6. See you Again

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 野宿や町の宿での宿泊を経て、農場までは四日ほどかかった。
 ルースが馬から下りるのを、フェリックスが手伝ってくれているとき――少年の大声が響いた。
「ルース! フェリックス!」
 ふと見れば、家からリッキーが走り出てきたところだった。
「リッキー、久しぶり!」
「ルース!」
 ルースは地面に下りるなり、いとこ同士で再会の抱擁を交わした。
「もう、ほんっとうに心配したんだぜ。あ、手紙は届いてたけどな。早く、二人とも中に入って! みんな、待ちわびてる!」
 リッキーの明るい声のおかげか、ルースも「家族の元に帰ってきた」と実感して嬉しくなる。
「俺は馬をつないでから、入るよ。ルース、先に行っておいてくれ」
「わかったわ」
 フェリックスの言葉に頷く間もなく、ルースはリッキーに腕を引かれて家の中にまで走らされたのだった。

 リッキーが知らせ回ってくれたおかげで、農場の仕事をしていた他の家族も家に戻ってきた。
 ジョナサンはルースを見るなり泣き出してしまったので、ルースはしっかりと弟を抱きしめた。
 オーウェンも、泣きはしないものの何かを堪えているような表情だった。
「無事で良かった、本当に……!」
 父アーネストは思いきり涙を流していたが、エレンは冷静に「無事で何よりだ」とルースの頭を撫でた。
 そうこうしている内に、フェリックスが入ってきた。
「フェリックスー!」
 ジョナサンが走って、彼に抱きつくと、思わずといった様子で「ジョナサン」と名を呼んで口元を綻ばせていた。
「用心棒。……無事にルースを連れて帰ってきてくれて、感謝する。農場にみんなが戻ってきて知らせを受けたときは、絶望したが……」
 オーウェンは、きっちりとフェリックスに礼を言っていた。
「職務を果たしたまでだし……色々ややこしかったけど……ま、兄さんの貴重なお礼は有り難くいただいちゃおうかなっ」
 フェリックスの砕けた様子に、オーウェンは呆れたように息をついていた。
 ちょうどもうすぐ昼飯時だったので、イングリッド叔母とエレンは慌ただしく昼食の支度を始めるべく、台所に駆け込んだ。リッキーとオーウェンも、手伝うために彼女たちに続く。ルースも手伝おうとしたが、「座ってろ」とオーウェンにいなされて、おとなしく先に座っておくことにした。
 そして、この場にはルースとフェリックスとジョナサンとアーネストだけになる。
 ふと、アーネストがルースとジョナサンに「契約の話をするから、向こうに行ってなさい」と命じた。しかしルースは、首を横に振る。
「いえ。ここにいるわ。なんだかんだ、フェリックスに一番助けられたのは、あたしだもの。パパが変に値切らないように、見張る」
 そう言いながらも、ルースはまだ期待していたのだ。フェリックスが、ルースを連れていくと言ってくれることを。
 ジョナサンも「僕もいる」と主張したので、アーネストは諦めたようだった。
「お前さんが帰ってきたら、と思って準備はしていた。本当に、世話になったな」
 アーネストは、茶色い袋をフェリックスに渡した。
 それを受け取り、フェリックスは「こちらこそ」と礼儀正しく述べた。
「……ま、中身を確かめてくれ。足りないなら、言ってくれ。交渉には応じるつもりだ」
「では、遠慮なく」
 フェリックスは、テーブルに袋の中身を出した。紙幣に金貨に銅貨……雑多な貨幣が混じっていた。
「多すぎるぐらい、かな。いいのか? こんなにもらって」
「ああ。遠慮するな」
「じゃあ、受け取るよ」
「そうだ、お前……怪我をしたんだったな。少し足を引きずってると思ったんだ」
「そう。これでも、大分マシになったんだ。心配しなくても、来月には普通に歩けるようになるはずだ」
「怪我してるのに、ルースを送ってきてもらって悪かったな」
「いえいえ」
 フェリックスはそこで話は終わりとばかりに、袋を懐に入れていた。
(結局、言わないの?)
