5. The Beautiful Lynx

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 エウスタシオは、すぐにフィービーに心を許したわけではなかった。
 異常なまでに人が触れることを嫌った。
「お嬢様! 大変です!」
 メイドが走ってきて、廊下を歩いていたフィービーは足を止める。
「どうした?」
「あの、あなたが連れてきた……」
「エウスタシオのことか?」
「はい。お風呂の準備をして、入れてあげようとしたら凄まじい抵抗を……!」
「わかった。私が行く」
 フィービーはメイドの横を通り過ぎて、浴場に向かった。
「入るぞ」
 扉を開けると、エウスタシオはどこにもいなかった。
「……うん?」
 そしてフィービーは、浴場を出て自室に向かった。案の定、そこにエウスタシオがいた。
 白いシーツを身にまとって、震えている。
 いつ開けたのか、窓から冷たい風が吹き込んでいた。
「お前、何をしている」
「…………!」
 エウスタシオは、フィービーには理解できない南大陸の言葉――イスパニヤ語で喚いた。
「……何を言っているか、わからんな。……もしかして、体を触られたからか」
 指摘すると、彼は黙り込んでうつむいた。
 フィービーは腕を組み、考え込んだ。
 ずっと暗い牢にいたせいなのか、環境が変わったからなのか。ともあれ、精神が不安定なのだろう。
 フィービーは、手を伸ばした。
 その手に噛みつかれ、顔をしかめる。
「本当にリンセ(山猫)のようだな、お前は」
「……」
「しっかりしろ。私はお前を、“エウスタシオ”に戻してやる」
 口が離れ、フィービーの手が解放される。鮮やかな血が垂れ、エウスタシオは目を逸らした。
 ぐっと彼の肩をつかみ、フィービーは彼の目を覗き込む。
「私に従え、エウスタシオ」
「……」
「悪いようにはしない、と言っただろう」
 エウスタシオは、不安そうに揺れる目でフィービーを見つめ返すだけだった。
「……とりあえず、風呂に入れ」
 フィービーは彼を引っ張り、半ば無理矢理バスタブの傍に連れていく。どん、と押すとシーツごとバスタブに落ちてしまった。
 少し乱暴すぎたか、と反省しながらも濡れたシーツを取り上げ、バスタブに石鹸を放り込む。アレクサンドラ家ご用達のバスタブ用石鹸は、フィービーがかき混ぜるとすぐに湯に溶けて泡立ち始めた。
「洗われたくなかったら、自分で洗え」
 命じて、フィービーはエウスタシオに背を向ける。水音がして、体を洗っているのだと耳で確認してから、その場を後にした。
 小一時間後、隣の部屋で待っていると、真新しい服に身を包んだエウスタシオが出てきた。
「……」
「そこに座れ」
 鏡の前の椅子を示す。エウスタシオは黙ってそこに座った。
 バスタオルで、彼の長い黒髪を拭いてやる。何で私がこんなことを、と思いながら鏡に映るエウスタシオの目を見る。彼の目は、虚ろだった。
 生きることを諦めた者が持つ、何の力もない目だ。
 綺麗に身支度させたので、監獄で見たときよりもその顔《かんばせ》は美しく写った。美しく生まれついた者が、必ずしも幸福な人生を辿るとは限らない。反対に、不幸を呼ぶこともある。エウスタシオの美貌は正に、不幸を呼んだと言えた。
 まだ男性性に乏しい体ともあいまって、髪の長いエウスタシオは少女にも似て見えた。
「……髪、切るか?」
 問うと、エウスタシオはこくりと頷いた。
「ふむ。とりあえず、私が切ってやるか。言っとくけど、下手だからな。後でメイドに揃えてもらうんだぞ」
 言い添え、フィービーは鏡台の引き出しを開けてハサミを取り出した。
 バスタオルをエウスタシオの肩にかけ、黒髪に鋏を入れる。
 惜しいな、と思ってしまった。緩く波打つ黒髪は、ろくに手入れもされていないだろうに、美しかった。
