3. Promise

3

「兄貴のところまで、行くさ。俺は殺されないっていう、アドバンテージがあるからな。ルースは逃げろ」
「逃げろって言っても、ここから!?」
「ああ。さっき、エウスタシオが簡単な屋敷の見取り図とメモ書きを渡してくれた。二階の東に大きな窓があって、そこは内側から鍵がかかっている。そこならそれほど高くないから、飛び降りられる。地面は芝に覆われている、とさ」
 メモに書いてあったのだろう。フェリックスは機械的に教えてくれた。
「本当に、あんたは殺されないの?」
「まず、間違いなく兄貴のところには行ける。厄介なのは、あのロビンって奴だ。お前も会っただろう」
「ええ。悪魔、なの?」
「そう。悪魔の気配が無に等しいのは、特級だからだろう。しかも、お前のようなエンプティに宿っている。よく、あそこまでの悪魔を従えたもんだと感心するが……」
 フェリックスのため息は、壁越しにでも聞こえてきた。
「とにかく、お前は俺のことは考えなくていい」
「でも! でも……フェリックス」
 ルースは壁に手をついて、涙をこぼした。
「あんた、死ぬつもりでしょう……?」
「…………」
 フェリックスは、答えなかった。それが何よりの答えだった。
「どうして!」
「相打ちにできるかどうかも、怪しいんだ。とにかく、俺はビヴァリー・A・マクニールを消さないといけない。ここまで仕出かした身内を、放っておけない。兄貴の歪みは、俺のせいでもある」
「でも、あれは……」
「ああ、ルースは俺の過去を見たんだったな。なら、わかるだろ?」
「あのときのあんたが――エヴァンが、正しい判断できるはずないじゃない! あんたのせいじゃないわ!」
 力強く言い切ると、フェリックスは「参ったな」と呟いた。
「それでも、俺がケリをつけなきゃ誰がつけるんだ? 他に誰がいる?」
「それは、わかってる。でも、最初から死ぬ気で行かないで。それに……あたしも、逃げないっ!」
「馬鹿なことを言うな!」
 フェリックスに怒鳴られて、ルースは身を縮こまらせた。
「邪魔になるだけだ――。それに俺が負けた場合、お前は捕らわれの身になって利用され続ける。ルース。俺は、ヴラドは殺さないようにする。お前は逃げた後、ジェーンに保護してもらうんだ。そして、ヴラドを追って情報を得るよう頼んでくれ」
「情報って……」
「さっきもエウスタシオと話してたろ。ブラックマザーを、還す方法だ。ヴラドが知っている可能性がある。お前も、嫌だろ。悪魔を呼ぶ力なんて」
「…………そうね」
 ルースのこの力は、不幸しか呼ばない。姉のキャスリーンも悪魔に殺されて。
 手放したい、という思いは強い。だけど――
「フェリックス。聞いて。あたしは、ビヴァリーと一緒に詠唱したの。悪魔を降ろす詠唱をね……。そしたら、あたしの頭にあの詠唱が響いて……。それを、逆に歌うこともできそうなのよ。どうしてかわからないけど、これは……ビヴァリーがブラックマザーを少し目覚めさせたせいでしょうね」
「何だって? ……逆に、ってことは」
「ええ。あたしは、悪魔を還すことができると思う。それをしたら、あたしは助けを呼びに行けるわ」
「……ここにいても、できるのか」
「ええ。でも、今は無理だと思う。もう日が暮れちゃったもの」
「わかった。朝一番に、試してみてくれ。何の効果もなければ、助けは呼ばなくていい。それをしてもしなくても、やることは同じだ。さっき言ったように、逃げること」
「ええ」
 ルースはしっかりと頷いてみせた。
「だが……牢屋で歌うのは危険だ。異変に気づいて、ロビンあたりが飛んでくる可能性がある。その歌は、どこまで届くんだ?」
「わからない。でも、外に出たら厳しいと思う」
「……屋敷内なら?」
「いけそう。勘だけど……」
