2. Dear My Brother

3



 リチャードは、差した影に気づいて微笑んだ。
「兄さん、無事に逃げられたかい?」
 すっかり姿を変えてしまった兄。しかし、リチャードを守ってくれることだけは変わらない――。
「きっと、あの悪魔祓いも保安官も今頃は隠れ家だ。安心して逃げよう」
 リチャードは兄に付けられた傷の痛みに呻きながらも、身を起こした。
 獣のような兄に足を食いちぎられそうになったときは、心底恐怖した。だが、ジョンは自分の恐ろしい過ちに気づき、泣きながら謝ってくれた。
(兄さんは、変わっていない。たとえ姿が変わっても――)
 思い込みに近いその想いを信じ、リチャードは兄と共に逃げようとした。だが連邦保安官が自分たちを追ってこの町に来たと聞き、もう見つかるのも時間の問題だと悟った。それならば、兄が得た不思議な力で誘き出そうと画策したのだった。
 負った傷が、ここまで役に立つとは思わなかった。
 誤算といえば、もっと早くに助けてくれると思った町人が遠巻きに見るしかしてくれなかったことだろうか。
 自分たちの所業を考えれば、仕方のないことなのかもしれないが。
 物音がして、顔を上げたリチャードは少年が愕然としてこちらを見ていることに気づいた。
「あ……」
 兄が唸り、金髪の少年は恐怖に息を呑んで身を翻してしまった。
「兄さん、だめだ!」
 少年の後を追った兄を追いたかったが、傷がそうはさせてくれなかった。



 診療所の外に出て、ジョナサンは必死に走る。だが、追いすがる獣人がジョナサンの足をつかむのに、そう時間はかからなかった。
 悲鳴を上げたときに聞こえたのは、姉の叫び声だった。
「ジョナサン!」
 ルースは果敢にも獣人の腕を蹴ったが、びくともしない。
「放しなさいよっ!」
「お姉ちゃん、フェリックス呼んできて!」
「そんな暇ないわよ! 呼びにいってる間に、あんた死んじゃうわよ!」
 ルースは涙を浮かべまいと歯を食いしばりながら、獣人を殴ろうとして――長い尻尾で後頭部を強打された。
 途端に意識を失くした姉を見て、ジョナサンは絶望する。獣人は赤い口を大きく開け、今にも足に噛みつかんとしている。
 ジョナサンがぎゅっと目を伏せたとき、銃声が響いた。
 獣人は驚いて飛びずさり、とうとうジョナサンの足を離して後ろに飛びのいた。
 フェリックスが、銃を片手に立っていた。



「下がってろよ」
 フェリックスは走り、ジョナサンやルースと獣人の間に立って告げた。
「うん」
 ジョナサンは頷き、意識を失くした姉の頭をぎゅっと抱きしめながら頷いた。
「リチャード……お前は、騙したのか」
 診療所から、やっとの思いで出てきたリチャードを見て、フェリックスは哀しそうに呟いた。
「兄さんは兄さんだ。悪魔祓いか何か知らんが、殺すことは許さない。身内が許可しなければ、お前は殺さないんだろう?」
「そうしたいところだけどな」
 できることならば、意志は尊重したかった。しかし、明らかにこの悪魔は人々を傷つける。
「さっきのように、人を襲う可能性が高すぎる。放ってはおけない」
「嘘つきめ!」
 リチャードは、血を吐くように叫んだ。
「選べとか言っておいて、初めから殺す気だったんじゃないか! お前は、後押しのために身内に聞いているだけだろう!」
 心が痛まないと言えば嘘になる。しかし、フェリックスは怯まなかった。
 フェリックスが引き金を引こうとしたとき、銃声が響いた。リチャードが倒れ、彼を見て絶叫する獣人の心臓にも火薬が弾ける。
 あっという間に砂になってしまったジョンを見て、フェリックスは呆けたように振り返る。
 民家の屋根から影が消えていくところだった。
「ブラッディ・レズリーの粛清か……」
 口惜しそうな呟きと共に、フィービーが歩いてきた。
「間に合わなかったな」
 リチャードの傍に屈み、脈を確かめるフィービーにフェリックスは尋ねた。
「クルーエル・キッドが、この町に?」
「まさか。奴の配下だろう。お気に入りのスナイパーがいると聞いたから、そいつに違いない」
 フィービーは辺りを見回してから、フェリックスに向き直った。
「ジョンは――兄の方はどうした?」
「逃げた」
「ふむ。どちらに逃げたんだ?」
 あっちだ、とフェリックスは適当な方向を指さす。
「ま、あいつもキッドの配下に消されたと思うが……。一応、追ってみるか。行くぞ」
「はいっ」
 臨時の保安官補を従え、フィービーは早足で行ってしまった。
 フェリックスはため息をつきながら、ジョナサンと昏倒したルースの傍に膝をついた。
「無事か?」
「う、うん……。僕は大丈夫。でも、お姉ちゃんが」
「――全く、無謀なお嬢さんだな。医者に見せよう」
 フェリックスは、ルースをそっと抱き上げた。