 だがその未練を断ち切るかのように、思い切って鋏を握る手に力をこめる。じゃきん、という音と共に床に髪が落ちた。それから何度か鋏を動かし、後ろ髪は完全に切られた。
 多少ざんばらな出来ではあったが、エウスタシオは短髪になった。初めて、彼の目に感情が浮かぶ。それが嬉しさなのか驚きなのかはわからなかったが、少なくとも負の感情ではなさそうだった。

 それから、フィービーは辛抱強くエウスタシオとの距離を詰めていった。
 真新しい服を与え、教育をつけて。
 もちろん、母はいい顔をしなかった。
「フィービー! 何ですか、あの混血の子は! あの子は、何者なのです!」
「……助手ですよ」
「助手?」
「そう。私は、あいつを保安官補にするのです」
 しばらく共に過ごしてわかったが、エウスタシオは頭が切れる。副頭領をやっていただけはある。シエテの情報を持ち、頭の回転が速い彼は保安官補としてこの上ない逸材だ。償いとしても、ちょうどいいのではないだろうか。
 少しずつ、過去についても話してくれるようになった。
「クルーエル・キッドは、頭領とだけ直接連絡を取っていたようです。私とは、手紙の連絡だけ」
「連絡? お前は連絡を取って、どうしたんだ?」
「……話を持ち掛けたのですよ。私は頭領が憎くて、たまりませんでしたから。乗っ取るなら、力を貸すと。キッドが何らかの意図をもって、近づいてきたことは察しましたから」
「なるほどな。それで、キッドはその話に乗ったのか」
「ええ。キッドは私の流した情報を保安官たちに横流しして、なおかつシエテに潜入――頭領を討ち取った」
 そこまで聞いて、フィービーは首を傾げた。
「乗っ取りか――。しかし、キッドはシエテを破壊して自分の組織を立ち上げたよな。シエテの者たちは捕まるがままで」
「ええ……」
「まあ、お前の提案は利用したってだけか。しかし、シエテをどうして破壊したかったのかよくわからないな。自分の組織を立ち上げるにあたって、ライバルになりそうな組織を潰した――ってとこか」
「そうでしょうね」
 フィービーはエウスタシオの相槌を聞きながら、窓から外を見た。
 エウスタシオを連れ出してから、約半年。その間も何回か、西部には行って調査をしていた。エウスタシオを置いていくのは不安なので、彼も連れて。
「エウ。私は、そろそろ保安官補を選ぼうと思う」
 フィービーは調査の際は臨時の者を雇っていて、まだ正式な保安官補を指名していなかったのだ。
「……はあ」
 エウスタシオは、「それが何か?」とでも言いたげな口調だった。
「ほら」
 フィービーは懐から取り出した、星型のバッジをエウスタシオに差し出した。
「……私、に?」
「そうだ。何のために、お前を教育したと思っている。呑み込みが早くて助かったがな」
 エウスタシオは信じられないのか、何度もフィービーとバッジに視線をさまよわせていた。
「早く、受け取れ。お前は連邦に忠誠を誓え。そして私に――」
「……誓います」
 バッジを受け取り、エウスタシオは厳粛に頭を下げた。
「お前に、新しい戸籍を用意したぞ。名前は適当に付けた」
 書類を渡すと、エウスタシオは首を傾げた。
「エウスタシオ・D・ソル……?」
「ソル、はお前の母国語で太陽だろう。私のフィービーという名前は、月の女神が語源らしいからな。それと対称を成す意味で、ソルにしておいた。お前の故郷では太陽を崇めていたっていう話も聞いたし」
「……Dは?」
「適当に、ダビドにしておいた。メイドの父親の名前を勝手に借りた」
「……」
 適当なセカンドネームの名づけ具合に、エウスタシオはため息をついていた。
「ありがとう、ございます……」
 エウスタシオは、初めて屈託のない笑顔を浮かべた。
「名前を、取り返してくれて……」
 頬に、涙が伝う。フィービーは彼に手を伸ばし、頬を撫でた。
