Chapter 3. Angel's Heart
天使の心
件の洞窟を訪れるべく、ルースたちは朝早くに出発した。
洞窟近くにある町に着いたときにはもう、日暮れだった。
「洞窟に行くのは明日だな。今日はここで一泊しよう」
「ええ」
フェリックスの提案に頷き、ルースもトゥルー・アイズも馬から下りる。
ふと、ルースは傍らのトゥルー・アイズを仰いだ。
なんとなく彼も付いてきてくれたが、いいのだろうか。彼は族長だというのに。
すると察したように、彼は微笑んだ。
「お前の心配することではない」
「……そう」
心を読まれたような言葉に少し驚きながら、ルースは相槌を打った。
その夜、宿での食事の後に、フェリックスは「サルーンに行ってくる」と言って行ってしまった。
ルースは、これはチャンスとばかりに口を開いた。
「ね、ねえトゥルーさん」
「何だ?」
「あなたは、フェリックスのお兄さんのこと知ってるの?」
「……ああ、ビヴァリーか。話を聞いただけだが。会ったことはない」
「あの人――もしかして、ブラッディ・レズリーの一員になった、とか?」
ルースの発言に、トゥルー・アイズは眉を上げた。
表情の動きが小さいので、彼の表情を読み取るのは難しかった。
「なぜ、そう思う?」
「実は……」
と、ルースはフィービーから聞いたことを語った。
フェリックスが、ブラッディ・レズリーの誰かを庇ったらしいこと。
「それがお兄さんなら、辻褄が合うって思ったの」
「……」
トゥルー・アイズは、肯定も否定もしなかった。
「身内なら庇ってしまったとしても、不思議じゃない。でも……それなら、さすがに言うべきだと思うの。どうしてフェリックスは、黙っているの?」
「待て、ルース」
トゥルー・アイズは、グラスを傾けてからルースを見据えた。
「それが事実だと、決まったわけではないだろう」
「トゥルーさんは、知らないの?」
「知らないな」
平坦な声だったので、嘘をついているかどうか見極めるのは難しかった。
「……でも、トゥルーさん。どう考えても、それだと辻褄が合うのよ」
頑なに過去に触れなかった理由も、そうするとより納得できる。
「あたし、過去を覗いたことを正直に言おうかしら。そして真実を聞いて、あたしが合ってたらフェリックスに保安官に言うように促すわ。兄がブラッディ・レズリーなら、黙っているべきじゃないわ。フェリックスなら、彼の顔も知っているんだし。そこから、組織を壊せるかもしれない」
「……それは、やめておけ。フェリックスが、どういう反応をするかわからない。私から、聞いてみよう」
「トゥルーさんから?」
「ああ。私なら、あいつの過去を知っていて当然だ。お前から連邦保安官の話していたことを聞き、思い至った――という筋書きで聞いてみよう。それなら、いいだろう?」
「え、ええ」
願ってもない話だが、一つだけ心配なことがあった。
(トゥルーさんが嘘をつくかもしれない、ってこと)
もし彼がフェリックスが敢えて黙っている理由を知っているなら、きっと嘘をつくだろう。
でも、信じるしかない。
「わかったわ……。お願いするわ」
「ああ。承知した。……さて、ルース。そろそろ、部屋に上がろうか。ここは治安のいい町ではない。部屋で何かあったら、すぐに私かフェリックスを呼ぶように」
「ええ」
フェリックスとトゥルー・アイズは二人部屋、ルースは一人部屋という割り振りになっていた。
トゥルー・アイズにならって立ち上がり、歩き始めた彼の背を追う。
どうして二人でサルーンに行かないのか疑問だったのだが、ルースを一人にしないためだったらしい。
階段を上がろうとしたところで、酔っ払いが近寄ってきた。
「おーいおいおい、先住民なんて珍しいなあ。本当に赤い肌してやがる!」
「……」
トゥルー・アイズは、冷たい目で男を睥睨した。
「そこを退け」
「いやーだね。おっと、ちんちくりんの嬢ちゃん連れてんじゃん。おい、嬢ちゃん。先住民なんかより、俺と一緒に行こうぜ。こいつら、危険だぞ――」
「黙って退け」
トゥルー・アイズが穏やかに続けると、男はむかっとしたように拳を振りかぶった。
「気に入らねえな!」