 喉がからからに渇いて、ルースはフェリックスをじっと見つめることしかできなかった。彼は目を合わせようとすら、しない。
 その後、フェリックスはルースに何があったかをぼかしつつ語り、アーネストとジョナサンは神妙な表情でそれを聞いていた。
「まさか、あいつがねえ……」
「親父さん、ヴラドと面識あるのか?」
「いや。ちょうど俺たちがウィンドワード一座に入る前に、行方をくらませたんだ。だが、聞いたことはある。エレンの元夫だからな。仲間内の評判も悪かったんだ。何やら、変な研究をしているとかで。本名は、ヴィクターのはずだ」
「ヴィクター……」
 その名前を噛みしめるように、フェリックスは呟いた。
「ウィンドワード一座の前は、カロ一座だったわけだろ? 歌姫は、親父さんの妻だったヘイリーさんで」
「ああ。カロ一族の中心がヘイリーの家系だったらしい」
 なぜか。それは、ルースにはすぐわかった。ブラックマザーを宿すからだ。
「なんとなく……思うんだけどさ、親父さんとエレンさんって本当の夫婦って感じしないよな」
 フェリックスの言に、アーネストは長いため息をついていた。
「……他人から見れば、すぐにわかるか。俺とエレンは、結婚した方が互いに利益があったから再婚したに過ぎない。特に、新大陸に渡る手続きは……夫婦だからこそエレンも旅券が取れたんだ」
「わかるよ」
 フェリックスは納得したように、ゆっくりと頷いた。
「話すのは気恥ずかしいが、俺の妻はヘイリー一人だと決めている。エレンも、それを承知で再婚してくれた」
 アーネストは自分が要請したように言っているが――実際そうだったとしても、本来の状況は反対だったろうとルースにも察しがついた。
 夫に行方をくらまされ、一座の仲間がいるとはいえエレンは一人で幼いオーウェンを抱えていた。
 ヘイリーを失ったアーネストが手を差し伸べたのも、不思議ではない。
 そうこうしている内に、オーウェンとリッキーが料理を運んできた。
「ジョナサン、お前も手伝え。……ルースや用心棒は、座っておけ」
 フェリックスにも珍しく優しさを見せて、オーウェンは料理を並べてから台所に戻る。ジョナサンも反抗することなく、「はあい」と返事をしてぴょこんと椅子から降り、台所まで走っていった。
 ルースたちが帰ってきたからなのか、昼食にしては品数が多くて豪華な食事だった。昼だというのに、ワインまで振る舞われた。
 食事中、フェリックスはふとエレンに顔を向けた。
「ああ、そうだ。連邦保安官のフィービーに頼まれてたんだ。ヴラド……エレンさんの元夫がブラッディ・レズリーの一員として捕まったから、エレンさんを参考人として呼びたいって。話を聞きたいらしい」
「あたしを、かい?」
 エレンは、戸惑ってフォークを取り落としそうになっていた。
「悪いけど、一緒に来てくれないか。また、送り届けるから。もちろん、もう報酬は要求しない。親父さんに十分すぎるほど、もらってるし」
 フェリックスはわざわざナイフとフォークを置いて、手を挙げる仕草を見せた。
「……どうすればいいかね?」
 エレンは、アーネストに顔を向ける。
「そりゃ、保安官の要請なら行った方がいいだろう。フェリックスが送迎してくれるなら、心配ない。……出発は、明日か?」
「できれば、今日。無理かな?」
 フェリックスの答えに、エレンは眉をひそめていた。
「今から用意すりゃ、いけるっちゃいけるけど……。今日は野宿かい?」
「ここから数時間、馬を走らせたところに小さな町がある。ルースも、泊まっただろ?」
 いきなり話を振られて、ルースはこくこく頷いた。
「あんまり急かしたくないけど、ことがことだからな……。エレンさん、悪いけど頼む」
「わかったよ。本来あたしにまつわること、だもんね。昼食食べたら、支度するよ」
「よろしく」
 そこで一旦話は途絶え、食事が再開された。