 頭が、ぐわんぐわんと痛む。目を開けると、ジョナサンがパッと明るい表情になってルースの顔を覗き込んできた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ジョナサン――。あの――獣は、どうなったの?」
 ルースは迷った結果、“獣”という単語を使って問いを放った。
「え、えと。あの後、フェリックスが来てくれたから……」
「フェリックスが倒してくれたの?」
「う、うん」
 ジョナサンの煮えきらない口調に疑問を抱きながらも、ルースは身を起こした。やはり、頭がひどく痛い。
「あのね、ごめんなさい」
「――どうして謝るの?」
「僕、フェリックスに家族のところに戻っておけって言われたのに……気になって、診療所に引き返しちゃったんだ」
 その結果襲われ、姉まで危険にさらすことになってしまった。
 そう続けたかったのだろうが、ジョナサンはただうなだれていた。
「そう――。フェリックスには謝ったの?」
「うん。軽く、頭をポカッて殴られた」
「それなら、あたしはもう怒らないわ。今度からは言うこと聞くのよ」
 ルースの言葉に安心したように、ジョナサンはホッと息をついていた。
「結局、ジャンク兄弟はどうなったの?」
「どっちも……ううん、リチャードは死んじゃったよ。クルーエル・キッドの配下の仕業だ、って連邦保安官が言ってた。ジョンは逃げた」
「そうなの……」
 ルースは何とも言えない気持ちで、眉をひそめた。
「町は大騒ぎだよ。公演は無理かも、ってお父さんが」
「そう。仕方ないわね」
「クルーエル・キッドじゃなくて、その配下が殺したって保安官が説明しても……みんな、話を全然聞かないんだ」
 リチャードがクルーエル・キッドに殺された、という噂が広まり、クルーエル・キッドがこの町にいると思い込んで恐れた町人が恐慌状態に陥ったのだろう。容易に推測できる話だった。
「よっぽど恐れられてるのね、クルーエル・キッドって」
「うん……怖いね」
「大丈夫よ、そんなに怯えなくて。保安官の話を信じましょう」
 怯えた表情を浮かべるジョナサンを安心させるように微笑みかけ、ルースは室内を見渡した。
「家族のみんななら、病室の外にいるよ。フェリックスは連邦保安官に話聞かれてる」
「そう――。大丈夫なのかしらね」
 ルースは痛む頭を押さえながら、そっとベッドから足を下ろした。

 ルースはそっと、外から保安官事務所の中の様子をうかがった。
 フェリックスは後ろ手に縛られ、椅子に座らされていた。
「さて。いい加減、協力する気になったか?」
「あのなあ……」
「牢屋に、ぶち込んでも良いんだぞ。それに、尋問方法にも色々あるぞ? 試してみたいか?」
 フィービーはジャンク兄弟を捕らえ損ねた鬱憤をフェリックスで晴らすことにしたらしく、保安官でありながら悪役さながらの嗜虐趣味を発揮していた。
「協力って言っても、あんたは俺をあの事件の犯人にしたいだけだろう?」
「違うな。お前の証言がおかしいから、こうして尋問しているんだ」
 フィービーがコーヒーを飲み干しテーブルにカップを置いたところで、ルースは思い切って事務所に飛び込んだ。
「小娘か。何の用だ」
 ルースを一瞥して、フィービーは鼻を鳴らす。
「あのね、保安官。約束忘れた?」
「約束? ああ、ジャンク兄弟を捕まえたら公演を――というやつか。だが、この町の状況では無理だぞ?」
 フィービーは傲慢に笑ったが、ルースは怯まずにつかつかと近づいて、腰に手を当ててから言い放った。
「ええ、無理よ。だから他の条件を示すわ」
「他の条件だと?」
「ええ。フェリックスを、今回は見逃して欲しいの」
 フェリックスが感激のあまり「ルース、俺のために!」と叫んでいたが、敢えて無視してルースはフィービーのグリーン・アイズを真っ直ぐに見据えた。
「――ほう?」
「あたしたちはここで公演ができなかったから、すぐに次の町に行かなくちゃいけないの。新しい用心棒を探してる暇は、ないの」
 しばらく沈黙が降り、フィービーはフッと笑みを浮かべた。
「――良いだろう。ただし、一つだけ追加条件だ」
「何?」
「歌ってくれ。悪党共の魂を鎮めるために」
「わかったわ」
 ルースは頷き、勝気に笑ってみせた。

