2. Dear My Brother

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 すっかり変わり果てた兄を見て、リチャードはため息をついた。
「兄さん。今からでも、お宝を返して頭領に謝ろうよ」
「……断る」
 ジョンは元々口数の少ない男ではあったが、この頃の兄は異常であった。
「俺、怖いんだ。保安官じゃなくて、頭領がさ」
 彼らの属するブラッディ・レズリーの頭領、クルーエル・キッド。彼は裏切り者には容赦がない。
「だって……俺たちは、お頭の顔を知ってるんだぜ……」
 なぜ、裏切り者を許さないか――? それは頭領の顔を知ってしまった者を、生かしておけないからだ。
 一度入ったら、逃げられない。頭領の顔を知らないほどの下っ端なら、まだいい。だが、ある程度出世してしまって、頭領に会う機会に恵まれるようになったら……。
「戻って、どうなる?」
 ジョンは虚ろな目で言ったが、リチャードは首を振った。
「一人、逃げかけたけど――必死に謝ったら許してもらったって聞いた。彼にならおう」
 もっとも、代償に片腕を落とされたらしいが。命と比べれば、大したことではないとさえ思える。
「真っ平だ。もう、誰かの下につくのは――」
 ジョンがぶつぶつ呟くのを聞いて、リチャードはゾッとした。あのときは目先の利益に捕らわれ、兄につい賛同してしまったが――どう考えても、兄は間違っている。
「兄さん。俺、一人でも帰るよ。まだ命が惜しいんだ」
 くるりと踵を返し、隠れ家を出ていこうとしたリチャードは後ろから差す影に気づいて足を止めた。
「許さない……」
「に――」
 足に感じる鋭い痛み。兄の仕業だ、と気づいたときにはもう意識が暗転していた。



 人だかりができていて、ざわざわと騒がしい。
「どうしたのかしら」
 人々が遠巻きに見ているものを背伸びして見ようとしたが、ルースの背では見られない。
「人が血まみれで倒れてる」
 フェリックスは一言言って、人ごみをかき分けて行ってしまった。ルースはフェリックスの後を慌てて追ったが、小柄ゆえにかなり苦しい。
 やっと開けたところに出た、と思ったら足を押さえて呻く男が見えた。
(この人、まさか……)
「――ジャンク兄弟の弟。リチャードだ」
 フェリックスの呟きで、ルースの推定が確定された。
「どうして怪我を……」
「さあ――ともあれ、重傷だ。病院に連れていこう」
「じゃああたし、保安官に知らせてくるわ!」
 フェリックスがリチャードを担ぎ上げると、人々は恐る恐る道を空けてくれた。
「どうして誰も、何もしなかったのかしら」
 ルースが思わず疑問を漏らすと、フェリックスは顎で壁に貼られた手配書を示した。ジャンク兄弟の手配書だ。
「関わり合いになりたくない、ってやつだろ。とびっきりの悪人なことは確かだが、これじゃ悪さなんかできないのにな」
 フェリックスが肩をすくめた拍子に、リチャードの頭から帽子が落ちた。それを拾ってから、ルースは保安官事務所に向かって走り出した。

「保安官さん!」
 ルースは、保安官事務所に到着するなり、叫んだ。
「ん? 何だい」
「ジャンク兄弟の弟が見つかりました! 大怪我だから、さっき病院に運んで――」
「何だと?」
 反応したのは、この町の保安官ではなく連邦保安官――フィービーだった。
「ふん、賭けはお前の勝ちだ、と言いたいところだが……二人揃ってじゃないと」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? 早く来てください!」
 生意気な小娘め、と舌打ちされたが、ルースは構わず保安官事務所から走り出た。

