4.  Cradle Song

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 ルースは目を覚まし、自分が椅子に縛りつけられていることに気づく。
 冷たい風が、頬を撫でる。開け放たれた窓から、風が吹き込んでいた。
 彼女は、ルースの傍に立って子守唄を歌っていた。平らな腹を撫で、どこか不安定な音程で歌われる子守唄は、狂気を感じさせる。
「ああ、あなたの名前を聞くのを忘れてたわね。私はミザリー。あなたは?」
「……ルースよ」
 名乗り返し、ルースは様子をうかがう。
 どう考えても、彼女はまともではない。悪魔、なのだろうか。
 なぜか、腹の中がねじくれるように痛んでいた。
 ルース、と体の内で響く声があった。
(……誰?)
『私は、お前の中に宿った天使だ。力を貸してやるから、そこから出るように。お前の今の体で、悪魔の干渉を受けるととんでもないことになる』
(とんでも、ないこと?)
『あの悪魔祓いとの約束があるから、詳しくは言えない。だが、何とかしなくては』
(どうすればいいっていうの)
『あの女が近づいてきたときに、私の聖気を放つ。そのとき、お前の体は反動で死ぬほど痛むだろう。だが、痛みにのたうち回る暇はない。逃げろ』
(わかったわ)
 承諾したものの、本当にそんなことができるのかは皆目不明だった。
 そもそも縛られているのに、どうやって逃げればいいのだろうか。
 ミザリーは歌いながら、ベッドを整えていた。あそこに移されるのだろうか。なら、ロープを一度外すはずだ。そこがチャンスだろう。
 ルースは歯を食いしばって、ミザリーを待った。
「ねえ、ルース。あたし、ずっと赤ちゃんが欲しかったの。でも、いなくなっちゃったのよ。それで、願いを叶える薬があるって聞いたから、町までそれを買いに行ったの。すぐには叶えてはくれないんだって。若い女の子の体が必要だってさ」
 ミザリーは聞かれてもいないのに、とうとうと語った。
『悪食の悪魔が憑いているようだな。適当なことを言って、若い女を集めさせようとしているのだろう。悪食の悪魔は大概、若い女の肉が好きだ』
(えっ……でも、ここは娼館よね? いくらでも、いるんじゃないの? どうして、わざわざあたし……)
 そう考えたが、ルースはふと思い至った。ここでルースが会った娼婦は皆、二十は過ぎていた。若い女、というよりも少女を指しているのなら――たしかに、ルースが選ばれるわけだ。
 ミザリーはご機嫌で、ルースに歩み寄ってきた。手早くロープを外された瞬間、腹の奥が熱くなった。自分から、白い光が放たれる。天使の放った聖なる気だろう。目が眩む。
 ぎゃあああ、と叫び声をあげてミザリーが後ずさる。
 天使の言った通り、内蔵がねじれるように痛んだ。倒れ込みたいところだったが、ルースは気力だけで立ち上がり、よろよろと歩き出す。もう少しで扉のノブに手がかかる、というときに後ろ髪をつかまれて引っ張られた。
「放して!」
 体が痛いのに、髪を千切られるほど引っ張られて。目の奥まで痛んできた。
「あたしの赤ちゃんのためなんだ……! 大人しく、ベッドに横たわってよ!」
 ただでさえ弱った体はろくに抵抗できず、女とは思えぬ強力で首をつかまれ引きずられた。
(もう一度、さっきのをやって!)
 内なる天使に呼びかけるが、返事は芳しくなかった。
『これ以上やれば、お前が壊れる』
(でも!)
 このままなら、食べられてしまうではないか。泣きわめきそうになったとき、天使はぽつりと言った。
『お前は死ぬことはないはずだ。彼女が、させないだろう』
(かの、じょ……?)
 その代名詞に驚いていたとき、扉が蹴破られた。
「ルース!」
 フェリックスの声と共に、風を切る音がした。銃声と共に硝子の砕ける音がして、ミザリーが悲鳴をあげる。シュウシュウ、と体に染みた聖水から逃れるように、ミザリーがのたうちまわっていた。
 ルースから手は放れたが、すぐには動けず仰向けに倒れてしまう。
「ルース、無事か」
 フェリックスがルースを軽々と抱き上げて、ミザリーを見下ろす。
「……まだ初期だったか。不幸中の幸いだな。……ルース、怪我は?」
「大丈夫よ――。でも――」
 体が、軋むように痛んでいた。思わず、フェリックスの胸元をつかんで荒い息をつく。
 複数の足音がして、女主人シャーロットを筆頭に女の声が響く。その音の洪水を聞きながら、ルースは目を閉じ、ようやく意識を手放した。

