2. Don't Leave Me

3


 トゥルー・アイズは器用に、フェリックスたちの座る席からほどほどに近く……しかし死角になっている席を見つけ出してくれた。
 ウェイターにルースはオレンジジュースを頼み、トゥルー・アイズは麦酒を頼んでいた。
 注文の品が来て、ルースはオレンジジュースをすすりつつ……彼らの会話に耳を傾けた。
「……どうして今まで、戻ってきてくれなかったの?」
「忙しかったんだよ」
 フェリックスにしては、素っ気ない口調だ。
(女の子にはいつも、優しいのに)
 よく知った仲だから、なのだろうか。
「ねえ、フェリックス。あなたは姉さんのせいで、私にも……複雑な想いを抱いているのかもしれないわ。でも、私だって――」
「そんなことないって、ビアンカ」
「本当に?」
「ああ」
「それじゃあ、どうして。ねえ、フェリックス。せめて、たまにはここに戻ってきてほしいの」
 ビアンカの声が、少し弱々しくなった。
「旅立つ前にも言ったけど、俺はお前の気持ちには応えられない」
「どうして! 姉さんのせいなの? それとも――」
「お前のせいじゃないし、姉のせいでもないさ。俺はただ、所帯を持つつもりがないってだけ」
 その答えに、青ざめたのはビアンカだけではなかった。
(所帯を持つつもりがない、ですって?)
 ルースは思わず、振り向きそうになってしまった。
 フェリックスがそんな決意を固めているなんて、知らなかった。
「どうして、そんなことを?」
「どうしてでもさ。さあ、話は終わりだ。ここは俺の奢りってことで」
 フェリックスは硬貨をテーブルに置いて、立ち上がった。
 ルースは慌てて顔を伏せたが、さすがに立ち上がったら気づいたようだ。
「……トゥルーにルース。ここで何してるんだ?」
「うん? 喉が渇いたから、飲みにきただけだ」
 トゥルー・アイズはすっとぼけた様子で、グラスを傾けた。
「それにしちゃあ偶然だな? ルース」
 顔を近づけられ、ルースは肩を震わせた。フェリックスの顔が……明らかに、怒っている。
「ご、ごめんなさい」
「まあまあ、彼女を責めるな。私が話を持ちかけたんだ。責めるなら、私を」
 トゥルー・アイズが手で制したのを見て、フェリックスは肩をすくめた。
「……兄弟といえど、こんなことは止めてくれよ」
「すまなかった」
「……今回は許すけど。じゃあな」
 フェリックスは平坦な声で告げて、サルーンを出ていってしまった。
(ちゃんと、謝った方がいいわよね)
 はあ、とルースはため息をついた。

 家に戻っても、フェリックスは帰っていなかった。あのまま買い物に行ったのだろう。
 トゥルー・アイズが夕食を作り出したので、支度を手伝うことにした。
「トゥルーさんって、料理うまいのね」
「そうか? 普通だと思うが」
 謙遜ではなく本気でそう言っているようで、トゥルー・アイズは首を傾げていた。
(上手いと思うけど)
 ここにフェリックスがいたら、「そりゃルースから見ればそうだろうよ」と言っていたことだろう。
 食器をテーブルに並べ始めたところで、フェリックスが帰ってきた。
「……おかえり」
「ただいま」
 まだ怒っているのか、素っ気ない口調だった。
「あの」
 ルースは勇気を出して、フェリックスの正面に立った。
「何だ?」
「……ごめんなさい。二人の関係が気になって……話、聞いちゃった」
「……」
 フェリックスはしばらく、無表情だった。ルースはぐっと拳を握りしめ、裁定を待つ。
「――素直に謝ったから、許すよ。あんまり好奇心だけで動いちゃだめだぞ」
 軽い口調で言って、フェリックスはルースの頭をぽんと叩く。そしてそのまま、二階に上がっていってしまった。
 ルースはホッとして、胸を押さえた。