 町人に病院の場所を聞いてから、病院へと走る。
(今日は走ってばかりだわ)
 ルースが病室に入ると、フェリックスが顔を上げた。
「れ、連邦保安官がもうすぐ来るわ……」
 息も絶え絶えに報告すると、フェリックスが労わるように微笑んだ。
「ご苦労さん。ありがとな。フィービー呼んだのか」
「あんまり呼びたくなかったけど、保安官事務所にいたのよ」
 しかし、昼から酒びたりの保安官よりはましなのかもしれない。
「で、そのリチャード……だっけ……は、どうして怪我してたのかしら」
「それが不思議でしてなあ」
 壁だと思っていたところから声がし、ルースは飛びのきそうになった。医師が立っていたのだ。
「この傷口は、刃物でも銃でもなさそうですぞ。大きな動物に咬まれたとしか思えませんな」
 医師の説明に、ルースは首をひねった。
「コヨーテ?」
「コヨーテではありませんな。ピューマや狼とも違うし、熊とも違う……。一番近いのは、人間ですな」
 それを聞いて、ぞっとした。
「化膿がひどいので、正直……もたないかもしれませんな」
 医師が衝撃的なことを告げたときに、病室の扉がけたたましく開いた。
「連邦保安官だ。ジャンク兄弟がここにいると?」
「はあ」
 驚きつつも頷く医師の横をすり抜け、フィービーはベッドを見下ろした。
「喋れるか」
 聞くも、当然のごとく返事はない。
「無理ですよ。意識がないんですから」
「ふん。兄の居場所を聞き出そうと思ったが……」
 医師の呆れた指摘に鼻を鳴らし、フィービーは今、存在に気づいたかのようにフェリックスを見上げた。
「どこで見つけた?」
「サルーンの前だ」
「随分と人目につくところだな。こいつが、そこで倒れるところを目撃したのか?」
「いや。既に人だかりができていたんだ。目撃した奴もいるだろうな」
「ふむ」
 事情を聞き、フィービーは大股で病室から出ていってしまった。
 ルースが不安そうにフェリックスを見上げると、彼は苦笑した。
「後は、フィービーと町の保安官に任せよう。俺たちに、できることはないさ」
「ええ……」
 それでも、どうして良いかわからないルースに、フェリックスは告げた。
「俺は、もうちょっとここにいるから、ルースは戻っておいてくれないか」
「わかったわ」
 許可を出してもらってホッとして、ルースは病室から出た。



 医師が他の患者を見にいった後、フェリックスはそっとリチャードのかけ布団をめくって彼の足を見た。
 包帯に、赤黒い血がにじんでいる。
 よく見れば、その血の跡は模様のようになっていた。まるで、逆さ十字のように。
「悪魔決定、か」
 そう呟いたとき、病室の扉がノックされた。ひょっこり顔を覗かせたのは、ジョナサンだ。
「フェリックス……。お姉ちゃんから話を聞いたんだけど、まさか今回も――」
「ああ、おそらくな」
「僕、手伝うよ」
 ジョナサンの申し出に、フェリックスは首を振った。
「今回は、お前に手伝ってもらうわけにはいかない」
「えー」
 ジョナサンは不平の声を上げた。
「何で? 僕、誰にも言ってないよ。フェリックスが悪魔祓いってこと――」
 ジョナサンは台詞の後半になって声を落とした。
「わかってるって。そういうことじゃないんだ。この被害者は、ブラッディ・レズリーの一員だ。少しでも関わらない方が良いだけだ」
 言い聞かせるようにして説明すると、ジョナサンはまだ不満そうではあったが頷いた。
「おい……」
 低い声が響いて、フェリックスとジョナサンは振り返った。
 見れば、リチャードが目を開けている。
「悪魔祓い……って言ったな。本当か……」
「――ああ。それを生業としている」
 フェリックスはリチャードに近づき、答えた。
「じゃあ、あんたわかるか。あれも……悪魔なのか……」
「あれ?」
「狼男みたいな、人間みたいなもんだ……」
 その説明で、フェリックスはピンと来たらしい。
「低級の悪魔が人間に完全に同化できず、本来の姿を現すことはある」
「よくわかんねえけど……兄貴は、悪魔とやらになっちまったってことか……」
 リチャードは、苦しそうにせき込んだ。
「そうだよな……。変だと思ってたんだ……」
「リチャード」
 フェリックスは固い声で告げた。
「悪魔の姿が出る状態ってのは、末期なんだ。もう命は助からない。悪魔ごと殺すしか、魂を救う方法はない。悪魔に地獄に連れていかれるか、その前に殺して魂だけは救うか――身内のお前が選んでくれないか」
「けっ。どっちにせよ、俺たちゃ地獄行きだと思うけどな」
 でも、とリチャードは首を振った。
「ありゃもう、兄貴じゃねえ……。ひと思いに殺してやってくれ。他人に頼むのは癪《しゃく》だが、このザマじゃ仕方ねえ……」
「――わかった。お前の兄は、どこにいる?」
「町外れの森の中に、小さい倉庫がある。そこだ……」
 気力で起きていたのだろう。それだけ言い残して、リチャードは気を失ってしまった。
「フェリックス……」
 ジョナサンに声をかけられ、フェリックスはその続きを聞く前に頷いた。
「ああ。逃げられる前に、決着つけなくちゃな」
 本来は、悪魔祓いは夜に行う。悪魔の力が満ちるので危険なのだが、満ちるということは正体を現すということ。本当に悪魔に憑かれているかどうか、見極められる。
 万が一にも悪魔に憑かれてもいない人を殺さぬよう、夜に行ってきたのだ。
 だが、今回はどうやら既に正体が明らかに現れているらしい。
 低級ゆえだろう。高い位の悪魔は反対に人間に同化するのが上手く、気配も気取りにくい。
「お前は、家族のところにいるんだぞ。あと、ルースのことも頼む」
「わかったよ。お姉ちゃんを、近づかせないように……だね」
 ジョナサンは役に立てることが嬉しいらしく、朗らかに笑った。



