ニライカナイの童達

第二部

第十三話 接触



 かくして、ククルのトウキョウ暮らしが始まった。
 祥子は言っていた通り、新しいアニメを一緒に観るぐらいで、悪さなどは一切しなかった。
 前の家から持ってきたテレビに、美麗な絵が踊る。
『きゃーっ。秋原《あきはら》様、相変わらずよいお声……』
「秋原様って誰?」
『超人気声優よ!』
「声優……かあ」
 祥子の説明によると、アニメのキャラに声を当てているひとを声優と言うらしい。しかし、テレビの概念すら未だによくわからないククルにとって、アニメの概念は難しい。なぜ、声を当てるのか。そこからして、よくわかっていない。
 ふたりでアニメを観ている傍らで、ユルは壁にもたれかかって座り、本を読んでいた。
 ユルはことあるごとに「浄霊した方がいいんじゃないか」と言って、祥子を怯えさせている。
(でも、祥子さん親切だからなあ)
 トウキョウに慣れていないククルに丁寧に店の場所などを教えてくれるし、一般常識も嫌がらずに講釈してくれる。
 幽霊に頼りすぎてはいけない、とはわかっているのだが。
 アニメが終わったタイミングで、ユルが口を開く。
「で、どうだったんだ。予備校」
 ユルは退魔の仕事でさっき帰ってきたところなので、予備校初日の感想をまだ伝えていなかったのだ。
「あ、うん。そうだねえ……。難しそうだけど、頑張ろうと思うよ」
「ふうん」
 ユルは素っ気なく返事をして、本を閉じた。
 もちろんククルは一番下のクラスなのだが、それでも授業は難しく感じた。夏に決めてから必死に勉強していたつもりだが、まだまだ足りないようだ。
「志望校に届くよう、頑張るよ」
 ククルの志望校は、大和・琉球文学の学部がある大学だ。大和文学だけなら他にもたくさんあるが、琉球文学も取り扱っている大学は少ない。
 琉球文学だけなら琉球の大学の方が専門家が多いのだろうが、ククルはどちらも学びたかったのだ。
「ああ、そうだ。……お前、予備校で変なのに声かけられても、ついていくなよ」
「変なのって、どんなの?」
 いきなりの忠告に戸惑って首を傾げると、ユルは舌打ちした。
「知らないやつについていくな、ってことだ」
「……はあい」
 返事をしている間に、ユルは居間を出ていってしまった。
(でも、知らない人についていっちゃだめなら、友達できないよね)
 少しならいいのかな、と思ってククルはエンディングが終わって少し経ってから、テレビを消した。
『あー、この後、魔女プリンの放送あるのにー』
「ごめんね、祥子さん。私、もう寝るから。つけっぱなしにしてたら、この前ユルに怒られちゃったし」
 祥子の要望に応えてテレビをつけたままにしておいたら、翌朝ユルに叱られたのだ。もちろん、祥子もだが。
『うう、残念。でも、私じゃ電源消せないしね。わかったわ。ククルちゃん、おやすみ』
「おやすみ、祥子さん」
 挨拶をして、ククルは自室に戻った。
 そう広くはないが、自分の部屋があるのはいい。そんな物件が格安で借りられたのはやはり、いわくつきだからだろう。
 祥子は自分に気づいてもらいたくて、下見に来たひとに対してポルターガイストを起こしていたらしい。それはもう、みんな逃げるというものである。
(所長さん、これも見越しての紹介だったのかな)
 何せ千里眼を持つ伽耶のことだ。ククルには計り知れない考えの持ち主なのだろう。
 その日、初めての予備校で疲れていたククルは勉強は朝にしようと決めて、さっさと眠ってしまった。
 
 朝早く起きるつもりが、昨日と同じ時間に起きてしまった。予備校には間に合うからいいのだが、自習できなかったことを悔やみながら、居間に向かった。
 いい匂いがする、と思ったらユルがローテーブルに食器を並べていた。そういえば今日は、ユルが朝食当番だった。
 家事はふたりで半分ずつの分担という取り決めを交わしたが、ユルの仕事があるときはククルが代わることになっていた。
「ユル、おはよー。いい匂い。アーサー汁? アーサ(あおさ)売ってるんだね」
「ああ。昨日、スーパーで琉球物産展やってたから、琉球の食材いくつか買っておいたんだ」
「わー。今日もやってるかなあ」
「しばらく、やってるんじゃねえか」
「じゃあ、見に行こうっと」
 配膳を手伝いながら、ククルはうきうきとした気持ちで微笑む。
 大和に来てまだ少ししか経っていないのに、もう故郷の味が恋しいとは妙なものだった。
 おいしい朝食を終えた後、ユルはせわしなく立ち上がった。
「今日は、一限目から?」
「ああ。のんびり食い過ぎた」
 ユルが食器を片そうとするので、ククルは「私がやっとくよ」と笑顔で申し出る。
 ククルは、後片付けしてからでも十分に間に合う時間だった。
「悪い」
 それだけ言い残して、ユルはあっという間に支度して、家を出ていってしまった。
 ククルは鼻歌を歌いながら、食器を洗う。
 後ろでは、祥子が朝からやっている幼児向けアニメを熱心に観ている。何でも、それにも好きな声優が出ているそうだ。
「さてっと。行く用意しないとね」
 ひとりごちて、ククルは食器を洗い終えた。
 