危ない、とルースが叫びかけたところでトゥルー・アイズは下に頭を下げて男の拳を回避。お見舞いとばかりに、足払いを食らわせていた。
「うげっ」
間抜けな声を出して、男がのびる。
トゥルー・アイズは何事もなかったかのように、さっさと階段を上がり始めた。
「びっくりした……。トゥルーさん、強いのね」
「意外か?」
「ええと、あんまり屈強には見えないから」
トゥルー・アイズは骨が細いのか、ほっそりとしていて華奢な体格だ。間違っても、強そうには見えない。
「このくらい、あしらえる。護身術は、たしなんでいるからな。お前も、護身術を覚えるといい。レネの女の習う護身術は、あまり力もいらない」
「へえ……」
「私の妻も小さくて細いが、護身術は得意だぞ」
「えっ!」
そこで驚いてしまった。
「何だ?」
階段を上がり切ったところで、トゥルー・アイズがうろんげに振り返る。
「妻、って――」
「……結婚など、珍しいことでもないだろう」
彼はルースがなぜ驚いているのか、わからないようだった。
「はあ」
トゥルー・アイズはフェリックスと同い年と言っていたから、十九歳。それなら、結婚しててもおかしい年ではない……のだろうか?
「あたしの感覚からすると、男性にしては早い感じがするわ」
「そうか? レネ族では、十六か十七で結婚することが多い」
「へえ……」
改めて、異文化だと実感する。
「奥さんの名前、なんて言うの?」
ルースの問いに、彼は優しい笑みを浮かべた。
「リトル・バード」
翌朝、洞窟を目指して出発した。
町から出て小一時間ほどだろうか。特にトラブルもなく、目的の洞窟に着いた。
フェリックスが馬から下り、「様子を見にいくから少し待っててくれ」と言い残して入っていってしまった。
しばらくしてフェリックスが出てきて二人に頷きかけたので、ルースもトゥルー・アイズも馬から下りた。
中に入ると、ひやりとした空気が包んだ。
「……わあ」
ルースは足を止め、大きな氷の塊に息を呑んだ。氷の中に、まばゆい光がある。
ルースからはただの光にしか見えないが、フェリックスには天使に見えているのだろうか。
「どうして凍っているの?」
「ただの氷じゃない。悪魔が氷漬けにでもしたかな。……ちょっと待っててくれ」
フェリックスは氷に近付き、何事か話しかけていた。
「……ちょっと交渉が長引きそうだな。トゥルー。外でルースと待っていてくれ」
「わかった」
「えっ」
ルースは戸惑ったが、トゥルー・アイズに手を引かれて彼の後を追うことしかできなかった。
フェリックスは二人が出ていったのを見送り、また氷に向き直った。
フェリックスの目には、天使は金髪の青年に見えた。とはいえ天使は悪魔と同じく現世では実体を持たないはずだから、これは自分のイメージが具現化しているだけだろう。
「――聖水をかければ、あんたは解放されるんだな?」
『おそらく』
「それで、さっき頼んだ……悪魔の植物に取りつかれた依り代の少年――彼の中に入って、浄化してくれるか」
『構わないが、今の私は弱っている。ここから出た後は実体を保てず、天に帰ってしまうだろう。私を依り代の少年に入れたいのなら、彼をここに連れてくるしかない』
「……それは無理だ。体がもたない」
『なら、違う依り代を貸せ。あの少女もまた――依り代だろう』
天使の発言に、フェリックスは眉をひそめた。
「ああ。だが……入れるのか?」
『問題ないだろう。作用しないようにする。だが、浄化はできない』
「……わかった。あんたがいいなら、頼む」
フェリックスは殊勝に頭を下げてから、一旦洞窟の外へと向かった。
「ルース」
声をかけられ、馬にもたれかかっていたルースは顔を上げた。
「どうしたの?」
「……天使が、一旦誰かに取りつかないと実態を保てないんだってさ。天使曰く、お前もエンプティらしいから、一旦依り代になってくれるか」
フェリックスの発言に、ルースは仰天した。
「あ、あたしもエンプティなの!?」
「らしいな」
「でも――あんた、言ったじゃない。わからないって」
「俺から見ても、わからないんだよ。天使がエンプティって判断したんだ」
「……」
ルースは、じっとフェリックスの目を見た。
(本当に、それだけ?)
