3. New Departure

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 ジョナサンとリッキーが皆より早く引き上げた後、ルースは後片付け中に二人にレモネードを持っていくようにイングリッドに頼まれた。
 レモネードを注いだグラスを三つ載せた盆を持って、部屋の前で叫ぶ。
「リッキー、起きてる? レモネード持ってきたから、開けてちょうだい!」
「はいはーい」
 リッキーの応答の声と共に扉が内側から開かれ、ルースは大股で部屋に入った。
 ジョナサンもまだ眠っていなかったらしく、ベッドの上に座っている。こちらを見てにっこり笑った。
「ジョナサン、調子良さそうね」
 グラスを一つ、ジョナサンに渡す。
「うん」
「俺のおかげだろ、絶対」
 リッキーは大言壮語を吐き、レモネードをルースから受け取ってすぐ飲み干した。
「あ、そうだルース。さっきジョナサンと話してたんだけど、やっぱりジェーンさんはフェリックスの元カノだと思うんだ」
「まだ続いてたの、その話。大体、あの二人って年が離れてると思うわよ。フェリックスは十九で、ジェーンさんが二十六で……」
「オレは十四だよ」
「あんたの年は聞いてないわよ」
「へいへい。だけど、年なんて関係ないだろー。うーん、すっげー気になる。もう直球で聞こうか。フェリックスなら、答えてくれるだろ」
「止めなさいよ」
「何だよ、ルースも気になるだろ。ジョナサン、行こうぜ!」
「うん!」
「ジョナサン、あんた寝なくて良いの?」
 ルースは目を吊り上げたが、ここでリッキーがジョナサンを庇った。
「体調良いときぐらい良いじゃん。外に出るわけでもなし、まだ八時だぜ? ……ってことで、行ってきます!」
 リッキーとジョナサンは、どたどたと部屋を出ていってしまい、残されたルースはしばらく虚空を睨んでいたが――意を決して腰を上げた。

 ルースが廊下に出ると、リッキーとジョナサンは居間を覗き込んでいるところだった。
「何やってんのよ……」
「シーッ。部屋にいないと思ったら、ここに二人が……」
 ひそひそとリッキーに耳打ちされ、ルースもリッキーの上に頭を出して居間の様子を見やる。
 ソファの背もたれから、フェリックスとジェーンの後頭部が覗いていた。
「……そうねえ。出発は早いほど……」
 夜だから気を遣っているのか、声が低くてあまり聴き取れない。
「あっ!」
 しかし急に、ジェーンが大きな声を出した。
「忘れてたわ。あんた、フィービーと私の喧嘩止めるときに、“それより良いことしよう”って言ったわよね?」
「な、何だそれえええ」
 小さな声で、リッキーが反応している。
「言ったっけ?」
「言ったわよ。忘れたとは言わせないわよ!」
 そこでジェーンが膝立ちになったので、完全に横顔が見えた。
「ちょ、ちょっと待てジェーン」
「待たないわよ!」
 ジェーンが手を伸ばし、鈍い音がしてジェーンとフェリックスの頭が視界から消える。
「うおおお、ちょおおお」
 興奮するリッキーを押しのけ、ルースは恐る恐るソファに近づいた。
「ルース、止めとけ!」
 振り返ると、リッキーがジョナサンの目をふさいでいるところだった。
「あ、あのね二人共……」
 どもりながら声をかけると、ジェーンが起き上がって振り向いた。
「あら、お嬢ちゃん。どうしたの?」
「どうもこうも……。何それ?」
「ふっふっふ。この子が隠してたの」
 ジェーンは琥珀色の液体に満ちた小さな瓶に、チュッと音を立てて口づけた。
「畜生……それ高かったのに!」
 フェリックスも身を起こして、こちらに気づいてきょとんとした顔になった。
「何か用か?」
「用事ってわけじゃないけど……。なんか、良いことするとか聞こえて……」
「良いこと、ってのは酒盛りのことよー。うっふふ、忘れてたわ。フェリックス、何やら懐に隠してると思ったら――これは美味しいわよ。お嬢ちゃんも一緒にどう? これは水割りが良いかしら? それともストレートで、あおっちゃう?」
 ジェーンは陽気に誘ってきたが、馬鹿らしくなってルースは首を振って後ろを向いた。
「結構です。おやすみなさい」
「うん? おやすみ」
「何だ? ……おやすみ」
 ジェーンに続き、呆気に取られたようなフェリックスの挨拶が背後に響く。
 リッキーとジョナサンは、もういなくなっていた。