 棺に入ったリチャードの遺体が馬車に乗せられ、それを見送りながらルースは歌を紡いだ。
 選曲したのは、仲の良い兄弟の歌だった。フェリックスから、リチャードは最後までジョンを庇い続けていたと聞いた。
 結局、ジョンの遺体は見つからないままだ。もしかすると生きているのかもしれないが、フェリックス曰く深手を負っていたから生存は絶望的のようだ。
 せめて二人の魂が一緒にあるようにとの願いをこめて、ルースは歌った。

「本当にありがとうな、ルース」
 出発前に、フェリックスは御機嫌でルースに話しかけてきた。
「ふん。賃金以上の働きしないと、ひどいわよ」
「はいはい、っと」
 フェリックスは気楽に肩をすくめて幌馬車の方に行ってしまい、代わりにオーウェンがルースの目の前に現れた。
「おい、大変だ。あいつ、お尋ね者のようだぞ」
 オーウェンはどこで手に入れたのか、フェリックスの手配書を持っていた。
「――それ、パパとママに見せた?」
「いや、まだだが……」
 ルースはオーウェンの手から手配書を抜き取り、びりびりに破いてしまった。
「お、おい!」
「単なる参考人で手配されてるのよ。五ドルで」
「安いな、あいつ――って、そういう問題じゃないだろう」
 オーウェンは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、ルースを睨んだ。
「ルース。お尋ね者を用心棒として雇ってて、良いってのか?」
「お尋ね者じゃないのよ。あのね、兄さん。フェリックスは、獣に食べられそうになったジョナサンとあたしを助けてくれたの。用心棒としては、これ以上ないってほど優秀だわ。大体……今、新しい用心棒を探す余裕がある?」
 ルースが問い詰めるも、オーウェンは納得していないようだった。
「しかし――」
「もし本当に危険な人物だったら、連邦保安官がとっくに捕まえてるはずでしょう?」
 フィービーと取引したことは敢えて言わずにそう告げると、オーウェンは大きなため息をついた。
「わかったわかった。でも、俺はあいつを信用してないからな。いざとなったら追い出すぞ」
 ルースは答えずに腕を組んだ。
「変に、あいつに肩入れするよな――」
 ちくりとする嫌味を残し、オーウェンも幌馬車の方に行ってしまう。
(そういえば、そうだわ。どうしてあたしは、こんなにもフェリックスを庇うのかしら――)
 ルースはしばらく考え込みながら立ち止まっていたが、いきなり肩を叩かれ仰天した。
 しかも振り向けばフィービーが立っていて、余計に驚いてしまった。
「そこの小娘」
 相変わらず、名前を呼ぶつもりがないらしい。いや、覚えてもいないのかもしれない。
「あいつを庇ったことを、後悔しても知らんぞ」
 兄に続き、フィービーがルースに警告する。
「ただの参考人でしょ? 何で、そんなに躍起になってるわけ?」
 ルースはさり気なくフィービーから距離を取ろうとしたが、かえってフィービーは顔を近づけてきた。
「私が見たところ、あいつは見た目より悪い奴だぞ?」
 しばし、ルースの灰色の目とフィービーの緑の目がまともにかち合う。
「そうは、思えないわ」
 正直な気持ちを口にする。自分でも、どうしてこれだけフェリックスのことを信じているのかわからない。されど、言い返さずにはいられなかった。
「――ふん。頑固だな」
 フィービーは諦めたように肩をすくめ、踵を返して行ってしまった。
 ルースがゆっくりと幌馬車のところに向かうと、ちょうどフェリックスが馬の傍らに佇んでいた。
「ルース。フィービーと何か話してたな」
「ええ……」
「何か言ってたか?」
「別れの挨拶をしただけよ」
 ルースは彼の横をすり抜けながら、痛いほどの視線を感じた。さすがに嘘が下手すぎたと自覚する。
「フィービーが別れの挨拶、ねえ。まあ良いや」
 フェリックスの言葉にぎくりとなったルースの頭に、ふわりと手が置かれた。
「ルース、ありがとな」
 ルースが顔を上げたときにはもう、フェリックスは幌馬車に乗り込むところだった。
「用心棒、俺の隣には座るな!」
「えー、何で兄さん。良いじゃん良いじゃん」
「気色悪いぞ!」
「もう、ひどいなあ兄さんってば」
「いい加減、黙れ――!」
 フェリックスとオーウェンのやり取りに、ジョナサンが声を上げて笑っている。
 ルースも微笑を浮かべ、振り向くことなく馬車に飛び乗った。

To be Continued...