 エレンは食後にすぐ支度を終えて、ボストンバッグ片手に階下に下りてきた。
「それじゃ、行きますか」
 食卓の椅子に座って待っていたフェリックスが、腰を上げる。
「あ、あたし見送る!」
「僕も!」
 ルースとジョナサンは、二人の後を追った。
 フェリックスが馬を連れてきて、エレンと共に乗るまでルースとジョナサンは黙って見守っていた。その間に、アーネストやリッキーも家から出てくる。
 エレンとフェリックスが共に馬に乗る光景は、やけに絵になった。
 エレンはフェリックスより随分年上のはずなのに、そうは見えない若さと妖艶さをまとっているからだろうか。
 ルースは自分が嫉妬していることに気づいて、唇を噛んだ。
(何で、ママに嫉妬するのよ……)
 ルースの様子がおかしいと気づいたのか、ジョナサンが顔を覗き込んでくる。
「お姉ちゃん?」
「……ううん。さ、二人を見送らないと」
「うん。またフェリックスも、戻ってくるんだよね。そしたら僕、フェリックスに行かないでーって駄々こねてみようかなあ」
 ジョナサンの囁きにルースも思わず「そうね」と言ってしまったので、彼はたいそう驚いていた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
 蹄が大地を踏みしめる音が響き、フェリックスは手を挙げた。
「それじゃあ、みんな! また戻ってくるから!」
「なるべく早く、片づけてくるよ」
 エレンも手を振ったのを確認して、すぐにフェリックスは馬を方向転換させ、走らせ始めた。
 彼らを見送ったルースは、もやもやした気持ちを抱えたまま、しばらくそこに佇んでいた。





 目覚めたのは、物音がしたからだ。
 月夜の差し込む寝室に、なぜかフェリックスがいた。
 彼は香炉のようなものを部屋の隅に置いた後、ルースに近づいてくる。
「……起きたのか」
「……どうして、ここに」
 フェリックスは、昼に見送ったばかりだ。あと数日は帰ってこないはずなのに、どうして。
 起き上がろうとしたが、腕も足も動かなかった。
「悪いな。トゥルーにもらった、レネ秘伝の香だ。今のお前は動けない。だが、意識はあって口もなんとか、動くぐらいだろ。大声は出せないから、諦めろ」
 フェリックスは、ベッドの上に乗ってきた。
「待って……あたし、そんなの……」
 彼と添いたいと思っていた。だが、こんなことをするなんて。あんなに優しく脆い彼が、恐ろしいひとに見えた。
「勘違いするな。俺はお前から、ブラックマザーを抜くだけだ」
「え……?」
 戸惑うルースをよそに、フェリックスは黒い手袋をつけてルースの腹に手を当てた。そして、彼の手はそのまま腹に埋まる。
「……うっ」
「痛いか? ごめんな。だが、触れないといけないんだ。これは、ヴラドが持っていた『ルシファーの手袋』だ」
「ルシファーって、魔王……?」
「その通り。そして、ブラックマザーはその妻……リリスだ。二人とも、地獄で眠っているそうだが、リリスはこうしてカロに召喚されてしまった。眠れるリリスは」
 フェリックスはなおも、ルースの腹を探った。鈍痛に、ルースは歯を食いしばる。
「ブラックマザー……眠れるリリスはいつも、眠っている。地獄に帰るほどの覚醒を促すには、ルシファーの力が必要なんだ。ブラックマザーは、召喚されたときにカロの者に告げてこの手袋を渡したそうだ。地獄に帰すときは、これを使ってほしいと」
 痛みのせいで、話が頭に入ってこなかった。
「だが、これだけではリリスは帰らない。カロには、もう一人リリスがいたんだ。それが、鍵のリリス」
「どういう、こと……?」
「リリスを現世に留め、子々孫々に伝えていきたいと願ったカロの者たちのために、リリスは自分の分身を召喚した。そして、エンプティの素質を持つもう一人の少女にそれを宿した。……リリスは、何体も分身がいるらしいな。とにかく、カロには二体のリリスがいた。先に鍵のリリスをどうにしかしないと、眠れるリリスも帰れない。いわば、彼女が楔だから」
