Chapter4. Cradle Song
子守唄
ひどく、具合が悪い。ルースは吐きそうになって、馬から落ちそうになってしまった。
「限界か?」
彼女を支えるフェリックスの腕に、力が入る。
「う、うん……」
「わかった。どこかに寄るか。もう少し、こらえてくれ」
フェリックスの声を聞きながら、ルースは意識を手放した。
ふと気がつくと、ベッドの上に寝かされていた。
「うん……」
うめいて、身を起こす。なんだか古ぼけた部屋だ。
壁越しに、何か声が聞こえてくる。ルースは耳を傾け、羞恥に頬を染めた。
(あ、喘ぎ声!?)
あわわ、とルースはベッドから下りてブーツを履く。ここから出ていかなくては、と気ばかり急く。
ルースは廊下に出て、階段を駆け下りた。
「……あれ、嬢ちゃんが起きたみたいだよ」
「――おや」
フェリックスは、一階のサロンのような場所で四十ぐらいの女と話している途中だったらしい。ルースを認めるなり、腰を上げた。
「ルース、大丈夫か?」
「え、ええ。ここはどこ?」
聞きながら、なんとなく察する。どこか淫靡な内装。この年齢の女性にしては露出の多いドレスを着こんだ、女性……。
「娼館だよ」
フェリックスではなく、女が答えた。彼女はにやりと笑う。
「あたしはこの館の女主人、シャーロットだ。フェリックスが、どうしても休ませてほしいって言うんで、特別に宿として部屋を貸すことにしたのさ」
「……!」
ルースは驚き、唇をわななかせた。
「ど、どうして、よりにもよって娼館に」
「ここは荒野の、ど真ん中にあるからねえ。こっから町に出るには遠いよ」
女主人は説明を続けたが、ルースは首を横に振った。
「あたし、もう大丈夫よ。出発しましょ」
「そうもいかない。お前の今の体調じゃ、野宿は無理だし」
フェリックスは、ため息をついて肩をすくめた。そんなことないわ、と言いかけたところでめまいを覚えてぐらつく。フェリックスに腕をつかまれ、何とか倒れ込まないで済んだ。
「……ほらな。今日は、ここで休ませてもらおう」
フェリックスは有無を言わせず、さっさとルースを抱き上げてしまった。
結局、フェリックスに元の部屋に戻されてしまい――不満だったが、この体調ではどうしようもない。大人しく、ベッドに入ることにした。
横たわって見上げると、傍らの椅子に座ったフェリックスが微笑む。
「もしかしてここ、あんたの行きつけの店だったりしないわよね?」
「……まっさかあ。俺じゃなくて、あのオッサンはよく来てるみたいだけどな。シャーロットさんも、その知り合いだし」
「オッサンって……」
ああ、カルヴィンのことか――とルースは納得する。
「不満だろうけど、我慢してくれ。ここ以外に休めるところがなかったんだよ」
「そう……」
ルースはため息をつく。幸い今、音は止んでいる。
「あのね、フェリックス」
「うん?」
「あたしたち、旅芸人は基本的に芸を売ってるわけだけど……たまに勘違いした人が、体を買いにくることもあるのよ」
ルースの告白に驚いたように、フェリックスが目を見開く。
「もちろん、普通は断るんだけどね。でも、パパが一座に来る前――たまにそういうこともあったんだって、言ってたわ。困窮したときに、女の子に命じたりしてね……。今は、そんなことは絶対させないから、もしそう言われたら突っぱねてパパに報告しなさいって言ってくれたわ」
ルースは一呼吸おいて、続ける。
「一度ね――あたしが片付けしてたとき、知らない男の人に声をかけられたの。いくらだ、って言われて……。あたし、まだ子供で棒っきれみたいに細くて……そんなことあるわけない、と思って何を勘違いしてるのか――って言いかけて、彼の顔を見たの。そして、ゾッとした。その顔に浮かんでいたのは、明らかな……ものを欲しがるような、感情だったから。怖くて逃げて、パパに泣きついたの」
そこまで言ったところで、フェリックスの眉が痛ましげにひそめられる。
「それから――少し、男の人が怖くなったわ。だから……そういう話題も苦手なの」
曖昧な言い回しだったが、フェリックスにはわかったようだ。
「……悪い」
「ううん、他に場所がなかったんだったら仕方ないもの。でも、過剰反応って思われるかなと――そう考えたから、言っただけ」
そこでまた、吐き気が押し寄せる。