「いや。今、お前の勘は何より正しいはずだ。ブラックマザーが少し目覚めているんだろう」
 そう聞いて、ルースは身を震わせた。まるで、ブラックマザーと一体化してしまったかのようだ。ある意味では、嘘ではないのだが。精神まで共有したくなかった。
「なら、さっき言ってた窓の前で待機して歌うんだ。そして、すぐに逃げろ。上手くいかなかったら、それでいい。そのときは、ジェーンに保護を頼め。あとは言った通りに」
「……わかったわ」
 ルースが頷いた後、長い沈黙が訪れた。
「ねえ、フェリックス? 話していても、いいでしょ? 不安なの」
「そりゃ、いくらでも」
 フェリックスは久しぶりに、軽妙な口調で答えてくれた。
「何が聞きたいんだ?」
「あっ、そうだわ。リトル・バードやトゥルー・アイズさんは無事なの? あたし、すごい迷惑かけちゃって」
「ああ……。リトル・バードは深手を負ったが、トゥルーが『命に別状なし』と言ってたから大丈夫だ。トゥルーも疲れてはいたが、無事だった」
「よかった。気になってて……」
 ルースはブーツを脱いで、椅子の上で膝を折って両手で抱え込む姿勢を取った。
「異邦人のあたしに、特にリトル・バードは親切にしてくれたの。友達に、なったのよ」
「そうだったのか。何よりだ」
「フェリックスは、リトル・バードと会ったことあるの?」
「ああ。結婚式に行ったからな」
「……そっか」
 どんな結婚式だったのだろう。レネの結婚式は、ルースの知る結婚式とは全く違うのだろう。
 想像しながら、ルースはまたあの集落を恋しく思った。
(結婚……かあ)
 そういえば、と思い出す。フェリックスが、彼を慕う少女に告げていたことを。
「ねえ、フェリックス。どうして。所帯を持つつもりがないの?」
「あー……そういや、聞いてたんだったな。……俺は一生、この運命を受け入れる。一人で荒野をさまよって、悪魔を祓う。そんな生活で、所帯を持てるわけないだろ。ひとところに落ち着くつもりもないのに」
 そう聞いて、ルースは思いついた考えに頬を熱くした。
(何を、考えてるの? でも……言うだけ)
 だって、もう二度と会えないかもしれないのだから。
「じゃ、じゃあ……定住しなくてもいい、って女の子となら結婚する?」
「はあ?」
 フェリックスの、ぽかんとした顔が目に浮かぶようだった。
「そんな物好きいるかよ」
「ここにいたら、どうするの!」
「……………………」
 恐ろしく長い沈黙が流れ、その間――ルースは背筋を伸ばして緊張に耐えていた。
「ルース」
 フェリックスの声音は、真剣になっていた。
 答えが聞くのが怖くなって、ルースはまくしたてた。
「あ、あたしは元々流浪の民よ。歌って、稼いで、旅をして暮らしていた。だから、あんたと一緒に西部の町を回るのも苦じゃないわ。それにあたしは、定住して農場で働くより、ずっと歌っていたいの!」
「……別に、俺と一緒じゃなくても歌えるさ」
「あんたと一緒がいいのよ!」
 いつの間にか、涙が出ていた。
「ルース。聞け。俺は、お前に優しくした。でも、それは必要だったからだ。お前は、本当の俺を知っているだろう。俺の内側には、まだ泣き虫エヴァンがいる。フェリックスは、頼りになるように見えるかもしれない。そう作り上げた、俺の仮面だからだ。でもエヴァンには、守る力なんてない。いつだって自分のことで精一杯で……。他人を自分の人生に、巻き込みたくない」
 フェリックスの言葉にショックを受けながら、ルースは服の袖で涙を拭った。
「これだけ聞かせて。あんたは、あたしのことは何とも思ってないのね」
「……そうだよ。ルースは、カロの娘だから特別に扱っただけだ」
 その、端的で決定的な一言に、ルースはうなだれた。