 どうしてか顔が火照ってしまったので、ルースは外に出た。外は気温が低く、急激に体が冷えていく。羽織ったストールをきつく体に巻きつける。
(でも……こんなにホッとしたの、久しぶり)
 叔父夫婦が定住を選んだ理由が、わかる気がした。
(そういえば、しばらく歌ってないわ)
 旅路を急いだこともあり、公演はしばらくしていなかった。歌いたい、という気持ちも忙しさにかまけて忘れていた。
(ここでなら、良いかしら)
 家から充分に離れてから、ルースは柵に腰かけた。
 歌声が、喉から滑り出る。
 どこの民謡か忘れてしまったが、羊飼いの歌だった。ここが農場であることを思い出して、自然にこの歌を選んでしまったのかもしれない。
 初めはかすれがちだった声が、調子を取り戻して艶やかに染まる。
 気持ち良かった。歌声が夜空に響く。歌っている、という感覚はルースにとって何事にも代え難い喜びだ。
 たとえ姉のキャスリーンほど光輝な歌姫でなくても、かつてのエレンのような妖艶な歌姫でなくても、実母のヘイリーのような清廉な歌姫でなくても――。
(あたしにしか歌えない歌があると、思いたい)
 歌が好きで、歌を歌いたい。誰か一人にでも、聴いてもらいたい。
 歌っている間は、辛いことも不安なことも忘れられた。
 自然と涙が出ていた。こんなにも自分は歌が好きなのだ、と再確認できたことが嬉しかった。
 最後の一音を紡いで歌を終えると、拍手が響いた。誰かと思って振り返ると、フェリックスが立っていた。
「フェリックス……」
 名前を呟いて、ルースは慌てて涙を拭った。
「何か哀しいことでもあったのか?」
「ううん、違うの。久々に歌ったら、何だか嬉しくなっただけ」
「そうか。いつ聴いても、ルースの歌は良いな」
「お世辞は結構よ」
 気恥ずかしくて、わざと冷たい声を出してそっぽを向く。お世辞じゃないのになあ、と笑い声と共にフェリックスが呟いている。
「何か用?」
「このあたりもコヨーテが出る、って聞いたからさ。護衛してた」
「そうなの? ありがとう」
 ここは素直に礼を言っておいた。
 しばらく、二人は何も言葉を交わさなかった。
「ルース、話があるんだ」
 フェリックスは唐突に、切り出した。
「何?」
「明日みんなにも話すけど――俺は、ジョナサンを治す方法を見つけるために、旅に出ようと思うんだ」
 一瞬、何を言っているのかわからず――少し遅れて、頭を殴られるような衝撃がやってきた。
「一人で?」
「ああ。ジェーンに今回、同行を頼んだのは、そういう理由だ。俺が帰ってくるまで、ウィンドワード一家の護衛をやってくれと頼んだ」
 何と返して良いか、わからなかった。もちろん歓迎すべき申し出だ。ジョナサンを治す方法があるなら、草の根を分けても捜したい。
 なのに、どうしてだろう。フェリックスがいなくなるという事実が、ひどく怖かった。
「……わかったわ」
 だけど「行かないで」とすがる理由は、見つからなかった。

 結局、その夜はあまり眠れなかった。
 ルースは目覚めて、すっかり高くなった太陽に慌てた。
 急いで着替えてから居間に走ると、ちょうどフェリックスがアーネストとエレンに話をしているところだった。
「……そうか。治療法を捜してくれるのか」
「それなら――よろしく頼むよ」
 アーネストとエレンは頭を下げ、フェリックスは困ったように微笑んでいた。
 その顔を見て、「ああ」とルースは思う。彼は、ずっと責任を感じているのだと。
「それじゃ、準備してくる」
 フェリックスは立ち上がり、外に出ていってしまった。

 ルースは玄関から出てすぐ、馬に荷物をくくりつけているフェリックスの姿を目に留めた。
「おはよう、フェリックス」
 声をかけて近づくと、彼はにこやかに笑った。
「ああ、おはよう」
「あのね、話があるの」
「話って?」
 手を止めて、フェリックスはルースをまじまじと見下ろした。
「あたしも、連れていって」
 少し間を置いてから、フェリックスはため息と共に告げた。
「――だめだ」
「どうしてよ!」
「来て、どうするんだ?」
「ジョナサンは、あたしの弟よ。何か、させて欲しい……」
 ルースはうつむき、自分の小さくなる声に苛立ち――毅然として顔を上げた。
「弱音は吐かないわ。迷惑だと思ったら、途中で置いていっても構わない。だから――お願いよ」
 わかっている。銃もナイフも使えないルースは、フェリックスにとってはお荷物だ。頭で、そうだとわかってはいても、割り切れない。
「路銀がかかるでしょう。あたし、歌で路銀を稼ぐわ」
「だけど――」
「一人より二人の方が、聞き込みの時間も半分で済むわ。だから、お願い――!」
 ルースはただただ真っ直ぐに、フェリックスを見据えた。実際は何秒だったのか何分だったのか――永遠のように長くも一瞬のように短くも思えた間の後で、フェリックスは目を伏せた。
「わかったよ」
「本当?」
「それなら、俺も連れていけ」
 いきなり第三の声が響いて、ルースもフェリックスも声の主へと首を巡らせた。
「兄さん?」
「ジョナサンは俺の弟でもある。ルース、歌だけよりギターもあった方が良いだろう」
 話を振られ、ルースはぎこちなく頷いた。
 まさか兄がこう切り出すとは思わず、フェリックスに負けず劣らず驚いてしまっていた。
「兄さんも?」
「ああ。聞き込みの効率も、三倍になるだろう」
「どういう風の吹き回しかなあ。でもまあ、有り難いといえば有り難いよ。路銀は確かに不安だしな」
 フェリックスは吹っ切れたように笑顔を取り戻し、馬にもたれて二人を見やった。
「それじゃまあ、三人旅といきますか」

