1. Your Memory
5
しばらくして、トゥルー・アイズは随分と饒舌に喋るようになった。しかし、彼がここに来た理由は不明のままだった。彼は名前以外、何も覚えていないというのだ。
「レネ族は謎の多い部族で定住もしていないから、どこにいるかわからないそうなのですよ」
牧師は知り合いから聞いた情報を口にして、ため息をついていた。
つまりトゥルー・アイズを、元いた場所に帰すこともできない。
トゥルー・アイズは、すっかり牧師館の生活になじんでいるようだった。
そうしてフェリックスも、大分カルヴィンの教えが染みついてきた。
「まあまあ下手、ってぐらいにはなったかな」
相変わらず厳しい師匠ではあったが。
フェリックスはトゥルー・アイズと仲良くなったこともあり、幸せを感じていた。
温かな養父。腹が立つこともあるけど、楽しい師匠。物静かな友達。
故郷にいたときには、考えもしなかった幸せだった。こんなにも穏やかで、温かな気持ちがあるとは知らなかった。
(ずっと、この日々が続けばいい)
そう思わずには、いられなかった。
カルヴィンは度々、町を出ていった。彼の生業は賞金稼ぎなのだという。
「また、しばらくしたら戻ってくるからよ。しっかり、練習しとくんだぞ」
カルヴィンは、町の外まで見送りに出たフェリックスの頭をぽんと叩いた。
「……ああ、そうだ」
「何?」
「お前も、それなりに銃が撃てるようになった。もし俺がいない間に、ネイサンが悪魔祓いに失敗したら……お前が撃ってやれよ」
びくり、と肩が震える。
それは、養父からも説明されていたことだった。
シュトーゲル牧師は、自らの体に悪魔を取り込んで浄化する。今のところ失敗はないらしいが、失敗すると大変なことになる。つまり、牧師が取り憑かれてしまうのだ。その場合はためらわずに撃ってくれと、牧師はカルヴィンに頼んでいた。
その場合はすぐに聖水をかけても、どうにもならないだろうと。牧師の体は聖気に満ちているため、悪魔が必死に抵抗して反発してしまうらしい。
(でも、できるだけ……そんなことにはしたくないな)
「頼むぞ、フェリックス」
「……ああ」
力なく頷いて、フェリックスは師の背中を見送った。
そうしてフェリックスは、入れ違いのように近づいてきた人影に仰天した。
「兄さん……?」
以前より成長した姿だが、間違いなく兄だった。
「やあ、エヴァン。元気そうだね」
「兄さん、久しぶり」
「一度も会いに来なかったね、エヴァン」
恨みがましい口調で言う兄に、不穏なものを感じた。
「……兄さん?」
見れば、頬に血がついている。
「怪我、してるのか?」
手を伸ばして、その白い頬に触れる。どこにも、怪我はないようだった。
「エヴァン。帰ってくるんだ」
「何で?」
「お前の脅威は、僕が取り除いてやったから」
「……何、を?」
そこで、兄の服にも――黒いシャツだったので気づかなかったが、血が染みていることを見て取り青ざめた。
「兄さん、何をしたんだ!」
「殺して、やったのさ」
にやあ、と兄の顔が歪んだ。
いつもエヴァンを慰めてくれた優しい兄の顔が、信じられないぐらい邪気を帯びている。
「あの――女を」
そこで、ようやく悟った。
兄は母を殺したのだと。
「何で、そんなことしたの!?」
「何でだって? あいつが死ねば、お前が戻ってくるからさ」
どうしてそんなことを聞くのか、といった口調で兄は首を傾げた。
「お前、どうして喜ばないんだ?」
「喜ぶわけ、ない。そんなことして、嬉しいわけないじゃないか――!」
怒鳴ると、兄は無表情になった。
フェリックスはいつの間にか、自分が泣いていることに気づいた。
そこで騒ぎを聞きつけたのか、家から牧師が出てきた。
「フェリックス、どうしたのですか!」
「……兄さんが、兄さんが――」
恐慌状態に陥って、牧師にすがりつく。
そんなエヴァンを、兄は冷たい目で見てきた。
「兄……? ああ、君はフェリックス……いいえエヴァンの兄ビヴァリーですか。どうしたのです? 血がついているようですが」
「――お前が、エヴァンを連れていかなければ」
氷のような冷たい声で、兄は呟いた。
「僕は一人にならなかったのに!」
兄は銃を懐から取り出し、発砲した。
「……中へ!」
牧師に庇われ、フェリックスは家の中へ転がり込んだ。