「もう、寝るわね……」
宣言するように呟いて、ルースは目を閉じた。
次に目を覚ましたときには、窓から西日が差し込んでいた。
「ううん……」
あくびをして、ベッドから降りる。廊下に出ても、静かだった。階下に行くと、女主人が近づいてきた。
「ああ、起きたのかい。もう夕飯の時間だから、こっち来な」
「……はい。フェリックスは?」
「今、薪割してくれてるよ。あの子は一足先に食べたから」
シャーロットの説明に頷き、ルースは彼女の後を付いていく。食堂には、三人ほど女がいて、食事を取っているところだった。
「例の、フェリックスの連れだよ。よろしくね。さ、ルース。そこに座って」
促されるがままに、ルースは椅子に座る。すぐに、年老いた女が食事をトレイに載せて持ってきてくれた。
パンと、スープとサラダと、鶏肉を茹でたもの。簡素な食事だった。だが、今の食欲のないルースには有難いあっさりさだ。
もそもそと食べていると、隣に座っていた女が話しかけてきた。肌の荒れた、少し蓮っ葉な雰囲気を持った女性だった。年は三十過ぎであろうか。
「あんた、フェリックスが護衛してる一座の娘さんなんだってね」
「……そうです」
短く答えると、女は笑った。
「そう警戒しないでよ。あたしはエリー」
「あたしはルースです。……フェリックスとは、親しいの?」
尋ねると、エリーは肩をすくめた。
「親しい、ってほど会ったことないね。たまーに、あの子の師匠に連れられて、ここに来るぐらい。女は買わないみたいだしねえ」
「へえ……」
ルースは思わず目を見張ってしまった。
(フェリックスってもしかして、そんなに女好きってわけでもないのかしら?)
だとしたらあの軽薄な言動は本当に、処世術なのだろうか。
「あの子はここに来たときは、ちゃんとお金を払ってくれるけどね。何もしないし、お姫様みたいな扱いしてくれるから、女の子たちには人気なんだよ。何ならお金はいらないから――って、おっとあんたには刺激の強い話かね」
「……ど、どうして何もしないのかしら」
ルースも詳しいわけではなかったが、娼館とは……“何か”するために行くところなのではなかろうか。
「さあね。主義じゃない? たまに、そういう男性もいるよ。娼婦とはお話しするだけ、とかね。こっちとしても、その方が有難いけどね。体が楽だから」
「そうなの――」
ああ見えて、女性と付き合ったことないのかしら……と呟いてみる。そういえば結婚しない主義だというし、そういうことも有り得るのだろうか。
ルースの呟きが耳に入ったらしく、エリーは笑っていた。
「女を知らないわけじゃないと思うよ」
「そ、そうなの?」
「そういうのは、なんとなくわかるからねえ。でもまあ、あの子は言動よりずっとストイックだねえ。……ま、過去のことは気にしなさんな。野暮ってもんよ」
「はい……」
ルースは口をつぐみ、パンを千切った。
パンを頬張っていると、フェリックスが食堂に入ってきた。薪割が終わったらしい。
「よう、ルース。起きたか。調子はどうだ?」
「うん、大分まし。明日には出発できるわ」
「それならよかった」
と言って、フェリックスはルースの隣の椅子に座った。
「あれ。ミザリーって、まだ寝込んでるのか?」
フェリックスはふと、エリーに尋ねていた。
「うん、そうなの。あの子、やつれちゃってねえ。あとで、会いにいってあげてよ。あの子、あんたに懐いてたからね」
そう言ってから、エリーはルースの耳に囁いた。
「ミザリーって子は、あんたより少し年上だけどまだ若い子でね……」
「エリー。実は、ここに着いた後すぐミザリーの部屋行ったんだけどな。気分が悪いとかで、会ってくれなかったんだ」
フェリックスがそこで口を挟んだので、エリーはルースから視線を外す。
「あんたの誘いにも乗らないなんて、重症だねえ」
「……うーん。もう一度、行ってみるか。じゃあな」
フェリックスは席を立ち、食堂から出ていってしまった。
ルースは食事を半分ほど平らげたところで、また吐き気を覚えた。
「す、すみません。もう食べられそうになくて」
「ああ、具合悪いんだっけ。いいよ、残しな。部屋に戻るといい」
「はい」
エリーが促してくれたので、ルースは有難く席を辞すことにした。
食堂を出て、廊下を歩いていると歌声が聴こえた。
(……子守唄?)