 ルースとオーウェンは一緒に、アーネストに話をしにいった。最初は渋い顔をしていたものの、結局アーネストは二人に説得されて許可を出してくれた。
「お前さんは良いのかい、フェリックス」
「俺は構わないよ」
 アーネストに尋ねられ、フェリックスは飄々《ひょうひょう》として答えた。先ほど自分も渋っていたことを、忘れているかのようだ。
「出発は今日のつもりだったんだけど――明日にしよう。兄さんもルースも、明日出発できなかったら普通に置いていくから、さっさと用意しておいてくれよ」
 それだけ言い残して、フェリックスは外に出ていってしまった。
 ルースは荷造りするべく一旦自室へと戻ろうとしたが、はたと大事なことを思い出した。
(ジョナサンにも、言わなくちゃね)
 聡い子だ。嘘をついてもばれてしまうだろう。

 ジョナサンは、本を読んでいるところだった。
「ジョナサン、おはよう。本読んで大丈夫なの?」
「おはよう、お姉ちゃん。うん、今日は調子良いんだ」
 ジョナサンはにっこり笑ったが、それでもやはり血色はあまり良くなかった。
「あのね、ジョナサン」
 ベッドの傍らに置いてあった小さな椅子に腰かけ、ルースは真っ直ぐに弟を見つめた。
「あんたの治療法を捜すために、フェリックスと兄さんとあたし――しばらく留守にするからね」
 びっくりしたのか、ジョナサンは大きな目を更に見開いていた。
「三人で?」
「そう」
 ジョナサンは、心配していたような恐慌状態には陥らなかった。ただ静かに、受け入れていた。それが少しルースは不安だった。
「ここなら、リッキーもいるしね。すぐに戻ってくるわ」
「うん、わかった」
「行く前に……ジョナサン、あたしに何かして欲しいことない?」
 ルースの質問に、ジョナサンは目をぱちぱち瞬かせた。
「して欲しいこと?」
「ええ。できる限り、何でも叶えてあげるわ」
 泣きそうな表情を誤魔化すべく笑顔を浮かべると、ジョナサンは「うーん」と唸った。
「何でも良いの?」
「ええ、良いわ。言ってごらんなさいよ」
「じゃあ――フェリックスと結婚してよ」
 ルースは動揺のあまり、もう少しで椅子から転げ落ちてしまうところだった。
「何で、そうなるのよ!」
「だって……お姉ちゃんとフェリックスが結婚すれば、フェリックスは僕のお兄ちゃんになるもの」
「あんたにはオーウェン兄さん、っていう兄さんがもういるでしょう!?」
「もう一人欲しい」
 まさか、こんなことを言われるとは。少しも予想していなかったルースは、頭を抱えた。
「大体ね、お姉ちゃん。フェリックスは用心棒なんだから……僕らが定住したら、お別れなんだよ。それは淋しいよ」
 指摘されて、ルースはハッとする。
 まだ父は特に何も言っていないが、その可能性も大いにあるのだ。
「もし、お姉ちゃんと結婚したら、ずっと一緒にいてくれるよ?」
「……あのね、ジョナサン。馬鹿なこと言わないで。もし、あたしたちが定住することになって、フェリックスとお別れになっても――それは仕方のないことなのよ」
 ルースは言い含めるように、静かな声音で語る。
 ジョナサンは返事をせずに、かけ布団の下にもぐってしまった。
「ジョナサン。あたしの話、聞いてる? あんたがフェリックスによく懐いてるのは、知ってる。……でも、あたし一人じゃ……どうしようもないことでしょう?」
「むー」
「お願い、顔を見せて」
 ルースが必死に訴えると、ジョナサンは布団から少しだけ顔を出した。
「フェリックスと結婚してくれる?」
「――それは、あのね……」
 まだ動揺が収まらなかった。
「僕、お似合いだと思うけどな」
「そういう問題じゃないと思うわ」
 どう答えれば良いのだろう。はねつければ、さっきのようにジョナサンは、すねるだろうし、もし請け負えば無責任なことになる。
「――考えておくわ」
 無難な答えをようやく口にすると、ジョナサンは満足そうに笑った。