 夕食が始まってすぐ、トゥルー・アイズが口を開いた。
「それで、二人とも体調はどうなんだ?」
「ああ、俺はもう大丈夫かな」
「あたしも」
「そうか。お前たちの旅は、急ぐのだろう? ルース――お前の弟が待っているのだから」
 指摘され、ルースはうつむいた。
 事件に巻き込まれてばかりで、旅は順調とは言えなかった。
(ジョナサン、今頃どうしてるかしら)
 症状がひどくなっていないだろうか。
「そうだな。早めに出発しないと。あんまり、ここにいたくないしな」
 後半の呟きはひどく小さくて、ルースが注意していなかったら聞き逃していたかもしれない。
「ふむ。私もお前たちの看病をする傍ら、この町で情報収集もしてみたのだ。この近くで、“天使が封じられている洞窟”があるらしい」
「て、天使!?」
 ルースは気色ばんだが、ハッと思い直した。
 悪魔がいるのだから、天使だっているだろうと。
(それに――)
 ルースはちらっと、フェリックスの方を見た。
 フェリックスの養父であったシュトーゲル牧師は、天使をその身に宿していたという。
「天使かあ。行ってみる価値はありそうだな」
「フェリックス。でも天使に会ってどうするの?」
「ジョナサンに宿ってもらうんだよ。言ったろ? ジョナサンはその身に悪いものも善きものも、宿せると。天使を宿せば、悪魔の植物は浄化されるさ」
「……ふうん」
 聞いても、いまいち要領のつかめない話であった。
(そもそも、どうしてそんなことができるのかしら)
 ルースは腕を組んで考え込んだ。
 フェリックスの父親も悪魔祓いで、兄も悪魔が見えたという。
 とすると、こういう力は血族で受け継がれるものだろう。ジョナサンが、“エンプティ”なら……
「あたしも、エンプティだったりするの?」
 ルースの問いに、フェリックスは首を傾げた。
「さあ……。そういう素質って、他人からはわからないものなんだよ。どうして、そんなこと聞くんだ?」
「……いえ」
 フェリックスの過去を覗いたことは、言ってはならない。
 ルースは話をはぐらかそうと他の話題を捜したが、そこでトゥルー・アイズが助け船を出してくれた。
「お前の一家は、占いのようなことをやっていたのだろう? 特殊な力があってもおかしくないと思ったのでは?」
「え、ええ。そう。といっても、ママだけかな。あたしの本当のママも不思議な人だった、ってパパが言ってたんだけど」
 ルースは敢えて饒舌に語った。
「そういや、親父さんはロンドン出身だって言ってたよな? ロマじゃないってことか?」
「そう。ウィンドワード一座の前身は、カロ一座っていうロマ人で構成された一座だったのよ。カロ一座が破産しそうになったところで、金融業の手伝いをしてたパパが助けて立て直したの」
 ルースは、自分が知っている限りのことを語った。
「元々、パパもレイノルズ叔父さんも音楽が好きで。カロ一座とも親交があったんですって。その縁で、助けたのね。それで、しばらくは旧大陸を回っていたのよ」
「へー。ルースもジョナサンもロマっぽくない容姿だけど、実の母親もロマ?」
「ええ。産みの母親も、ロマだったはずよ。先祖返りか何かで、金髪碧眼だったみたい。北方の血が入ってたんだって」
「へえー」
 フェリックスは目を丸くしていた。
(そういえば、フェリックスって今までこういうこと聞かなかったものね)
 他人に踏み込まない彼らしい、と思ったところでちくりと胸が痛んだ。
「だからあたしが子供を産んだら、ロマらしい容姿の子が生まれる可能性もあるんだってパパが教えてくれたのよ」
 そう言ったところで、ルースはフェリックスの所帯を持たない宣言を思い出してしまった。
「なるほど。兄さんみたいな子か。うん? 待てよ。レイノルズさんの奥さんは、ロマじゃないよな?」
「イングリッド叔母さんは違うわ。彼女は元々、叔父さんの婚約者でロンドンの人。パパにも婚約者がいたらしいんだけど、流浪の暮らしについてきてくれって言ったら振られて婚約解消されたんだって」
「……なるほど」
 フェリックスは微かに笑って、トゥルー・アイズは無表情で首を傾げていた。
「結構、波乱万丈でしょ? でも、そんなウィンドワード一座も、もう定住しちゃうかもしれないわね」
 ルースの発言に、フェリックスは眉を上げて「どうして」と呟いた。
「パパは、農場暮らしが気に入ってたからね」
 それだけでなく、新大陸に来てからトラブル続きで、一家は疲弊していた。加えて、ジョナサンの病気だ。
 移民するに当たって、カロ一座だった者はほとんど抜けてしまった。ロマだとパスポートが取りにくかったから、という理由も大きい。そしてしばらくして、叔父一家も抜けた。
 父は、明らかに疲れていた。
(あたしは、反対できない)
 たとえ、二度と人前で歌えなくなろうとも。
 すると、ルースの心を読んだかのようにフェリックスが口を開いた。
「ルースの歌が聴けなくなるのは、残念だな」
「……でも」
「なんとか、続けたらどうだ? 勿体ないと思うぜ。東部なら、劇場とかもあるじゃないか」
 心の底から言ってくれているのだとわかったから、自信のないルースでも頷くことができた。
「……考えてみるわ」
「そうそう。得意なことは活かさないと! ……そういやトゥルー、お前はルースの歌を聴いたことないんじゃないか?」
「そういえば、ないな」
 フェリックスに問われて、トゥルー・アイズは肯定する。
「歌ってやったらどうだ? トゥルーに助けてもらったお礼、ってことで」
「ええ!? え……いいけど」
 ルースは周囲を見渡した。オーウェンが置いていった、ギターがあったはずだ。
「いいわ。じゃあ夕食の後で、この食堂で披露するわ」
「……楽しみにしている」
 トゥルー・アイズは、目を細めて微笑んだ。