 冷たい風が吹いている、と知覚する。頬を撫でる風を意識しながら、ルースは起き上がった。
 ベッドの傍らで、揺り椅子で揺れているのはミザリーではなかった。姉の、キャスリーン。
 変貌する前の地味な容姿で、彼女は小さく歌っている。
 キャスリーンも、歌は上手な方だった。だが、華がないと……自分で言っていたのだ。そんなことない、と家族は庇いながらも、エレンの次の歌い手にはルースを指名した。
「……姉さん」
 呼びかけても、返事はなくて。瞬きの間に、彼女の姿はかき消えていた。

 今度こそ、本当に目を覚ます。窓が開け放たれていて、フェリックスがその傍に立っていた。彼は、窓の外に広がる夜空を眺めていた。
 そうして真剣な顔をしていると、やはり彼の兄ビヴァリーに似ていると思ってしまう。実際、似ているのだ。ビヴァリーの方が金髪の色が薄く、プラチナブロンドに近い色だった。目の色も、ビヴァリーの方が薄い。
 何から何までそっくり、というわけではない。だが、二人が並べばすぐに兄弟だとわかるぐらいには、似ていた。
 フェリックスは目覚めたルースを認め、こちらに近寄る。
「ルース、平気か?」
「うん……。ミザリーさんは、どうなったの?」
「聖水が利いて、今は寝込んでるよ。悪魔に憑かれていたが、幸い初期だったみたいだ。災難だったな」
「ええ――。あの人、どうして悪魔に? 赤ちゃんがどうとか言っていたけど」
 ルースが首を傾げると、フェリックスは事情を語ってくれた。ミザリーが子を流したこと。怪しい薬を買いに行ったこと。そうして、悪魔に憑かれてしまったこと。
「ねえ、フェリックス。どうして、薬で悪魔が憑くの?」
「……瓶か何かに、悪魔を封じているんだろ。飲んだ瞬間、憑かれるって寸法さ」
「誰が、そんなことを」
 呟きながらも、ルースはなんとなくわかってしまった。
 西部の悪党――ブラッディ・レズリーだろう。彼らはなぜか、悪魔の出現する事件に絡んでいる。悪魔を商品として扱っていると考えるならば、納得がいく。
 顔を上げ、じっとフェリックスを見る。
 だが彼は特に反応を見せず、水差しからグラスに水を注いでルースに渡してくれた。
(まあ、一番わかってるのはフェリックスよね)
 仮にも悪魔祓いなのだ。ブラッディ・レズリーと悪魔の関連性に、気づいていないはずがないだろう。
「気分はどうだ?」
 水を飲むルースに、フェリックスは静かな問いを放つ。ルースは片手で腹を押さえた。先ほどまでの、のたうち回りそうな痛みは引いている。気分がいい、とまではいかなかったけれども。
「大分、まし。明日には出発できると思うわ」
「それなら、よかった」
 フェリックスは手を伸ばして、ルースの髪を撫でた。その手つきがあまりに優しいものだから、つい聞いてしまった。
「……ねえ、フェリックス」
「ん?」
「あなたはどうして、娼婦を買わないの?」
 質問して、ルースは後悔した。どうしてこんな、はしたないことを聞いてしまうのだろう。
 しかし、フェリックスは気を悪くした様子もなく肩をすくめた。
「俺も小さかったから、あんまり覚えてないんだけどな。酒浸りになった親父が、よく女を連れ込んでたんだ。知らない女と一緒にいる親父を見た記憶がある。それで、母親がヒステリー気味に怒って、叫んでいたこともな」
「……そうだったの」
「ああ。そのときはわからなかったけど、あれは娼婦だったんだろう。そういうわけで、気が乗らないだけさ」
 なるほど、とルースは頷いた。共感して、胸に哀しみが満ちる。
 フェリックスが、過去を語ったのは初めてだった。ふと疑問に思って、その透徹な目を見やる。フェリックスの蒼い目は静かだった。いつも通り、何もかも見透かしてしまうような視線に、思わずルースは目を逸らす。
(フェリックスは、あたしが過去の映像を見たこと……覚えているのかもしれないわね)
 そうでなければ、さっきのことを語ってくれていない気がした。
 でも、ルースはそのことは言わない心づもりだった。少なくとも、今は。
 フェリックスも敢えて追及する気はないのか、それ以上は語らずに沈黙していた。
 どのぐらい、静寂が続いただろう。沈黙を破ったのは、ルースのくしゃみだった。
「寒いか? 寝ながら暑い暑いってうめいてたから、窓を開けてたんだが。もう閉めるか?」
 問われ、ルースは小さく頷いた。
 暑い、なんて言った覚えはない。寝ている間なら、覚えていなくても仕方ないのかもしれないが。
 フェリックスはパタンと窓を閉め、小さなテーブルに置かれたランタンを持ち上げる。
「俺は隣の部屋だから。何かあったら呼べよ」
「え、ええ」
「おやすみ、ルース」
 おやすみ、と言ったところでフェリックスが部屋から出ていく。
「……」
 散々眠ったのだろうが、まだ眠い。
 色々考えないといけないのに、思考が働かなかった。グラスをテーブルの上に置いて、ルースはもう一度ベッドに横たわった。
 眠りに落ちかける前に、女とフェリックスの話し声が聞こえてきた。なんだかもやもやしたが、その気持ちを意識する前にルースは眠りの世界に入っていた。