 町から強面の男が来て怪我人を置いていった、と目撃者の男は語った。
「ふむ。どちらから来たんだ?」
「あっちだったかな……」
 フィービーに問われて答えたものの、すぐに自信をなくしたように男は指さす方向を変えた。
「いや、あっちだったかな。俺、方向音痴なんだ。何か、もらったら思い出すかも……」
 明らかな賄賂の請求に保安官補が激昂しそうになったが、それよりも早くフィービーの銃が火を噴く方が早かった。
 頬を撫でた熱さと痛みに、男は悲鳴を上げる。
「おや、これは失礼。火薬の衝撃で思い出すかもしれないと思ってな。今度は撃ち損じないよう、脳天にちゃんと見舞って――」
「わかったわかった! 言うよ!」
 男は慌てて真実を語ったのだった。



 フェリックスは、忍び足で小屋に近づいていった。ふと、生臭い匂いが風に含まれる。
 ハッと気づいたときには、衝撃を受けて転がっていた。
 受け身を取って身を起こし、フェリックスは見上げた。獣人としか呼べないものが、荒い息をして毛むくじゃらの腕をかざしている。
 その鋭い爪には、今しがた失ったばかりの自分の血が滴っていた。
「おやおや、聡いな」
 利き腕でなかったことを感謝しながら、フェリックスは左腕を押さえる。
 止血している暇はない。勝負を早くつけなくては、と自分にタイムリミットを課しながら銃を構える。
「リチャード……」
 フェリックスに向かって、ジョンは弟の名前を呟いた。
 どうやら間違えているらしいが――。
「あんた、意識があるのか?」
 これほど悪魔に肉体を支配されているのに、意識があるとは何という拷問だろう。
「リチャード、なぜだ。俺はお前のために裏切ったのに」
 フェリックスは作戦を変え、リチャードになりきることにした。
「兄さん、一体どういうことだ?」
 もちろん銃を構えた腕は下ろさない。隙を見つければ、すぐに撃つつもりだった。
「貧しさから救っただろう。支配から救ってやっただろう」
「それは違うな」
 フェリックスは一蹴して、咆哮した獣人の心臓に銃弾を撃ち込む。
「貧しさから逃げたくて、支配から逃げたかったのはリチャードじゃなくて、お前だろう」
 詳しい事情など、聞かなくてもわかる。この兄は、弟に理由を求めただけのこと。
「お前の“貪欲”に悪魔は惹かれ、憑いたんだ」
 滅びるはずの肉体は、砂になるのではなく薄らいでかき消えた。――違和感に気づく。
「まさか……」
 幻覚――。
 フェリックスは舌打ちし、うかつな自分を呪う。
 これほど攻撃的な悪魔が、隠れ家にずっと留まっているわけがない。
 分身を残し、悪魔はどこに行ったのか。それは先ほどのジョンの言葉を考えれば……いや、考えるまでもなかった。
 草を踏む音がして、フェリックスは思わず木の幹に身を隠す。フィービーが保安官補を連れて、非常識なまでに音を立てながら歩いてきたのだった。
「フィービー、こういうときは静かにしろよ」
 聞こえない程度の小声で毒を吐いてみる。
「おい、ジョン・ジャンク! いるのか!?」
 連邦保安官とその助手が隠れ家の扉を蹴破り、その中に入っていく光景を見届けてから、フェリックスは町に戻るべく、そっと足を進めた。