2. Don't Leave Me
おいていかないで
マクニール夫人殺人事件は、一向に解決しなかった。ビヴァリーが、いつまで経っても捕まらなかったのだ。子供なのにどこに逃げおおせたのか、フェリックスには見当もつかなかった。
そしてフェリックスはゆっくりと、その辛い事件の記憶を薄れさせていった。
温かな日常と家族が、フェリックスを優しく慰撫してくれた。
トゥルー・アイズとは、友を超えて兄弟と呼べるほどに信頼関係を築くことができた。
トゥルー・アイズから初めて「兄弟」と呼ばれたときは、嬉しかったものだ。実の兄を思い出して、心が痛まなかったわけではないけれども。
兄は今、どうしているだろう。このまま逃げてほしいとも、捕まってほしいとも思えなかった。まだ、兄への気持ちが整理できていない。
複雑な感情を敢えて無視しながらも、フェリックスは日常を過ごしていった。
そしてある日、村にとある姉妹を迎えることになる。
パメラとビアンカという、姉妹だった。父を亡くし、遠縁のいるこの村にやってきたのだという。
どちらも非常に美しい少女で、パメラは十八歳、ビアンカは十四歳だった。
二人はよく、教会を訪れた。そのため、牧師やフェリックスとも仲良くなっていった。
「牧師様――この頃、幸せそうだな」
フェリックスは、ぽつりと呟いた。
パメラがパイを届けに来てくれたらしいが、玄関先でさっきから牧師とずっと話している。おかげさまで、フェリックスとトゥルー・アイズが昼食を平らげた後も牧師の食事は冷え続けている。
「恋、というやつだろうな」
トゥルー・アイズの発言に、フェリックスは目を見張った。
「こ、恋? 本当に?」
「ああ。……かなり、わかりやすいと思うが。それに、お前は妹の方といい感じじゃないか」
「はー? ああ、ビアンカか」
たしかにビアンカは、やたらフェリックスに話しかけてくる。だが、あまり興味は持てなかった。
「そうだ、牧師なら結婚できるのか。俺の村にいたのは神父だったから、牧師様も結婚できないかと思い込んでたよ」
結婚、というところで複雑な気持ちになってしまった。
(牧師様が結婚したら、子供ができる。本物の子供が。そしたら俺は――どうなるんだろう)
「結婚する可能性はあるな。牧師様も若いしな」
「……そうだな」
素直に祝福できそうにない自分が情けなくて、フェリックスは相づちを打ちながらうつむいた。
ある日、フェリックスはパメラに濁りのようなものが見えることに気づいた。
(何だろう、あれ……)
悪魔が見えるフェリックスが覚える違和感なのだから、違和感の正体は一つしかないはずだ。しかし、これは嫉妬のせいだと思い込んで反省し、フェリックスは誰にも言わなかった。
指摘をしたのは、トゥルー・アイズだった。
「フェリックス。パメラに悪霊(イヴル・スピリット)が憑いていると思うのだが……」
「え?」
「お前の方が、私より見えるだろう。気づかなかったのか?」
睥睨されて、フェリックスはうつむいた。
トゥルー・アイズの見える力はまだ不完全だと本人が言っており、このときはフェリックスの方が見る力が強かった。
「……嫌なものがいる気はしてた。でも、気のせいかと思って」
「やはりか。牧師様に言おう」
「でも、牧師様だって悪魔祓いなのに、牧師様は何も言ってない。勘違いじゃないのか?」
フェリックスが首を傾げると、トゥルー・アイズはため息をついた。
「本人も言っていただろう。牧師様の見える力は、天使を宿した後に目覚めた。だからか、あまり見る力は強くないのだと。私とお前の意見が一致するなら、間違いないだろう」
「……うん。牧師様に、言おうか」
そうして二人は揃って、教会で仕事をする牧師のところに向かった。
優し気な顔で二人を迎えてくれた牧師は、二人の真剣そうな顔を見て眉をひそめていた。
「どうかしましたか?」
「牧師様。パメラに悪魔が憑いてる。祓わないと」
勇気を出して言うと、牧師は哀しそうな表情になった。
「……本当、ですか。二人が言うのなら、そうなのでしょうね。わかりました。今夜、悪魔祓いを行います。危険なので、二人は家にいてください」
「ううん、牧師様。俺は傍にいる……」
フェリックスの申し出に牧師は一瞬戸惑ったようだったが、小さく頷いた。
「わかりました。フェリックスは、教会に来てください。トゥルーは家で待っているように」
今、カルヴィンはいない。牧師が悪魔祓いに失敗したら、フェリックスが撃たねばならなかった。それを知っていたからこそ、牧師も許可してくれたのだろう。
煌々とした月の輝く夜だった。
フェリックスは牧師と共に、パメラを待っていた。
牧師が呼び出したので、必ず来るはずだ。
(嫌な予感がする……)
パメラは悪魔の気配をあまりさせていなかった。日数が経って、ようやく気づいたぐらいだ。つまり、相当な上級悪魔が憑いている。
それに、彼女が町に来た日は随分と前だ。いつから憑いていたのかわからないが、日数がかなり経っている可能性が高い。その場合、彼女は助からない。
いつも温和なシュトーゲル牧師も、今日ばかりは落ち着かない様子だった。
恋していた少女を、自ら殺めなければならないかもしれないのだ。当然だろう。
そうして、扉が開いた。月の光が、さあっと入ってくる。
「……パメラ。いきなり呼び出してすみません」
「いえ――」
パメラは戸惑ったように、歩を進めた。
悪魔の力が満ちる真夜中。彼女の悪魔の気配は、はっきりとしていた。そして十字架を前にしているからか、彼女の足取りは鈍い。
牧師も、気づいたらしい。
「あなたは悪魔に憑かれているようですね、パメラ」
「……え?」
「自覚はなし、ですか。今から悪魔祓いを行います。初期症状であることを、祈るばかりですが」
牧師は一歩近づき、彼女の額に手を当てた。
抵抗らしい抵抗も見せない。これは、初期症状なのだろうか。
フェリックスが首を傾げたとき、光が満ちて牧師が腹を押さえた。悪魔を移したらしい。
青い光が彼を包むも、彼の顔は苦悶に歪んでいた。
「牧師様、大丈夫か?」
「……これは、まずい」
牧師の視線を辿ると、崩れ落ちるようにして倒れたパメラが――砂へと変わった。どうやら、末期だったらしい。
(なら、どうして抵抗を見せなかった?)