 翌朝、ルースとフェリックスは娼館を発つことにした。
 娼館の前で、皆に別れを告げる。
 今日の荒野は、強い風が吹いていた。
「世話になったな、シャーロット」
「いいや、あたしの方こそお礼を言わないと。ミザリーが、悪魔に取り憑かれてたなんてね。また、いつでもおいで。あんたの師匠にもよろしくね」
「はいはい。俺がよろしくって言う前に、カルヴィンはここに来ると思うけど?」
 茶化しつつ、フェリックスはシャーロットと軽く抱き合う。シャーロットが、赤い唇でフェリックスの頬にキスをした。他の娼婦も、シャーロットと同じように、フェリックスに抱擁と頬へのキスを残す。
 その光景をぼんやり眺めながら、ルースは馬に少しもたれて手綱をぎゅっと握った。また、気分が少し悪くなってきた。
「嬢ちゃんも、またね。居心地悪かっただろうし、ミザリーがあんたに悪いことしたけど……」
「いえ、大丈夫です。私こそ、お世話になりました」
 頭を下げると、シャーロットは鷹揚に笑ってくれた。

 ルースは少し気分が悪いとはいえ、一人で馬に乗れないほどでもなかったので、娼館から出発してからは一人で馬にまたがっていた。
 馬は心地のいい速さで、走り続ける。
 ふと、ルースは薄い青色をした空を仰ぐ。
(ブラッディ・レズリーの出るところに、悪魔が出る。でも、もしかして)
 自分もそうなのではないだろうか、と考えたところで背筋に悪寒が走った。考えてはいけないことを、考えてしまった気がする。
「ルース、どうかしたか?」
 先を行くフェリックスが振り返ったが、ルースは「何でもないわ」と答えた。
 フェリックスは本当に聡い。
 彼は透徹な視線でルースをじっと射る。
 見透かされてしまいそうで、ルースは目を逸らす。
「前を見ないと、危ないわよ」
「……はいはい」
 ようやくフェリックスの首が元の位置に戻り、ホッとしてルースは彼の後ろ姿を見つめる。
 フェリックスは、“ルースとの約束があるから言わない”と言った。でも、もうそんなことを言っていられないのではないだろうか。
(あたしは、真実を知るべきだわ)