 予備校二日目。
 全ての授業が終わった後、ククルはぐったりとして、座ったまま眠り込んでしまいそうだった。何せ情報量が、多い。
 ふと周囲を見やる。すでに友達グループを形成している一団もいれば、予備校はあくまで勉強の場と割り切っているのか、ひとりで行動している者もいる。
 ククルは、どちらでもなかった。
 誰か話しかけてくれないかな、と密かに待っているのだが、今のところ接触してくる子はいない。
(そういえば、薫ちゃんもあっちから話しかけてくれたんだった……)
 こういうとき、自分の引っ込み思案さが嫌になる。
 しかし今日も勇気がなくて、ククルは立ち上がって、こそこそと教室を出る。
 その瞬間、廊下に立っていた男子に声をかけられた。
「いよーっす」
「い、いよっす?」
 見れば、髪を茶に染めた男子がこちらを見て微笑んだ。
「同じクラスっしょ、和田津さん」
 なんと、ククルの苗字を覚えている。驚いて、ククルは鞄を落としてしまいそうになった。
「よかったら、一緒に帰らない?」
 誘われて、ククルはあっさりと頷いてしまった。
 
 彼は伊藤《いとう》明《あきら》と名乗った。
 予備校を出て、歩きながらふたりは会話を交わす。
「いやー、前から気になってたんだよね、和田津さん。なんか動作が小動物? っぽくて」
「しょ、小動物……?」
 褒められているのだろうか。
「ちょっと訛りあるよね。トウキョウ出身じゃないっしょ?」
「う、うん。故郷は琉球」
「琉球!? そりゃ遠いところから来たんだなあ」
 いちいち言動が大げさだが、伊藤は悪いひとには見えなかった。
(変なやつについていくな、ってユルに言われたけど……大丈夫だよね)
 うん、と頷いて伊藤を見やる。彼は、にへらと笑った。
「ちょっと怯え気味なところが、小動物っぽいっていうか? かわいいよね」
 かわいい。
 ティン以外の男性には初めて言われたのではなかろうか、とククルは頬を染めた、
「うわー、赤くなった。ますます、かわい……」
「おい」
 そこで、低い声が響いた。
 どうしてユルが、ここに立っているのだろう。
 疑問に思う間もなく、腕を引っ張られる。
「変なやつについていくなって、言ったろ!」
 耳元で鋭く囁かれ、ククルはゆっくりと首を巡らせる。
「伊藤くん、いいひとだよ?」
「いいひと? いつ知り合ったんだ?」
「ついさっき」
「それだけで判断するな、馬鹿」
 なぜ叱られないといけないのだろう、とククルはふくれた。
 しかし、この場の状況に一番疑問を抱いていたのは、当の伊藤だったろう。
「あのー、和田津さん。そのひと、誰?」
「し、親戚」
 それだけ答えて、ククルはユルを振り返る。
「今日、退魔の仕事あるって言ってたよね。なのに、どうしてここにいるの?」
「所長が、お前を呼んでこいって言ったんだよ。……行くぞ」
 そのまま腕を引かれて、歩かされる。
「ちょ、ちょっと待ってよ和田津さん。そいつ、ただの親戚なの?」
 伊藤が追いすがってきたので、ユルが足を止めて告げた。
「一緒に住んでる“親戚”だ。じゃあな」
 ククルが伊藤に「また明日!」と声をかけても、伊藤は返事もせず呆然として佇んでいた。