 そして夕食後、フェリックスは椅子を並べてくれた。
 ルースの席の正面に、二人の椅子を持ってきて観客のような形になる。
「じゃあ……歌うわ。穏やかな日々を歌った、西部の民謡よ」
 ルースはギターをつま弾いた。兄ほど上手くは弾けないが、こういった伴奏ぐらいはできる。
“日々は絶えまなく過ぎて
 でもいつも思い出す暮らしがある
 あれは私が十五のとき……”
 二人の前で歌うのなら、この歌しか思いつかなかった。
 温かな、家族を歌った歌。
 歌い終わり、立ち上がって一礼すると、二人は大きな拍手をしてくれた。
「初めて聴く曲だが、いい歌だな! よかったぞ!」
「……感心した。お前の歌には、力があるな」
 褒められ、悪い気はしなかった。

 明日早速、噂の洞窟を訪ねることになったので、この家での暮らしは今日で最後だ。
 ルースはベッドに座って、ぼんやりしていた。
 フェリックスの記憶を、思い起こす。
(エヴァン――)
 弱々しい少年エヴァンは、今の飄々としたフェリックスになった。
 でも、とルースは思う。
(今も、どこかにエヴァンがいるのじゃないかしら)
 だからフェリックスは、他人に心を見せたがらないのではないか。
 ルースは、ふと思いついた。
(フェリックスのお兄さん……ビヴァリーだったかしら? ひょっとして――)
 フィービーが、フェリックスはおそらくブラッディ・レズリーに身内か知り合いがいると言っていた。
 それが、ビヴァリーだとしたら?
(それなら、フェリックスは……逃がしてもおかしくない)
 確執があり、フェリックスの養父を奪った人物だとしても。恨みきれなかったのではないだろうか。
 ビヴァリーは母親を殺して逃げ切った。あの後、ブラッディ・レズリーに入ったとしても、納得がいく。
 確かめたくても、フェリックスの記憶を覗いたことを言えない以上、それはできない。
(かといって、フィービーに言うわけにもいかないわよね。でも、いくら身内とはいえどうしてフェリックスは黙っているのかしら? 彼から、ブラッディ・レズリー検挙につながるかもしれないのに)
 もちろん、ブラッディ・レズリーの一員が彼の兄だというのはルースの推論に過ぎないのだけれども。
(トゥルーさんに相談してみようかな)
 そう決めて、ルースはベッドに潜り込んだ。
 目を閉じると、すぐに眠気がやってきた。