「楔……? それって、だれ……なの」
 予想は、ついてしまった。だって、フェリックスは今日――
「そう。エレンさんだ。彼女は、何百年も前から生きているエンプティだった。その身に鍵のリリスを宿していたんだ。リリスの性質のせいか、他の悪魔と違って彼女はリリスを宿していても健康に長い時間を生きてきたんだ。だが、彼女はそのことを忘れていったそうだ」
 だから、ブラックマザーを宿した者をどうこうしても、どうにもならなかったのだとルースは悟った。今まで、楔の存在に気づいていなかったから。
「フェリックス。ママ……を、どうしたの?」
「殺したよ」
 端的な言葉に、ルースは涙を零した。
「エンプティだから、死体は残った。倉庫に、横たえておいたよ」
「ひどい。どうして」
「ブラックマザーを、現世から消すためだ。荒野に出てからエレンさんを問い詰めたが、本当に記憶がないようだった。だが、ずっと長いこと生きているとは……言ってた。元々、エレンさんはカロの中でも隠された存在だったそうだ。それなのに、ヴラド……兄さんの父親が無理矢理手込めにしたんだ。本人は、実験のつもりだったらしい。何百年も生きている、悪魔を宿した女が子供を産めるのか、興味があったそうだ」
 フェリックスは沈痛な面持ちで、語った。
 だからエレンはあんなにも、夫……いや自分を奪った男を恨んでいたのかと、納得した。
 そして子供が生まれ、ウィンドワード兄弟との交流も生まれ……閉鎖的なカロは変わった。エレンは隠れてはいられなくなったのだろう。
「事情を語ってルースのために死んでくれ、と頼んだら……抵抗しなかったよ」
 フェリックスは、ようやく腹に入れた手を止めた。
「ルース、俺に続いて唱えてくれ」
 次いで、フェリックスは奇怪な言語を口走った。ルースには、どうしてか意味がわかった。
『リリスよ。ルシファーの妻よ。地獄の貴婦人よ。汝を召喚したカロの名の下に、汝が地獄に帰らんことを願う』
 その瞬間、ルースの体から青緑の光が迸った。
「いっ……いたい」
 腹部の激痛で、ルースは叫ぼうとした。実際には、小さな声しか出なかったが。
 しかし、その声すらも許さないといった様子で、フェリックスが左手でルースの口をふさぐ。
 いつまで、そうしていただろう。
 落ち着いたときにはもう光は消えており、フェリックスがルースの頭を優しく撫でていた。その表情は、ひどく優しかった。
「よしよし、よく頑張ったな。もう、ブラックマザーは帰った」
「フェリックス……」
「信じてくれるかわからないけど、お前から事情を話しておいてくれ。ただ、エレンさんを殺したのは俺だ。指名手配でも、何でもしてくれていい」
「待って……。どこに行くの?」
「西部のどこかに。これで本当にお別れだ、ルース。返事をしないままで、良かった」
「嫌よ……そんなの、ずるい」
 ルースは手を伸ばそうとする。だが、体が動かない。涙だけが、伝っていく。
「ありがとう、フェリックス。あたしのために、辛いことさせた。あんただって、辛かったでしょ……。ママともずっと、一緒にいたんだもの。憎まないから、行かないで」
「お前が憎まなくても、他の家族は……無理だろ?」
 軽い口調で言っていたが、フェリックスの声音には苦みが滲んでいた。みんなに恨まれると、わかっているのだ。
「お願い。それなら、あたしだけ連れていって」
「だめだ、ルース。それはできない。そんな恩知らずなこと、できるはずないだろ」
 フェリックスは顔を近づけて、ルースの額に口づけた。
「ありがとうな。こんな俺を愛してくれて。嬉しかったよ。それだけは、本当だ」
 彼はベッドから下りて、香炉を袋に入れていた。
「……神のご加護がありますように」
 ペンダントの十字架を掲げて祈ってから、フェリックスは窓を大きく開いてそこから身を躍らせた。