そう聞きたいのを堪えて、ルースは頷く。
「わかったわ。それで、あたしはどうすればいいの?」
「こっちに来てくれ。トゥルーも」
「ああ」
そうして三人は再び、洞窟の奥へと向かった。
「今から氷に聖水をかける。そしたら、お前の中に天使が入ってくるはずだ。……ちょっと変な感じがするかもしれないけど、こらえてくれ」
「了解」
フェリックスの指示に頷き、ルースは氷の方を見やった。
フェリックスは懐から聖水の小瓶を取り出し、氷に向かってかける。すると、みるみる内に氷が溶けだした。中の光が、輝きを増す。
あまりの眩しさに目を抑えたルースは、突然腹のあたりが熱くなる感覚に耐えきれず、膝をついた。
「……っ」
「ルース、大丈夫か」
フェリックスがすぐに、助け起こしてくれる。
「今、天使がお前に取りついたんだ」
「なんだか、ぐらぐらする」
ルースは目を閉じる。立とうとしているのに、足が言うことを聞かない。
「ルース――」
ぷつりと、フェリックスの声が聞こえなくなった。
意識が覚醒したのは、どれほど時間が経った後だろう。
これは馬に揺られる感覚だ、と気づいて体の状態を意識する。
どうやら、誰かが抱きかかえるようにして馬に乗せてくれているらしい。
「ルースは大丈夫なのか」
トゥルー・アイズの声が聞こえる。
「うーん、あんまり大丈夫じゃなさそうだな。拒否反応ってやつか?」
フェリックスの声は、かなり近くから聞こえた。どうやら、ルースを乗せているのはフェリックスのようだ。
「やはり――同居は難しいか」
「そうだろうよ。急いで、ジョナサンのところに行かないとな」
同居……と、ルースは心の中で反芻する。
(あたしの中には既に、何かがいるってこと?)
そこでようやく、得心がいった。
(あたしが記憶を失くしたいと自ら願った理由は、きっとそれに関することなのね)
もっと考えたいのに、意識をそれ以上保っていられなかった。
はっきりと目覚めたのは、ベッドの上だった。
「……あれ」
宿の一室のようだ。最低限の家具しかない、簡素な部屋だった。
ルースはベッドからおりて、ブーツをはいた。
服は寝間着ではなく、ルースが意識を失う前に着ていた服だ。
(あの洞窟から、あまり時間が経っていないのかしら)
外に出ようかと思ったが、フェリックスやトゥルー・アイズがここに来るまで待つ方が得策だと判断し、ルースはベッドの上に腰かけた。
「……」
夢うつつで、気になる会話を聞いた。
腹に手を当てる。まだ、違和感があった。
そこで、いきなり部屋のドアが開いて、フェリックスが入ってきた。
「……あ。ルース、起きたか」
「ええ。ここはどこ?」
「洞窟から少し離れたところにあった、町だよ。治安があまりいいところじゃないから迷ったけど、ここに一泊するのが一番いいと判断したんだ。一刻も早く、農場に帰らないといけないからな。――それで、体は大丈夫か?」
「まだ少し変な感じがするけど、大丈夫」
「そうか、よかった。もうすぐ夕食の時間なんだが、食堂まで行けるか?」
「うん」
ルースはふと、フェリックスを見上げた。
「どうした?」
「あたし、夢うつつであんたとトゥルーさんの会話聞いたんだけど」
「……」
「あたしの中に、元々何かがいたの?」
フェリックスはうろたえるかと思ったが、意外な行動に出た。にっこり笑って首を傾げたのだ。
「何を言ってるんだ? ルース。お前がエンプティなことは、俺だって今日初めて知ったんだぞ」
「う、嘘。じゃあ、あの会話は何だったのよ」
「夢でも見たんじゃないか? さあ、行こう。早く」
フェリックスはルースを促した。嘘なんてつきっこないと思わせるような、爽やかな笑顔で。
「……わかったわ」
これ以上追及しても、口を割らないだろう。ルースは頷き、フェリックスの背を追った。