 もう彼は、噛みついたりしなかった。



 ぼんやりと出会いを思い出していたフィービーは、正面で本をめくるエウスタシオを改めて眺めた。
(大分、安定したな)
 保安官補が務まるのかどうか、少し心配もしていた。しかしエウスタシオは、フィービーの予想の上をいく優秀さを発揮した。
 保安官補に選んで正解だった、と思っているが……。
(ブラッディ・レズリーの事件が終われば、解放してやるべきなのかもしれない)
 他の連邦保安官は、エウスタシオの出自を知っている。知っているからこそ、あのような嫌味を言って疑いを向ける。
 今後も、きっとそうなのだろう。
 今はまだ、フィービーが西部を荒らすブラッディ・レズリー担当だからいい。混沌とした西部では、エウスタシオの存在はそれほど浮かない。
 だが、今後は東部の事件が割り振られるかもしれない。その際、エウスタシオは居心地の悪い思いをするかもしれない。
 容姿も頭もいいから、どこででもやっていけるだろう。保安官補として、一生縛り続けるのは気の毒に思えてきた。
(母国に、帰りたいかもしれないしな)
 ふと、フィービーは質問を口にした。
「エウ。故郷のこと、覚えているのか?」
「はい? ……まあ、少しは」
 シエテにいたときは、南大陸を駆けずり回ったはずだが、故郷に帰ることはなかっただろう。
「父が、お前の故郷出身の奴に会ったと言っていた。美しい歌を歌ってくれたとさ」
 昨日、父親が嬉しそうに語っていた。大層美しい歌だったのだろう。母親と違い、父はエウスタシオには割と好意的で助かる。
「……そうですか。故郷の歌は、忘れましたね」
「おや、残念だな」
「母親が歌っていた記憶はあるのですが……どんな歌だったかな」
 エウスタシオは目を細めて、過去を想っているようだった。
「言葉も、先住民の言葉は忘れてしまいましたし」
「言葉? ああ、そうか。母親は先住民の言葉を喋っていたのか」
「ええ。父親も学者でしたから、どちらの言葉でも喋っていましたよ。それを聞いて私は覚えたのですが、先住民の言葉はそれ以降喋る機会もありませんでしたから」
「……ふむ」
 本来ならバイリンガルというやつだったのか、とフィービーは納得した。
(いや、ここの言葉とイスパニヤ語を操るから、今でもバイリンガルではあるのか)
 外国語はさっぱりなフィービーには、エウスタシオがどういう頭の構造をしているのか不思議でならなかった。
「帰りたいと、思うか」
 問うてみると、エウスタシオは眉をひそめた。
「……わかりません」
 正直な気持ちだったのだろう。急に怯えた子供のように、エウスタシオは眉をひそめた。
「でも、墓参りぐらいはしたいですね……」
「そうか。――ま、一度行ってみるか」
「え?」
「ブラッディ・レズリーの事件が解決すれば、長い休みも取れるだろう。そのときは、付き合ってやろう」
「……ありがとう、ございます」
 急にそんなことを言い出したフィービーが不思議だったのか、エウスタシオは眉をひそめたまま礼を言った。
「フィービー! 行きますよ!」
 部屋の扉が開き、母の声が響く。
 フィービーは「やれやれ」と立ち上がった。
「じゃあな、エウ。留守番よろしく」
「……はい」
 エウスタシオは殊勝に頷いた。
「あら。そこの……あんたの助手は、夜会に出ないの?」
「エウのことですか? 出ませんよ」
 きっぱりと母の質問に答えると、母は眉をひそめた。
「私は……出たらひんしゅくを買うと思うんだけどね。主人が、彼も来たらどうかって……」
 母の発言に、フィービーは眉をひそめた。
「父上が?」
「ええ。あの人は、先に夜会に行ってしまったわ」
「……ふむ。なら、エウも連れていきましょう」
「フィービー様。でも」
「父上が言うなら、何か考えがあるんだろう。メイドを呼ぼう」
 フィービーはドレス姿も台無しな大股で、走り出した。