 そのまま道を歩きながら、ククルはユルを見上げた。
「せっかく、友達できるかもしれなかったのに。あ、もう友達になれたかな」
「あいつは、止めとけ。下心しか見えなかった」
「えっ!? ユル、伊藤くんが私にかわいいって言ったこと聞いてたの?」
 その問いに、ユルは足を止めた。
「聞いてなかったけど。オレの勘は正しかったな。あいつには金輪際関わり合うな」
「どうして……」
「あいつと付き合いたいのか?」
「それは、別に」
 今日、初めて存在を認識したようなひとだから、そんな感情は生まれようがなかった。
「なら、そうしろ。変に気を持たせるな。オレは高良のおじさんおばさんからも、ミエさんからも、お前のこと頼まれてるんだ。わかったな」
「……わ、わかった」
 たしかにここでは、実質ユルに頼り切りで、彼が保護者のようなものだ。
「ところで、教えて。どうして私を呼べって言われたの?」
「お前の感知の力を借りたいそうだ。最近、トウキョウに小さな妖怪が広がっているらしい。その正体を突き止めるためだ。お前はエルザと組め」
「エルザさんと?」
 脳裏に、あの金髪美女が浮かぶ。正直苦手な相手だったが、ユルをこうして呼びにやらせたということは、相当切羽詰まっているのだろう。
 伽耶には世話になっているし、この話は受けるしかなかった。
 かくして、ふたりは退魔事務所に向かったのだった。

 辿り着いた退魔事務所では、既に所員が待機していた。
 エルザも不機嫌そうに、腕を組んでいる。
「さあ、みんな早めに妖怪を捜してちょうだい。ククルさん、ごめんなさいね。お礼はするから、許してちょうだい」
「いえ、はい……」
 伽耶にそうとまで言われては、頷くしかなかった。
 ユルは弓削と一緒に連れたって行ってしまい、ククルとエルザも出発する。
「ワタシたちは、南東担当よ」
 素っ気なく言って、エルザが先に歩き始める。ククルは慌てて彼女を追ったが、何せ足の長さが違う。追いかけるのにやっとで、並んで歩くなんてできそうにない。
「あ、あのエルザさん」
「何」
「エルザさんて、ユルの彼女だったんですか?」
 この機会に聞いておこうと思ったのだが……恐ろしい形相で振り返られて、ククルは心底後悔した。
「ひいっ!」
「ケンカ売ってるの? ナハトは、アタックしてもアタックしても振り向かない難攻不落よ! でも、そこが好き!」
 結論に驚きながらも、ククルはホッとしていた。
(なあんだ、付き合ってもいなかったんだ。……って、私……だめな子だ。もしユルが誰かと付き合ったり結婚したりするなら、ちゃんと祝福しないといけないのに)
 ククルがぐるぐる考えていると、エルザは勝手に語り始めた。
「ワタシはナハトを初めて見たとき、驚いた。あんなオーラをまとった人間は、初めてだった」
「あれ? エルザさんって、感知は弱いんじゃ……」
「さすがに正面から見れば、そういうことはわかる! わかるでしょう、ナハトのスペシャルなオーラ!」
「……うん」
 おそらく、神の子だからだろう。しかしユルはエルザには話していないようなので、ククルは頷くだけにしておいた。
「あのー、私にもそういうのは感じない?」
 一応先祖返りなんだけど、と思いながら問うとエルザは「はあ?」と眉を上げた。
「あなたは、とても凡庸。カヤが、あなたがスペシャルなシャーマンと言っていた意味もわからないぐらい」
「そ、そこまで……」
 ユルに比べて神気がないのはわかっていたが、凡庸とはっきり言われてククルは肩を落とした。
「ところで、あなたってナハトの何なの?」
 エルザはいきなり振り返って、問いかけてきた。
「何って……」
 親戚以外の答えを持たないククルは、「親戚」としか答えられない。
「あなた、ナハトに興味はないの?」
「興味って……。私とユルは、そんなんじゃないし。兄妹、みたいなものなの」
 歩きながら早口で答えると、エルザはにこっと笑って「じゃあ、いいわ」と前を向いた。
 そのまま五分ほど歩いていると、ククルはぞくっと寒気を感じた。
「待って。いる!」
「……どこに」
 ふたりは足を止め、囁き合った。
 この気配は……
 後ろだ。
 そう思ったときにはもう、ククルの中に何かが入り込んでいた。
 しかしククルは目を見開いて、祝詞を唱える。すぐに中に入っていた黒い影は、ククルから抜け出る。
「逃がさない!」
 エルザが手をかざすと、炎の玉が影にぶつかって弾けた。
 消滅を確認して、ククルはホッと胸を撫で下ろす。
「訂正するわ」
 いきなりエルザがそんなことを言い出したものだから、ククルは目をぱちくりさせた。
「さっきのあなた、ナハトと同じオーラだった。スペシャルなシャーマンなのは、間違いないみたいね。さあ、他のデーモンも捜すわよ」