解いてくれないか」
 フェリックスが頼むと、ジェーンはすぐにフェリックスのところまで来てナイフで縄を断ち切ってくれた。
 立ち上がり、フェリックスは左足の痛みに顔をしかめる。
「あんた、ひどい怪我ね。手当はされているみたいだけど」
「ああ、心配ない。……それより、ヴラドを捕らえないと」
「ヴラド? ……それって、あの褐色の肌の男かしら? どことなくオーウェンに似てる……」
「そいつだ!」
「彼なら、もう捕らえたわ。仲間が、彼の身柄を確保してる」
 ジェーンの答えを聞いて、フェリックスは安心のあまり座りこみそうになってしまった。

 フェリックスはジェーンに肩を貸されて、一旦病院へと向こうことになった。
 フィービーたち保安官は、念のため屋敷内を捜索するという。
 ジェーンは、出ていく前に「私が殺したから、賞金は私のものよ。あんたが証人なんだから、わかってるでしょ?」
 とフィービーに釘を刺していていた。
 彼女は不服そうな顔も見せず、「わかったから、早く行け」と追い出すように手を振った。
 ジェーンとフェリックスは、屋敷を出て町への道を歩く。
 手当をされたとはいえ、右手も左足も痛んだ。特に足は、歩く度に激痛が這い上る。フェリックスは呻き声をあげないよう、唇を噛む。
「もう。だから、担架を待てば良かったのに」
「……歩けるから、大丈夫だ。それに……」
 できるだけ早く、あの屋敷から離れたかった。
 言わなくても察したのか、ジェーンは大きなため息をついた。
「詳しく話を聞きたいところだけど、病院に行ってからでいいわ。あんた、この怪我だと入院よ」
「だろうな」
 しばらくは、動けないだろう。歯がゆいが、仕方なかった。
 ふと、ジェーンを見下ろす。彼女は仇敵を仕留めたというのに、嬉しそうではなかった。
「ジェーン」
「何?」
「喜んでないのか?」
「…………複雑な心境よ。実感が湧かないわ。家族の仇を討ったのにね。まあ、あの場ではよくわからないことが起こっていたから、喜ぶ暇もなかったのかもしれない」
「本当は、俺が殺すはずだったんだ。ジェーンとフィービーが入ってきたおかげで、仕留められたようなもんだな。あのままだと、撃ち返されていたから」
「いえ、フェリックス」
 ジェーンは、まっすぐな目で前方を見据えた。
「クルーエル・キッドは、逡巡していたわ。あんたに撃ち返すことは、できたんでしょう。さっき、あんた教えてくれたわよね。キッドも“西部の伝説”が使えたって。あれなら、あんたを殺すのは間に合ったはずよ。でも、私たちが来たことによって『避けた』。なぜか? あんたを殺したくなかったからよ。左手に命中するように撃つのは、キッドも無理だったんでしょう。だから避けて、それが大きな隙になって私のナイフを受けるしかなかった」
「…………それは本当なのか」
「ええ。どうしようもない男だったけど、あんたへの愛情は本物だったのね」
「そう、なんだろうか……」
 フェリックスはうつむき、ビヴァリーの顔を思い浮かべた。
 ――――お前のため、お前のため、お前のため。
 取り憑かれたように、ビヴァリーはそう繰り返した。
 彼はとことん間違えていたけれど、もう一度弟と暮らしたいという願いがそこまで歪んでしまったのだろうか。
 ベルフェゴールに地獄に連れていかれてしまった兄を想い、フェリックスは目を閉じた。