「大丈夫だ、ルース。歌いたいなら、歌い続ければいい。まだ花開いてないだけで、お前には才能があるんだから。親父さんの作曲センスも、なかなかのもんだ。東部に行けば、劇場と契約を結べるかもしれない。挑戦すればいいんだ。こんな、荒野の広がる西部を回る必要はない。華やかに発展した東部で、歌うといい」
 夢を応援してくれているのに、突き放されているような気がした。フェリックスと、彼が育った西部という土地に。
「ありがとう。あと、ごめんなさい……。いきなり、あんなこと言って」
「いいんだ。こっちこそ、ごめんな。きっと、もっと良い男が現れるさ。俺みたいな、嘘つきじゃなくてさ」
 涙ながらに感謝と謝罪を述べると、フェリックスは苦笑交じりにそう答えた。
 嘘でも……それは、ルースを守るためであったり、事情があったりした嘘だ。
 ルースに、フェリックスを責める気は起きなかった。
「フェリックス。あたし、しつこいの。もう一度、考えてみて」
「だから」
「いいから! 約束! それで、答えをちょうだい。明日、別れた後――また会えたら」
 ルースの意図を察したのか、フェリックスは抵抗することなく「わかったよ」と承諾した。

 ルースはその後、空腹を抱えたまま眠った。室内には水差しとグラスがあるのみで、食料は置かれていなかったし、誰も差し入れには来なかった。
 もっと話したいと思うのに、まだ体が回復していないのだろうか。ベッドに寝転がるとすぐに、眠気が押し寄せてきた。

「ルース!」
 フェリックスの声が響き、ルースは緩慢に身を起こす。
 すると、鉄格子越しにエウスタシオが見えた。
「鍵は、彼の方に渡しておきましたよ。では、二人とも。ご武運を」
 エウスタシオはそう言い残して、足音を立てないように早足で行ってしまった。
 しばらくして、牢から出てきたフェリックスがルースの入っている牢の前に立つ。彼は急いで、鉄格子の鍵を開けた。
 ルースはベッドから飛び降りて、ブーツを履いた。
「ルース。途中までは一緒に行こう。まだ、走らなくていい」
「……ええ。あれ、銃持ってたの?」
 ふと、フェリックスの腰にガンベルトと銃があることに気づく。
「まさか。取り上げられてたさ。エウスタシオが、さっき渡してくれたんだ。さあ、行こう」
 フェリックスは当たり前のようにルースの手を引き、歩き出した。
 暗い回廊を通って、狭い階段を上る。薄暗い廊下を見渡してから、フェリックスは進み続けた。
 今度は、廊下をしばらく歩いてから見えた、赤いカーペットの敷かれた階段を上っていく。
 フェリックスは一言も喋らず、眼光を鋭くしていた。
 ルースも、とてもではないが喋る余裕はなく、フェリックスの手をすがりつくように握って、ひたすらに足を進めた。
 階段を上り切ってから、フェリックスは向こうを指差した。
「あっちが、東だ。説明した窓があるはずだ」
 囁くようにして、フェリックスはルースに教える。
「……ええ。フェリックス、あたし……」
「悪いが、時間はそこまでない。頼んだぞ。そして……またな」
「……そうね。またね」
 二人はどちらともなく、手を離した。
 フェリックスはさっさと背を向け、行ってしまう。
 だからルースも、踵を返して歩き始めた。
 例の窓には、すぐに辿り着いた。ルースはくるりと方向転換をして、屋敷に向かって逆さの詠唱を口にする。
 それはまるで、呪われた歌だった。
 哀しくなってくるのは、同士が同じ世界からいなくなるからか。
(だめ。同調しちゃ、おかしくなる!)
 ブラックマザーと意識を切り離して、ルースは詠唱を続けた。
 全て終わると、ひどく気分が悪くなって、しゃがみこんでしまった。
 しかし誰か来る前にとすぐに立ち上がり、窓の鍵を開錠して大きく開く。
 助走をつけて、ルースは窓から外に飛び出した。