嫌な予感と共に、フェリックスは牧師に駆け寄る。
彼の頬に、黒い紋様が走っていた。
「牧師様!」
「……これは、私でも浄化できない――。かなりの上級でした、か。いえ、ランクの問題じゃありません。この悪魔の目的は――」
息も切れ切れに、牧師が膝をついた。
「フェリックス、私を撃ってください! このままでは、魂を取られてしまう!」
「は、はい」
震える手で、フェリックスはホルスターから銃を抜いた。
そう、恐れていた日がやってきたのだ。養父が、悪魔祓いを失敗する日が――。
殺してあげなくては。そうしないと、魂を連れ去られてしまう。
何度も教わって、何度も覚悟して、何度も想像したことだった。
なのに――
「フェリックス!?」
牧師はフェリックスを見て、愕然としていた。
フェリックスの手は震えるばかりで、照準も定まらなかった。
「牧師様、撃てない……」
涙が零れた。
辛い日々から救ってくれた人。温かい家をくれた人。
どうして、この手で殺さねばならないのか。
「……誰もお前を、責めませんよ。お願いですから、撃ってください」
「……うう……ああああ!」
わかっているのに、撃たないと大変なことになるとは知っているのに、手が動いてくれなかった。
牧師は、フェリックスが撃てないとわかったのか、優しい笑みを浮かべた。
「……わかりました。お前に、酷なことを頼んでしまいましたね。甘く見ていた私の責任でもあります。フェリックス――」
その後に、何と続けたかったのか。
言葉が全て終わらないうちに、牧師は身を痙攣させた。彼が倒れ、黒い光が牧師の体から滑り出る。その光は、白い光を連れていた。
「牧師様っ!」
あれは、悪魔と牧師の魂だ。
「連れていかないで!」
光を追い、フェリックスは走る。教会の外に出て、その光を迎えた人がいた。
箱にそれを入れて、彼は満足そうに笑う。
「……兄さん」
信じられなかった。どうしてここに、兄のビヴァリーが立っているのか。
以前見たときよりも成長した彼は、月光の下で妖しく微笑んだ。
兄は元々、綺麗な顔立ちをしていた。でも今はもっと――息を呑むような、凄絶な美しさをまとっていた。
「何で、兄さんがここに」
「何でだろう?」
くっくっく、とビヴァリーは笑った。
「ねえ、エヴァン。僕もお前も、悪魔が見える力に振り回されていた。でもさ、その力を利用してはどうかって気づいたんだ」
「利用?」
「うん。大物の悪魔と契約してみたんだ。君たちの仲間を屠る奴を殺すから、手伝ってくれって」
「――まさか」
「どういう気持ちだっただろうな? 自分に気があると思った美女は、悪魔憑き! しかも、その悪魔の本当の目的は――」
「牧師様を、殺すこと?」
震える声で、フェリックスは問いを放った。
「そうだ。あの牧師の聖気にも抵抗できるような悪魔を呼び出すのには、苦労した」
そうして、ビヴァリーは手を伸ばす。
「あいつは、いなくなった。一緒に行こう」
「……何を言ってるんだ兄さん。牧師様を殺す理由なんか、なかったじゃないか……」
「はあ? あいつは僕から、お前を奪った。それで十分じゃないか」
ビヴァリーは、美しい笑顔を浮かべた。
「お前は、僕だけを頼りにしてればよかったのに」
「……ふざけるな! よくも、よくも牧師様を殺したな……!」
銃を向けたフェリックスを見て、ビヴァリーは告げる。
「お前がそういう態度を取るなら、僕にも考えがある」
「――え?」
そこでビヴァリーは、箱を開けて何事かを唱えた。
「待って――!」
「もう遅い」
そうして白黒入り混じった不思議な光は、箱から飛び出して彼方に飛んでいってしまった。
「悪魔は解き放たれた。あの男の魂を連れて」
「や……やめろおおおおっ!」
泣き叫んでも、どうにもならなかった。
「安心しなよ、エヴァン。あの悪魔は牧師の魂を道連れに、他の奴に取り憑くだろう。お前が追えばいいんだ」
「……兄さん」
「僕は優しいだろう? 協力してやってもいい。お前が僕と来るというのなら――」
手を伸ばされたが、フェリックスはその手を思い切り振り払った。
「行くもんか! お前なんかもう、兄さんじゃない! 俺から大切な人を奪った、人殺しだ!」
すると、ビヴァリーの顔がのっぺりとした無表情になった。
「せっかくまた、迎えに来てやったのに。お前は僕を拒むんだね――」
ふっ、と彼は微笑む。
「いいさ。お前が僕のところに来たいって懇願する日を、楽しみにしているよ」
油断した隙に、腹に蹴りを打ち込まれた。
意識を失う寸前、兄は耳にキスをして囁いた。
「それまでさよなら、エヴァン。僕のことを忘れるなよ」