その声に惹かれるようにして、歩く。すると、どこをどう歩いたのか、いきなり大きな部屋に入っていた。
ほっそりした女性が、揺り椅子に乗ってゆらゆらと揺れている。
彼女はそっと、下腹を撫でていた。
お腹の子供に歌っているのだろうか。といっても、その腹はふくらんでいなかった。
初期なら、あんまりお腹出ないんだっけ、と呑気に考えたルースは、女性がこちらを見ていることに気づく。女性、といってもまだ少女だ。ルースと、そう年も変わらないだろう。
「あなたが、私の赤ちゃんを産んでくれるの?」
「……え?」
戸惑ったところで、彼女が目の前にいることに気づく。首を絞められ、ルースは悲鳴をあげた。
「あなた、ちょうどいいわ。ちょうど、私とそう年も変わらないみたいだし体格も似てる。あの子をきっと、産んでくれるわね?」
普段は可憐に輝くのであろう茶色い目には、今は狂気しかなかった。
フェリックスは、ミザリーの部屋の扉を叩いた。返事がない。
「……ミザリー?」
ふと、鍵が閉まってないことに気づく。
「悪い、入るぞ」
一応断って、中に入る。ミザリーはいなかった。
室内の異様な光景に、フェリックスは息を呑む。部屋の中には、雑然とものが広げられていた。
ベビーベッドに、赤子用のガラガラ。まるで、赤子がいるようだ。
そして、漂う残滓――。これは悪魔の気配ではないか、とフェリックスは背筋を凍らせる。
後ずさるようにして、部屋から出る。扉を閉めたとき、向こうからエリーが歩いてきた。
「エリー。ミザリーって、流産してから寝込んでるんだっけ?」
「ん? そうだよ。あの子は堕ろさず、産みたいって言い張ってたからね。お金も貯めて、準備してたんだよ。あたしたちも、協力してやろうかってなってて……。大体みんな、堕ろそうとするからねえ。あの子は父親が誰かなんて、どうでもいいから子供が欲しいって言ってたんだよ。それなのに、流産してしまってね。それ以来、ずっと塞いでるんだ。客も取らず、閉じこもっているんだけど……事情が事情だけに、強く言えなくて」
エリーは、つらつらと事情を語った。
「……そうか」
フェリックスはきょろきょろと、あたりを見渡す。
「他に、彼女に何か変わったことはなかったか?」
「ああ……そういえば、あれ以来ミザリーが一度だけ外に出たっけね。何か買いに行ったみたい。元気になる薬、って言ってたっけね」
そこまで聞いて、フェリックスは大仰なため息をついた。懐を探し、聖水の入った小瓶を取り出す。
「間に合うといいんだが」
声に、苦みが滲んだ。