「大丈夫ですか、フェリックス」
幼子のように泣きじゃくるフェリックスを抱きしめ、牧師は鍵を閉めて窓から外を覗き込んだ。
「……逃げましたか」
「牧師様、何かあったのか」
二階から、トゥルー・アイズが階段を駆け下りてきた。
「――私にも、よくわからないのですが。フェリックスの兄が、来たのですよ。先ほどの銃声は、彼が私かフェリックスを狙って撃った音です。とにかく、保安官に通報した方がいいですね。……トゥルー、フェリックスを頼みます」
牧師はフェリックスから手を放し、一旦奥の部屋へと行ってしまった。
「大丈夫か、フェリックス」
「……」
何も言えずに、フェリックスは今度はトゥルー・アイズにすがりついた。
「フェリックス、トゥルー。私は保安官事務所に行ってきます」
牧師は銃を片手に出てきた。
「誰か来ても、私が帰ってくるまで開けないように。鍵を閉めていてください」
「わかった」
フェリックスの代わりにトゥルー・アイズが頷いた。牧師が出ていった後、トゥルー・アイズがフェリックスから体を離してしっかりと施錠した。
夜になってようやくシュトーゲル牧師が帰ってきて、フェリックスから事情を聴くことになった。
すぐに保安官が捜索してくれたが、ビヴァリーは見つからなかったらしい。
「彼が、母親を殺したと言ったと……?」
「うん。そう、言ってた」
「あれは、その返り血でしたか。……どうして、そんなことに」
「牧師様。俺、言ってなかったことがあるんだ」
フェリックスはためらいがちに、口を開いた。
「兄さんも、悪魔が見えるんだ」
「彼も……? どうして、言わなかったのです?」
「母さんに言えば怒られるから、兄さんは俺みたいには言わずに見えないふりをしてたんだ。だから、俺から言わない方がいいと思って。兄さんも見えるなんて言えば、母さんが怒るし」
「――そうでしたか。虐待されてたのは、あなただけですか?」
「うん。兄さんは、悪魔のこと言わなかったから鞭で打たれたりしてなかった」
そこまで言ったところで、牧師の顔に渋面が広がった。
「なるほど。でも、どうやら彼も精神的な苦痛は受けていたようですね。君のように明らかにしなかった分、密かに歪んでいたのかもしれません。もう少し、彼のことを話してくれますか?」
促されて、フェリックスは兄のことを語った。
鞭打たれた後はいつも、兄が手当てをしてくれたこと。いつも優しくしてくれたこと。
「よく、わかりました。ビヴァリーは、君に依存していたようですね」
「俺に、依存?」
「ええ。彼は上手く立ち回り、一見問題ないようでしたが……その実、精神的な苦痛は感じていた。ですが、君の味方である……頼りにされる対象であり、君より賢く立ち回る存在として、精神の均衡を保っていたのでしょう」
牧師は冷静な分析を続けた。
「ですが、君が家を出たせいで均衡が崩れたのですね。彼の憎悪は、母親へと向かった。母親のせいで弟がいなくなったと……彼女さえいなくなれば、と思ったのでしょうね」
「……そんな。兄さんが歪んでいるなんて。兄さんは賢くて、寄宿学校に入る予定だったのに」
「優秀だったのは、母親の期待に背かないようにでしょう。彼も、母親から傷を受けていたのですよ。わかりにくくて、見えにくかった。だからこそ、君も私も見過ごしてしまった」
牧師はため息をついて、立ち上がった。
「もう一度、保安官事務所に行ってきます。君の故郷がどうなっているのか、調べてもらいましょう」
そうして数日後の昼、知らせが届いた。
フェリックスの母親は、惨殺されていたという。三発ほど体に弾丸が残っていたらしい。更に、死後も何度も包丁で刺した跡があったそうだ。
そして容疑者と思しきビヴァリー・マクニールは逃亡中で、未だに行方知れずだった。
母の殺され方を聞いて、気分が悪くなったフェリックスは寝込んでしまった。
(銃で撃った後に、何回も刃物で刺すなんて……。兄さんは、そんなに母さんを恨んでいたのか)
自分も、母を愛していたとは言えないけど。
まなうらに、ほっそりとした女性が浮かび上がった。金色の髪はいつもひっつめ髪で。苦労のせいか、年の割に老けて見える人だった。
そして次に、兄を思い浮かべる。
優しくて、賢く強い……誰もが褒め讃えた兄がそんなに歪んでいたなんて、信じたくなかった。